西暦 | (年号) | 年齢 | 出来事・調査 |
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1907年 | 明治40 | 0歳 |
8月1日 山口県大島郡東和町長崎(旧家室西方村大字西方1962番地)に父・善十郎、母・まちの長男として生まれる。 旧暦では弘法大師の生まれた日で、周囲の者は偉い人になるだろうと噂した。 |
1910年 | 明治43 | 2歳 |
幼少の頃は鎮守(下田八幡宮)の森で遊ぶのが楽しかった。 |
1912年 | 大正1 | 4歳 |
*初めてオイコをこしらえてもらい山に行く。 祖父について山に行くのが楽しみであった。村の人は常一を「じいさんのドーラン(胴乱)」といった。 |
5歳 |
8月31日 玉田あさ子出生。 |
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1913年 | 大正2 |
1月 正月すぎに祖父に連れられて呉で職工をしていた叔父音五郎を訪ねる旅をした。呉には一月ほど居た。 *両親、祖父についてよく山に行った。白木山から遠くの山々(島々)が見えるのが嬉しかった。父にその島々の名を教えて貰った。 |
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1914年 | 大正3 | 6歳 |
4月 西方尋常高等小学校に入学。 読方はあまり好きではなく、一学期は乙で父に叱られた。絵が好きで、学科にはなかったがよく画いた。 夏 日独戦争戦勝記念の旗行列をする。 |
1915年 | 大正4 | 8歳 |
秋 御大典のお祝いが行われた。 奉祝門が所々にたてられ、村人は村中を踊って歩いた。夜は芝居や踊りがあった。 この年、弟市太郎が叔父音五郎の養子となる。 |
1916年 | 大正5 |
*中耳炎を患い、左耳は殆ど聞えなくなる。 *秋頃から夜曳に行くようになる。 星空の下、浜辺の焚き火を囲んで大人たちの話を聞く楽しみを知る。 |
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1917年 | 大正6 | 9歳 |
*不幸な友人を思いやり、山の井戸に棲む亀に涙をそそぐ、感じ易く泣き味噌の少年であった。 |
1918年 | 大正7 | 10歳 |
*植田という先生が担任になった。 短気でよく殴る人であったが本をよむとき一種口調があり、それを聞くのが何よりすきであった。その影響で読方が好きになり、読方の本を一冊まる覚えにして見た。成績が一番になった。 |
1919年 | 大正8 | 11歳 |
*きらいな教師が担任になり、成績はいちじるしく下がった。 友人から雑誌「日本少年」などを借りて読むことをきっかけに、豆本(講談本)をよく読むようになり、翌年にかけて一〇〇冊を下らない講談本を読む。また学校にたくさんあった世界お伽話の本もよく読んだ。 *少年団を組織し、夜子供を集めて勉強会をした。この少年団は二年ほど続いた。 |
1920年 | 大正9 | 12歳 |
*白井という師範出の先生によって大和田建樹、徳富芦花、国木田独歩、高山樗牛、坪内逍遥などの名を知り、... 母の実家の二階を探して、『自然と人生』、中学の国語教科書などを読む。中でも『平家物語』を愛読した。ここで「講義録」のあることを知った。 *家が貧しかったので、盆でも働かされた。 しかし、時に一日くらい暇をもらうことがあった。そういう時には気のあった友人と山野を跋渉した。旅を恋うる心がすでに芽生えていた。 |
1921年 | 大正10 | 13歳 |
4月 国民中学講義録をとりはじめる。 *旺盛な読書力で色々な本を読む。雑誌「日本少年」「少年世界」「少年倶楽部」「世界少年」「冒険少年」などを級でとって読み、仁助叔父が送ってくれた「海国少年」「一二年の中学生」をむさぼり読んだ。また『寺内元帥伝』『乃木大将伝』『不如帰』『大正の青年と帝国の前途』『青芦集』『肉弾』『思ひ出の記』などを読んだ。残念なのは周囲にすぐれた文学書のなかったことである。 6月2日 白井先生が沖家室校にかわる。 生徒は皆声をあげてないた。師を送るにあたって泣けたのは之がはじめである。実にいい先生であった。その日先生が私に下さった「児等よ」の一文は巻紙二丈にあまるものであり、長く肌身はなさず持っていたが、どうしてか失ってしまった。 *先生は多くの唱歌を作って我々にうたわせた。 「希望の歌」「健児の歌」などは今もそのまま歌詞を覚えている。私にとっては実に大切な人で、文学に親しむ途はこの人がひらいて下さったのである。 6月 兼田先生を迎えた。 先生と合わず、秋一〇月、学校前の城山に上って先生排斥をやった。ために先生はやめてしまわれた。この先生は実に立派な方であったが、非常に不運で、今にしてこの時の態度を遺憾に思っている。先生とは、今、実に親密である。この先生によって『瀬戸内海論』を読んだ。 |
14歳 |
11月以降、担任の先生なく、殆ど宮本が教えた。採点その他も宮本がした。 |
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1922年 | 大正11 |
3月20日 西方小学校卒業。 家で農業に従う。夜は梅田先生の許に通い勉強。本を持っていると聞くと仕事の帰りや、夜借りに行き、村にある目ぼしい本はたいてい読んだ。講義録も熱心に読む。神戸の叔父が修養団に入れてくれる。 |
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15歳 |
8月 安下庄町で行われた郡内中堅青年講習会に出席。 この時に行なわれた雄弁大会に出て喝采を博した。出席者中一番年少であった。講習を終えて帰村し、直に講演会を開いた。会場は蚕の共同飼育所、講師は升田仁助海軍大尉、後藤佐四郎先生。この時、宮本は青年会館の必要を説き、これがきっかけとなって二〇〇余名収容の会館が建設される。 秋 講義録とり終える。 *この頃から和歌を作りはじめる。 「新国民」に投書、一年下の組の者が作っていた回覧雑誌によく書かされ、また大島郡教員有志の雑誌「みどり」にも時々文章を載せて貰った。 |
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1923年 | 大正12 |
2月 青年会幹事に当選。 一七歳(数え年)の幹事は村でも未曾有の出来事であった。 3月27日 祖母脳出血にて逝去 4月 姉が女学校の編入試験を受けて行く事になり、宮本も志を父に告げ、承諾を得て上阪。 春雨の降る日、多くの友人に見送られての首途であった。父は大畠の駅まで送ってくれた。 4月 大阪に出る。 大阪市北区中江町市場の叔父音五郎の家に寄宿し、... 久しくわかれていた弟と暮すことになる。弟は西野田職工学校に行っていた。叔父の家は餅屋で、しばらくその手伝いをする。 *郵便局にはいるため大阪中央局にいくと、逓信講習所の受験をすすめられ、受験する。 指頭試験とメンタルテストで失敗するも学科は平均九三点で三番であった。 五月末 逓信講習所入学。C組で松本繁一郎先生担任。森本重太郎、石井孝三、桐山栄一と交わる。 |
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16歳 |
11月 多武峰遠足 |
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1924年 | 大正13 |
4月 吉野遠足 5月 逓信講習所卒業、高麗橋郵便局勤務。 7月 叔父の家をでて櫻宮に下宿。 一月にして釣鐘町二丁目の矢野方に移る。日給一円、部屋代一〇円、電燈代五〇銭、朝食一五銭、昼二〇銭、晩二〇銭。一日二食にして本を読む。七時間勉強、五時間睡眠を実行する。部屋代を節約のため友人由利範雄君と同宿する。 |
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1925年 | 大正14 | 17歳 |
4月 高等文官を志し高等試験令七条試験を受験、三科目のみ合格。 |
18歳 |
夏 脚気を病む。 9月 専検を受験するも課目合格のみ。 *郊外の森河内に引っ越す。一戸建て、家賃一二円、電燈代六〇銭、新聞一円 11月 脚気悪化のため帰省。 一〇日くらい遊んで帰る。由利君腹膜炎に肺尖カタル併発し一二月二〇日すぎ丹波に帰る。 |
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1926年 | 昭和1 |
2月 天王寺師範二部受験し合格。 応募者四六〇人、内無試験入学資格者九〇名、募集一二〇名。森河内から東野田に移り、渡辺氏と自炊。 3月 活動写真を上阪以来はじめて見る。 以後よく観るようになる。 4月9日 天王寺師範入学 *健康回復 体重一五貫(五六Kg)を越える。 |
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19歳 |
8月 『金槐集』を読み、短歌創作の意欲燃ゆ。 論文「源実朝の歌」を書く。校友会誌にその要約を載せる。文才を金子先生に認められ、作家を志望するにいたる。 12月23日 東京高師受験のため上京。 東京で年を越し、昭和2年1月19日帰阪。高師受験は歴史で失敗。 12月23日上京。昭和2年1月19日帰阪。 |
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1927年 | 昭和2 |
1月 大宅壮一を新潮社に訪う。 その鋭い観察眼に敬服。江古田の海外学校に力行会の永田稠氏を訪う。郵便局時代から力行会に関係し、大阪支部の幹事をしていた関係。 1月19日 伊勢神宮に参拝し大阪帰着。 *一カ月一万頁読書を計画。 川上眉山全集を手始めに自然主義文学の殆どを読み、卒業までに二万三〇〇〇頁ほどを読んだ。これによって明治文学の大体を明らかにし、大正文学のアウトラインを把握する。 3月24日 天王寺師範卒業。 3月31日 大阪府泉南郡有真香村修斉尋常小学校に訓導として赴任。 等級八級下俸、俸給50円。 |
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20歳 |
8月 一年現役兵として八連隊に入隊。 ここで同窓の有松佐一郎と親しくなり、彼によってファーブルを知り、柳田國男の名を知った。 9月 祖父逝去。 9月12日 現役兵除隊、修斉小学校に帰任。 五年生を受け持つ。最初は宿直室におり、後に神須屋に家を借り、田中清次と同居。学校では殆ど教室にいることなく山に行っては遊んだ。子供らはよくなついた。 |
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1928年 | 昭和3 |
*高師受験は断念。 友人重田堅一の援助によって天師の専攻科を受験し合格。 3月31日 小学校令施行規則第122条第3号により休職。 4月 専攻科(地理専攻)入学。 北区沢上江町の松本先生宅に寄宿。松本先生は高等文官試験に合格し大阪地方裁判所の判事になっていた。 *友人の檜垣月見、勤務校をしくじり行方不明となる。 檜垣は極端なニヒリストになっており度々自殺をはかるなどのことあり。友人一同心配して重田の勤務校である真田山に度々集まって対策を協議する。真田山時代と称す。 |
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1929年 | 昭和4 | 21歳 |
3月24日 専攻科卒業。 3月31日 泉南郡田尻尋常小学校に訓導として赴任。 5年生担任。等級七級下俸、俸給60円。 *外国映画を観はじめる。田尻の家は多くの人々の宿となり、近隣の人々名付けて浪人街という。 |
1930年 | 昭和5 | 22歳 |
1月1日 徳島に、松本先生の家で元旦を迎える。 先生は前年七月徳島に転任になっていた。三日徳島をたち琴平、高松経由大阪に帰る。 1月4日 発熱、40度。 肋膜炎、危篤状態におちいる。3月ようやく離床。 4月から学校復帰の予定は校長の反対にあい休職。父母に守られて帰島。 1月1日徳島、3日徳島発琴平〜高松経由帰阪。4月大島に帰る。 5月 再度発熱、肺尖カタル。 秋一〇月まで寝たきりの状態が続く。 *病中、再び歌を作りはじめる。 気分の良い日には毎日一〇〇頁くらい読書。ファーブルの『昆虫記』『長塚節全集』『正岡子規全集』『万葉集』『古事記』、芭蕉の諸著などを読む。 *病後起きられるようになると、... 毎日神宮寺に通い書庫の整理をはじめる。五〇〇〇巻の仏書の整理に一カ月半かかる。 *神宮寺の令嬢、みどりさんに『万葉集』の講義をする。 5月 『丹壺』(第一期)創刊。 編集発行 重田堅一。昭和7年1月25日発行分までの8冊が宮本家にある。号数揃わず欠冊ありか? |
1931年 | 昭和6 | 23歳 |
3月24日 退職。 *春頃から月一回ずつ青年会月例会に話にいく。 *『大島郡誌』執筆の計画をたてる。 「史論編」「地理編」「民俗編」に分かち、まず「史論編」からはじめる。そのため多くの史書を読む。『日本時代史』『通俗日本史』『倒叙日本史』『防長回天史』などおおよそ一三〇冊に目を通す。秋『大島郡史論』脱稿。 *弟市太郎、神戸高工を卒業しダヴァオへ渡航。古川拓殖会社に勤める。 *「島の昔話を三〇ばかり柳田國男先生へ書き送ったのが因となって、... この先生の知己を得、民俗学に興味を抱くようになった。そうして島の民俗記事を「旅と伝説」「郷土研究」などに投じはじめた。」とあるが、昔話を柳田に送ったのは昭和4年であろうか? 「旅と伝説」に載った「周防大島」の第1回は昭和5年1月号である。 一二月 柳井宏俊君中学受験準備の家庭教師頼まれ、頑張る。 |
1932年 | 昭和7 | 24歳 |
*天師専攻科の同期生、吉田君と和歌の通信を盛んに行なう。 三月初旬 呉中学受験の宏俊君に付き添い呉に行く。恩師(米井先生)から勤めを勧める電報をもらい上阪。 三月七日 大阪府泉北郡北池田尋常高等小学校に代用教員として赴任。 俸給六〇円。昭和八年一月二七日、本科正教員訓導となる。宿直室に寝起き。 3月上阪。泉北郡北池田小学校に赴任。 六月 明王院に部屋を借りて移る。静かな離れの二階で心和む生活になる。 6月 「丹壺」の会に出席。 「丹壺」は病気になる前に宮本が計画していた文芸雑誌で、宮本病気のため重田が発行者となり、年4回2カ年続けてきたもの。この会合を最後に幕をとじる。 *池田谷の村々をあるく。 とくに信太山は三日に一度はあるくほどであった。また、以前からの念願であった古寺巡礼もこの頃からはじめる。神護寺、高山寺、広隆寺、天竜寺、東大寺、法華寺、法隆寺、秋篠寺、新薬師寺、薬師寺、唐招提寺、興福寺、不退寺、般若寺、十輪院、室生寺、大野寺、当麻寺、観心寺、釘無堂、園城寺、石山寺などを二年間に訪れた。 6月 明王院、池田谷の村々を歩く。 *柳田國男の諸書を読み民俗学徒として立つ決心がつく。 *秋頃「和泉民俗資料」を謄写印刷にて出版? 和泉里談会結成。 |
1933年 | 昭和8 | 25歳 |
1月 父発病。 2月 『丹壷』(第二期)発行。 編集・印刷兼発行人 宮本常一。2号は『ろべり』と改題、発行年月日未記入、昭和8年6月か? |
26歳 |
8月 帰省、2日久賀に講習があり、出かけている時、父の容態急変、11日午前4時永眠。 9月21日 加越の海岸を歩く。 9月25日 「口承文学」第一号を出す。 12月 九州路を歩き、その帰り山口に御薗生翁甫先生を訪ねる。 12月 九州路を歩く。 |
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1934年 | 昭和9 |
3月 主席訓導とあわず辞表提出。 鈴木東一奔走してくれる。 3月31日 泉北郡養徳尋常高等小学校に転任。 5月 和泉郷土談話会を小谷方明、杉浦瓢とはじめる。 |
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27歳 |
8月 隠岐への旅、中国山中を横切り備後山十日市に一泊。 9月21日 台風のため学校倒壊。 9月 堺木曜会を起こす。 参加者は織戸健造、山口康雄、杉浦瓢、鈴木東一、宮本の五人。「口承文学」を木曜会の機関誌とすることに決める。 10月21日 小谷方明宅にて沢田四郎作博士に会う。 沢田博士とはこれが初対面。 10月28日 京都下鴨の石田旅館に柳田國男を訪ねる。 「京都に行く。三条駅にて森元四郎君にあう。初対面。同君の案内にて古本街をあるく。午後、宮川町石田旅館に柳田先生をおたづねする。甚だ感激する。お話を承ること四時間。内容は主として山村調査の様子と、全国同志の動静であった。森君と別れ、新京極を歩いてみる。」(口承文学第7号) 11月4日 「杉浦氏と上神谷の小谷兄を訪う。大阪における民俗学徒の聯携運動を起こさんため。」 11月14日 浜寺海の家で大阪民俗談話会をひらく。 集るもの沢田四郎作、桜田勝徳、岩倉市郎、南要、小谷方明、杉浦瓢、鈴木東一、宮本の8名。以後月1回ずつ例会をひらき歓談することになる。宮本は書記役に選ばれ、ガリ版刷りの「談話会通知」「談話会報告」を出す(和泉郷土談話会はこの日から大阪民俗談話会に合流することになる)。 |
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1935年 | 昭和10 |
*この当時関係している会は民俗談話会、堺木曜会、国語土曜会、斯道会の五つ。 いずれも発起人で世話役であった。 2月11日 養徳小学校廃校となり泉北郡取石小学校にかわる。 七級65円。 3月末 帆船に乗って瀬戸内海を九州に下る。 4月14日 澁澤敬三来阪、第6回大阪民俗談話会に出席。 宮本は初対面。桜田、岩倉はこの年上京しアチック・ミューゼアムに入る。 4月20日 桜田勝徳東京転住のため送別会を心斎橋喜久屋北店にて開催した。岩倉市郎氏の上京はその後、7月14日の例会までの間であろう。 7月31日〜8月6日 東京青山の日本青年館で開催された「日本民俗学講習会」に出席。全国の民俗研究者約150人参加。 全国的な連絡機関を作ろうではないかという話が、柳田國男のいないところですすめられて、宮本が提案者となり、満場一致でということで柳田にも認めさせてしまった。そして、最終日の8月6日に「民間伝承の会」の発足が提案され決定する。アチック・ミューゼアムに泊り澁澤から郷里の漁村民俗誌をまとめるようにすすめられる。 7月〜8月 上京。 |
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28歳 |
9月 民間伝承の会の機関誌「民間伝承」創刊。 10月28日 大阪朝日新聞社講堂において「柳田國男還暦記念講演会」開催。 12月 玉田アサ子と結婚。 |
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1936年 | 昭和11 |
2月1日 「近畿民俗」創刊。 発行は「近畿民俗刊行会」。 5月 「近畿民俗刊行会」を「近畿民俗学会」と会名変更。 「昭和一一年五月一〇日に開催された民間伝承の会大阪支部例会(大阪民俗談話会)で会名変更が決定された?」大阪民俗談話会と「民間伝承の会大阪支部」の関係は? 6月6日・7日 吉野西奥調査 五条・釜井戸・黒渕・城戸・天辻・天川・広瀬・山西・庵住・川合。 7月 『周防大島を中心としたる海の生活誌』アチック・ミューゼアムより出版。 |
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29歳 |
8月14日 祖母亡くなる。 8月から吉野西奥の村々を歩く。 〔吉野西奥調査〕宗桧村城戸・天辻・簾・塩野・坂本・中原・野迫川村今井・柞原・陣ヶ峰・高野。 9月19日〜12年3月20日 25回にわたって近畿民俗学会主催の連続民俗学講習会を大阪懐徳堂において開催。 11月22日〜23日〔吉野西奥調査〕天川村広瀬・天辻。 |
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1937年 | 昭和12 |
5月14日〜22日 アチック・ミューゼアムの瀬戸内海巡航に同行し東瀬戸内海の島々をまわる。 岡山・八浜・宇野・味野・釜島・与島・岩黒島・櫃石島・下津井田ノ浦・六口島・手島・小手島・佐柳島・真鍋島・小飛島・大飛島・走島・魚島・高井神島・股島・伊吹島・室浜・志々島・高見島・塩飽本島・牛島・沙弥島・坂出・瀬居島・牛窓・前島・豊島・男木島・女木島・高松。東瀬戸内海の島々をまわり刺激を受ける。 |
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30歳 |
12月 長男千晴出生。 |
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1938年 | 昭和13 | 31歳 |
10月16日・17日 飛騨の旅。 12月26日大阪発(車中泊)、27日東京(三田アチック)上野発(車中泊)、28日福島石田(恵雨会講習会)、29日講習会、30日霊山神社参拝・福島・奥羽本線・秋田、31日秋田扇田、1月1日扇田、2日扇田・青森・三戸・田子、3日田子、4日田子・北福岡・晴山村、5日晴山村・観音林・北福岡・平泉・車中泊、6日東京(アチック)、7日東京(成城柳田邸)・車中泊。 滋賀県湖北の山村を歩く。 |
1939年 | 昭和14 |
2月 口内炎を病んで臥す。 森信三の見舞をうけ、満州建国大学の助手として渡満するようにすすめられ、意大いに動き、東京にいる親友岩倉市郎に手紙を出す。 4月 澁澤敬三より至急上京せよとの電報をうけ上京。 満州へ行くまでの間、全国を一通り見て歩くようにすすめられ、すぐ教師をやめるべしと説得される。考慮を約して帰阪。 4月 上京。 8月26日~29日〔吉野西奥査〕上市町・大淀町(岸田定雄出征につきお別れに)・下市町・大塔村篠原・惣谷・中井傍示・辻堂・殿野・坂本。 |
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32歳 |
九月 再び澁澤敬三より、教師をやめて上京すべし、と長文の電報をうけ、漸く決心する。 9月30日 退職。それより吉野西奥を歩く。 10月7日〜16日〔吉野西奥調査〕宗桧村城戸・平雄・勢井 天川村中越・押之内・篠原 十津川村迫・温泉地・上葛川・玉置川 10月17日 大阪民俗談話会第51回例会後、戎橋天琴楼において宮本常一送別会開催。 10月25日 上京、アチック・ミューゼアムに入る。妻子は大阪におく。三畳の部屋に起居。 10月 上京。 11月17日~12月4日 中国山地民俗採訪調査 アチック入所最初の調査旅行。 11月17日松江・笠浦・野波村野井・大蘆村、18日大蘆・御津村・恵曇村片句、19日片句、20日片句・江角・松江、21日島根県那賀郡跡市村(森脇太一)・田所村鱒渕(田中梅治)、22日鱒渕、23日鱒渕・大朝、24日~27日大朝寒曳山裾の田丸義人宅(腹痛で26日まで臥す)、28日大朝・八幡・樽床、29日樽床・横川、30日横川・石見広見・紙祖・三葛、12月1日三葛・鹿足郡蔵木村河津・金山谷・山口県高根村向峠、12月2日向峠、三日向峠・本郷村・広瀬村、4日広瀬・岩国。 |
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1940年 | 昭和15 |
1月23日から2月末まで南九州民俗調査。 1月23日~母と福岡旅行 23日(24日?)大畠発福間(宮地嶽参拝)・福岡、25日香椎宮・箱崎八幡・太宰府・観世音寺、26日福岡(母大島へ)発、27日朝鹿児島着。 〔屋久島調査〕 〔大隅半島調査隈〕 4月 伊豆西海岸を桜田勝徳と調査。 あと桜田と別れて富士吉田から山梨県都留・秋山・上野原まで歩く。 5月18日~6月4日 桜田徳と宝島調査。 18日間滞在。6月16日奄美大島名瀬着、喜界島を歩き、帰途山口によって郷土資料を筆写し7月東京帰着。 4月には満州に行くはずになっており、留守中に大山彦一教授が正式交渉にきたが、澁澤が満州行きを断ったので断念する。 |
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33歳 |
9月 澁澤と出雲山口をあるく。 〔澁澤と出雲山口の旅〕 11月8日~12日 新潟県葡萄山北から山形県大鳥に越え、... 山形・秋田・青森・岩手・福島を歩く。主としてオシラ様を調べる。 新潟〜山形〜秋田〜青森〜岩手〜福島。 *この頃からウェルターのブローニ判で写真を撮る。 |
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1941年 | 昭和16 |
1月 郷里の農具調査。 2月 愛媛・高知・徳島を歩く。 3月2日夜、伊予土佐国境の永い旅からの帰途沢田四郎作宅に立ち寄り、調査談をする(「雪の伊予土佐採訪記」『大阪民俗談話会会報』昭和16年度第4号〜第6号)。 4月 淡路沼島調査(16日~18日)。 兵庫県沼島 7月 津軽川倉・小泊調査。 主としてオシラ様調査。 青森 |
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34歳 |
8月 美濃・近江の山中を歩く。 岐阜・滋賀 9月 瀬戸内海魚名調査 伊予川之江・三島・小松・波止浜・大三島・豊島・宮窪・弓削島・因島を歩き魚名調査。 10月 越後大白川、越前石徹白・大野・疋田調査。大野では鵜飼の調査。 (註『越前石徹白民俗誌』の「入村記」には第2回入村は昭和17年秋とあるが、ここでは「生活学会報」第10号所収の年譜をとる) 12月 土佐寺川・大杉・祖谷山調査。大杉で鵜飼調査。 |
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1942年 | 昭和17 |
2月 胃濃場のため病臥。 6月 帰郷し2カ月ほど百姓仕事に専念。 その合間に柱島の地割調査を行う。 |
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35歳 |
9月 淡路由良のテグス調査。 9月24日 澁澤敬三に同行。 兵庫県加東郡滝野町・中東条村で釣針・人造テグス・ウキ製造調査。大阪西区奥美町のテグス問屋調査。 10月7日〜10日 釣針調査。 兵庫県三木・下東条町・米田村・多可郡比延庄村。 |
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1943年 | 昭和18 |
1月 三河の花祭調査。 2月 長女恵子出生。 *戦争化のため調査旅行は止めるように澁澤からいわれ、... 宮本馨太郎、吉田三郎と共に保谷の民族博物館所蔵の民具約8,000点(1万2,000点とも)の整理を行う。 4月1日 日本常民文化研究所主任。 月100円、加俸50円、帝国学士院の委嘱に依る日本水産科学史編纂に従う。 |
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36歳 |
12月31日 奈良県立郡山中学校教授嘱託となる。 友人岸田定雄の世話。月手当60円、昭和19年7月末には月手当110円。 |
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1944年 | 昭和19 |
1月 大阪に帰り、郡山中学校の教授嘱託として歴史を教え、余暇に奈良県下を積極的に歩く。 *大阪に帰って間もなく、田岡香逸の発起で歓迎会が西宮神社の社務所でひらかれる。 宮司の吉井良秀をはじめ西宮の文化人の他に、魚澄惣五郎、水野精一、小林行雄などと知り合い、彼らを通じて今西錦司、森鹿蔵、日比野丈夫、吉田光邦など京都大学人文科学研究所系の学者を知ることになる。 |
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1945年 | 昭和20 | 37歳 |
1月18日〜25日 名古屋。 3月26日 母と長女大島に帰る。 (母は鳳の家に引き取っていた?) 4月22日 郡山中学を退職。 4月23日 大阪府の嘱記となり、生鮮野菜需給対策をたてるため、府下農村を歩く。 「篤農協会の米山九蔵の勧めを受けて、四月五日大阪府庁に行き知事に会い要請を受ける。この時篤農協会の渡辺敏夫に会う。」月手当150円 5月5日~15日 大阪府下春夏作付綜合割当実施状況調査 池田市、三島郡安威村・春日村、北河内郡枚方町・水本村、中河内郡高安村、南河内郡富田林町、泉北郡和泉町・取石村、泉南郡佐野町。 5月19日 泉北郡和泉町今在家・桑原。 5月23日~24日 中河内郡南高安村、豊能郡南豊島村原田。 5月26日〜6月7日 食糧供出事情調査。 大阪市中央市場・青果市場、北河内郡津田町、枚方町招提・磯島、泉北郡東陶器村福泉。 5月28日~6月7日 春夏作付綜合当実施状況調査。 大阪府三島郡茨木町・春日村・豊川村、北河内郡津田町・枚方町、泉北郡東西陶器村・美木多村、南河内郡富田林町。 5月30日 奈良県南葛城郡秋津村蛇穴。 6月9日~15日 農商省地主調査委員会出席。 6月9日~15日 上京、農商省地主調查委員会出席。 7月5日 優良実行組合活動状況調査。 三島郡阿武野村塚原。 7月10日 堺空襲を受け、鳳の家全焼。 家財・書籍・資料一切を焼失。 |
38歳 |
9月11日 妻アサ子大島に帰る。 10月20日~11月9日 戦災による帰農者を引率して北海道にゆく。 10月20日大阪発、21日金沢・長岡、22日象潟・青森、23日函館・旭川、24日幌延・問寒別、25日名寄・ルベシベ、26日ルベシベ、27日陸別、28日津別、29日中サロマ、30日網走、31日斜里、11月1日釧路、2日滝川、3日新十津川、4日~5日小樽、6日~8日函館、9日青森・金田一、10日~13日東京(澁澤邸、石黒忠篤)、14日大阪帰着。 12月27日 大阪府嘱託を依願退職。 |
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1946年 | 昭和21 |
1月 大島に帰り、百姓をすることにするも、農問には農林省委嘱による地主調査のため各地の篤農を訪ねる旅をする。 1月 帰郷。 2月13日~17日〔地主調查〕兵庫県水上郡鴨庄村。 2月25日~3月4日 東京。 3月5日~8日 秋田県余目。 3月9日・10日 神奈川県足柄下郡吉浜町、11日大野町。 3月15日 社団法人新自治協会中央理事となる。 (「新自治」4・5月合併号 昭和21年4月1日発行 本部便り) 4月 社団法人新自治協会嘱託就任、農村研究室主任となる。 (自筆年講及び『民俗学の旅』には4月とある。)「宮本常一氏 五月上京して本会嘱託に就任、直ちに研究旅行に出張して、長野、岐阜、奈良、大阪、兵庫の各県に於ける地主調査を了え、六月中旬郷里に落着いて農事の傍ら記録の整理と農林省に提出する報告書の起草に当たって居られる。」(「新自治」21年8月号「柳緑花紅」欄)(「新自治」9月号には「理事・農村研究所主任」とあり、10月号には、「農村研究所だより」欄があり「農村研究所は七月一四日に新しく発足した。その目的とする所は農村に於ける伝統的な生活を調査研究して、日本の村落が如何に構成せられ、また運営せられて来たかを見ようとするにある。...」とある。) 〔九州調査〕4月1日大島出発、2日~3日久原、4日安徳、5日~6日福岡県脇山、7日大島。 4月10日 愛媛県越智郡久万村山路(丸木長雄)。 〔九州調查〕4月16日大島発、17日~20日福岡県早良郡脇山村(九州農士学校大川金作)、21日~23日熊本県上益城郡甲佐町(丸木長雄)。 〔中国地方調査〕4月24日九州から鳥取へ、25日浜村、26日倉吉・浜村、27日浜村、28日兵庫県鴨庄、29日前山。 〔地主調査〕5月11日~13日山梨県北都留郡棡原村尾続、14日伊那市田、15日・16日長野県下伊那郡松尾村伊賀良、17日・18日上伊那郡赤穂町小鍛冶、19日岐阜県加茂郡太田町。 〔地主調查〕5月26日兵庫県水上郡国領村、27日兵庫県水上郡吉見村、28日・29日大阪府吹田市。 7月30・31日 山梨県棡原。 |
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39歳 |
8月1日・2日 日下部。 〔地主調查〕 8月25日 次男三千夫出生。 10月14日死亡(「萩の花」)。 9月10日~9月16日 関西。 9月22日・25日 福岡県早良郡脇山村。 9月26日浜田、27日市山、28日有福・大社、29日鴨庄。 10月11日鴨庄、12日前山・竹田。 12月5日棡原、6日上野原。 12月21日・22日 戸倉。 |
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1947年 | 昭和22 |
2月17日~20日 鴨庄。 2月23日・24日徳島、25日今治、26日・27日徳島、28日今治。 〔東北地方調查〕 *農隙を利用して東北を主に全国各地を歩く。 旅費の捻出のために各地で農業技術、農業経営について講演。全国の篤農家たちと交わる。 〔北陸地方調查〕 6月9日・11日山梨県棡原、12日鎌倉・鵠沼、13日横須賀(注 9日・10日澁澤と山梨県上野原尾続と澁澤旅譜にあり)。 〔四国調査〕 7月 新自治協会退職。 |
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40歳 |
9月1日~4日鴨庄 9月1日京都・柏原、2日・3日鴨庄、4日前山・大阪。 9月14日百舌鳥・鳥取、15日青谷、16日鳥取、17日八橋、18日宇部野、19日上北条。 10月1日京都、2日南生駒、3日南高安、4日鴨庄、5日竹田、6日西宮、7日広田、8日大山、9日高松、10日今治、11日馬島、12日道後、13日大島(澁澤泊)、14日安下庄、15日門司、16日二瀬、17日脇山、18日福岡、19日湯江、20日佐賀、21日西合志、22日・23日鹿児島、24日甲佐、25日別府、26日臼杵・船。(注 10月1日~28日澁澤と京都、南生駒、竜田、柏原、恩地、大阪、市島、鴨庄、但馬竹田、前山村、丹波竹田、西宫、明石、岩屋、淡路郡家、洲本、広田、市村、福良、鳴門撫養、大山、坂西、高松、伊予三島、今治、柳井、門司、戸畑、若松、二瀬、脇山、入部、高取、福岡、湯江、佐賀、合志、熊本、鹿児島、甲佐、別府、臼杵、津留、別府、神戸。澁澤旅譜)旅 12月9日・10日黒川。 〔北陸・東北調査〕 |
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1948年 | 昭和23 |
〔長野・愛知〕 2月14日~22日 神奈川。 3月2日・3日安房、4日杉戸、5日~7日市田、8日伊賀良、9日市田、10日松尾・牛牧、11日竜江、12日鏡島、13日八幡、14日福井、15日西藤、16日六條、17日下文殊、18日三国、19日西藤、20日河原市、21日〜23日鴨庄。 5月2日~4日 今治。 |
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41歳 |
〔東北調査〕 10月29日 大阪府農地部長の平野地勝二に請われて農地部農業協同組合課帳託となり、農地解放、開拓地の農業指導、農業協同組合の育成にあたる。 ただし、旅の途次大阪へ寄る機会に行う。この時期は農地問題、農業技術にもっとも関心を持っていた。「農地部長の平野勝二さんに農地解放を円滑にするためと、開拓地の農業指導、農業協同組合の育成に、大阪の農業事情を知ったものが協力してくれるなら効果があがると考えて、昭和二二年に声をかけられた。平野さんは石黒忠篤先生の弟子で農地部長として大阪へ来るとき、石黒先生から是非宮本に逢えといわれたとのことで、網を張って待っていた。」「あるとき安藤さんに逢いにゆくと農地部長が待っているからすぐ逢いにゆくようにとのことである。そこで逢いにゆくと嘱託になって協力してほしいということと若い役人たちが大阪府の農業についてあまり知らないから講義をしてほしいということであった。そのころ大阪府には企画室ができていて、そこに京都大学の農学部を出た若い俊英がたくさんいた。講義のために人に集まってもらうのは無理があろうからといって書いたのが『大阪府農業技術経営小史』(昭和二三年四月)である。」 〔北陸地方〕 |
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1949年 | 昭和24 |
1月27日〜30日 鴨庄。 4月 日本民俗学会評議員。 6月 徳島県にてリンパ腺化膿のために危篤となる。ペニシリンにて助かる。 |
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42歳 |
10月 日本常民文化研究所復帰。 10月23日 農林省水産資料保存委員会調査員を嘱託せられ、主として瀬戸内海漁村の調査にあたる。 月手当3,000円。 *日本常民文化研究所が「漁業制度資料調査保存」について水産庁から依託を受け、研究所内に設けられた「漁業制度資料収集委員会」が調査にあたることになる。 日本常民文化研究所は東海区水産研究所に一室を借り、水産資料の蒐集調査のため若い所員を集める。それにつき三田澁澤邸にもひとり補佐する者がほしいから、できるだけ東京にいる時間を長くするようにと澁澤敬三からいわれ、東京滞在をながくする。 「1、水産庁の依託に対して日本常民文化研究所長桜田勝徳が受諾した。 2、調査は日本常民文化研究所の漁業制度資料収集委員会がこれにあたる。 3、調査の責任者 宇野脩平。 4、調査にあたっては、地方在住の日本常民文化研究所同人および、史料編纂所、史料館等より参加する。」 *この年、民俗学会評議員になる。 〔大阪府下漁村調査〕 〔広島県漁村調查〕 |
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1950年 | 昭和25 |
*瀬戸内海を中心に漁村調査を積極的に行う。 〔大阪府下漁村調查〕 3月6日・7日広島県倉橋島村本浦、8日・9日倉橋島村室尾。 〔九州各地農漁村調查〕 〔淡路漁村調查〕 6月 島嶼社会研究会発足。 代表辻村太郎、幹事山階芳正、園池大樹、大村肇、竹田旦、二神弘。 7月 八学会連合(翌年から九学会になる)の対馬調査に民族班として参加し、主として漁業調査を行う。 専門を異にする人々との共同調査で、大きな刺波を受けると同時に、調査方法、研究方法について自信を深める。 〔八学会連合対馬調査〕 |
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43歳 |
〔壱岐調査〕 〔淡路漁村調查〕 〔淡路漁村調査〕 〔広島県漁村調査〕 *民族学協会評議員になる。 |
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1951年 | 昭和26 |
2月25日 奈良大安寺八幡の宮座聞書。 〔播磨漁村調査〕 〔周南諸島調査〕 7月~8月 九学会連合対馬調査。 7月5日大島発博多、6日~8日厳原、9日~12日奴加丘村小綱、13日奴加丘村大網、14日奴加丘村水崎、15日奴加丘村貝口、16日奴加丘村唐舟・廻・水崎、17日~20日唐州・明神、21・22日鶏知町鶏知・尾崎、24日佐須奈村佐須奈、25日・26日厳原、27日・29日佐須村阿連、30日佐須村小茂田、31日佐須村小茂田・久根浜、8月1日佐須村久根浜、2日佐須村久根浜・佐須瀬、3日・4日佐須村佐須瀬・久田村内院、5日久田村内山、6日久田村内山・佐須村日掛、7日佐須村日掛・厳原町久田道、8日船越村鴨居瀬、9日厳原町曲、10日厳原、11日厳原発壱岐。 |
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44歳 |
〔壱岐調査〕 8月28日~30日〔奈良県山辺郡都介野村吐山地区調査〕 秋 能登時国家調査 石川県輪島市 〔瀬戸内海調査〕 |
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1952年 | 昭和27 |
3月 三男光出生 5月21日~6月24日 五島列島調査 5月21日大島発長崎、22日長崎、23日長崎発福江、24日男女群島(女島)、26日福江、27日玉之浦、28日大宝・三井楽、29日三井楽、30日岐宿、31日岐宿・福江、6月1日・2日富江、3日中通島岩瀬・鯛ノ浦・有川、4日~8日宇久島、9日~11日小値賀島、12日中通島立串、13日中通島榎津、14日似首、15日・16日青方、17日中通島浜ノ浦、18日日ノ島・若松島若松、19日若松、20日・21日福江、22日福江島樫ノ浦、23日福江、24日福江発長崎。 *九学会連合能登調査に社会学班として参加。 |
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1953年 | 昭和28 | 45歳 |
1月19日〜2月12日〔国有林地元利用実態調査〕岡山県御津郡円城村。 5月 肺結核が再発し赤坂前田病院に入院。 ストレプトマイシンのため助かる。 6月25日 全国離島民代表者蹶起大会開催。 その席上において全国離島振興協議会結成が決議され、発足。本部事務局は当初東京大学理学部地理学教室内島嶼社会研究会内に置かれたが、昭和29年5月港区赤坂福吉町のしもた屋に移る。 7月22日 離島振興法(昭和28年法律第72号)成立。 |
46歳 |
8月3日 全国離島振興協議会幹事に。 島嶼社会研究会の幹事大村肇、園池大樹、竹田旦、宮本常一、山階芳正の5名がきまり、宮本はまとめ役として幹事長となる。 12月10日 全国離島振興協議会機関紙『しま』創刊。 |
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1954年 | 昭和29 |
2月12日 神保教子全国離島振興協議会事務局書記となる。 5月 離島振興協議会事務局長になる。 |
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47歳 |
12月 林業金融調査会設立。 宮本は理事として参画し、調査研究の指導にあたると同時に、自らも山村経済実態調査を行う。昭和43年3月解散(林業金融調査会は東京営林局長を退任した平野勝二が常務理事となり、全国森林組合連合会内に設けられた林業金融委員会の調査研究を全面的に受託実行する機関として発足したもので、林野庁・農林中央金庫・農林漁業金融公庫の援助を受けて調査研究を行った。当初は東京農業大学農業経済学科の高松圭吉、早稲田大学社会学科の外木典夫、日本常民文化研究所の河岡武春の3名が主として調査研究の実行にあたり、農大農経・早大社会学科の学生が手伝った。約200カ所の山村調査を行う)。 *この年より昭和34年にかけては澁澤敬三より旅行をとめられ、もっぱら執筆活動。 ただし澁澤外国旅行中は国内各地を歩く。 |
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1955年 | 昭和30 | 48歳 |
8月21日 広島県戸河内町板ヶ谷。 〔林業金融調査〕8月23日~27日広島県山県郡大朝町、27日~31日島根県鹿足郡日原町。 〔山村経済実態調査〕11月7日~13日秋田県北秋田郡上小阿仁村、14日~19日宮城県栗原郡栗駒町。 12月 「絵巻物による常民生活総引」の研究会専開。 澁澤敬三の企画によって日本常民文化研究所で行う。昭和15年頃から行われていた研究会を戦後に再開する。代表的な絵巻物を選び、庶民生活に関係した部分だけを抜出して模写し、その一つ一つに解説をつけたもの。字引に対応するような絵引をつくろうという試みである。戦前は橋浦泰雄が模写を担当していたが、戦後は村田泥牛が模写を担当する。研究会は毎月1回、叩き台としてだされる解説素稿を皆で検討するという形で行われていた。解説原稿の素稿の大半は宮本の手になるものである。41年8月頃まで行われ、角川書店から全5巻として刊行された。 |
1956年 | 昭和31 |
3月 新潟。 5月中・6月〔林業金融調査〕千葉県東葛飾郡川間村。 6月 静岡県沼津市我入道、茨城県筑波。 7月 名古屋大学人間関係綜合研究団の文化人類学・民俗学班に特別協力者として参加。 愛知県名倉、佐久島の調査を行う。 |
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49歳 |
10月 岡山県新池。 11月5日〜13日〔愛知県北設楽郡名倉調査〕(川村久二雄と)。 〔奈良~京都〕11月4日奈良法隆寺・薬師寺・唐招提寺・新薬師寺、15日東大寺・宇治平等院・日野法界寺、16日園城寺・京都。 |
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1957年 | 昭和32 |
5月14日〜18日〔愛知県北設楽郡名倉村調査〕(河岡・田村・神保同行)。 5月31日 全国離島振興協議会事務局長を辞し幹事となる。 5月 『風土記日本』(平凡社)の刊行はじまる。 第一巻「九州・沖縄編」は5月30日発行。大藤時彦、鎌田久子、宮本常一3名の責任編集であるが、宮本はこの計画立案の当初から参画し、その編集執筆に情熱を傾けた。「この頃谷川健一とはかって平凡社より『風土記日本』刊行。漸くくらしの息がつけるくらいになる。戦後ずっと定収入なし。あまり金にならぬ雑文を書いてわずかに糊口をしのぐ。」 7月2日~9日〔愛知県佐久島調査〕(川村久二雄同行)。 |
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50歳 |
8月12日~19日〔林業金融調査〕石川県石川郡白峰村。 11月 文化財保護委員会調査委員を委嘱され、33年3月まで務める。 |
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1958年 | 昭和33 | 50歳 |
3月 全国離島振興協議会顧問就任。 6月 広島県文化財専門委員就任。 47年7月辞任。 7月14日 広島県比和町八幡。 7月 大分空港・豊後森・中津・広島。 |
51歳 |
10月 新潟大学で開催された人類・民族二学会連合大会の後のエキスカーションで佐渡をまわる。 〔二学会連合・佐渡見学〕両津~相川尖閣湾~八幡ホテル泊(鬼太鼓・文弥人形)、真野御陵・国分寺・明宣寺~両津。 10月 雑誌「民話」創刊。 編集委員として参加し、39年9月、第24号までで停刊になるまで、ほぼ隔月に「年よりたち」を連載。 |
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1959年 | 昭和34 |
6月22日広島県比和町、23日比和・森脇・高野町。 7月27日~8月1日〔静岡県周智郡水窪町林道調査〕。 |
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52歳 |
8月 九学会連合佐渡調査に民族学会から参加。 〔九学会連合佐渡調査〕 十二指腸潰瘍にて癌研究所病院田崎、緑川両博士より長期療養を命ぜられる。 9月~年末 療養中で外出禁止の状態であったが、その間に「瀬戸内海島嶼の開発とその社会形成」(学位論文)を執筆。 9月から筆をとり年末に擱筆。宮本の意志で進んで書いたのはこの書物だけ。 11月 『日本残酷物話』の刊行はじまる。 第一巻「貧しき人々のむれ」は11月30日発行。宮本常一、山本周五郎、山代巴、楫西光速監修であるが、宮本のこれに注いだ情熱は『風土記日本』に劣るものではなかった。 11月27日 広島県千代田町壬生。 |
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1960年 | 昭和35 | 53歳 |
〔山口県見島綜合調查〕(民俗班) 〔九学会連合佐渡調查〕 〔鳥羽市坂手島・桃取調査〕8月26日坂手島、27日桃取(注 昭和35年8月とあるが34年8月の記憶違いではないだろうか?) 10月30日〔熊本石橋調査〕、民族学・人類学連合大会(熊本)、11月3日阿蘇・小国・杖立、4日日田。 11月31日? 熊本県矢部町。 |
1961年 | 昭和36 |
〔五島列島〕 5月21日~22日 広島県千代田町川東。 6月5日 『日本の離島』(昭和30年9月30日刊)によりエッセイストクラブ賞授賞。 |
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54歳 |
〔離島調査〕8月1日石川県船倉島、2日・3日石川県能登島。 8月24日~26日〔離島調査〕山口県柱島・端島・黒島。 8月30日〔離島調査〕山口県羽島・相島・尾島・櫃島・大島。 8月31日~9月6日〔山口県見島綜合調査(民俗班)〕。 〔離島調査〕9月16日長崎県樺島、17日長崎県平戸島、18日長崎県北松大島・度島、19日長崎県青島、20日山口県蓋井島、21日山口県角島。 11月3日 瀬戸内海の産業文化開発に功ありとして中国文化賞(中国新聞社)を授賞。 12月 『瀬戸内海島嶼の開発とその社会形成--海人の定住を中心に』によって東洋大学より文学博士の学位をうける。 *この年、保谷の民族博物館の民具は戸越の文部省資料館に移管される。 *この年、府中市新町3-9-12に家を購入し、澁澤邸を出る。 |
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1962年 | 昭和37 |
1月 東京水産大学水産学部講師。 37年3月まで。 3月 母マチ、郷里大島にて死去。 〔九州調查〕 4月 妻子東京に出て来て家族一緒に住むことになる。 |
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55歳 |
〔壱岐・対馬離島振興関連〕 〔離島調查〕 8月20日 鳥羽市国崎。 8月28日 福岡県相ノ島。 9月7日 山口県阿武郡川上村野戸呂。 〔離島調査、佐賀・天草・熊本〕 11月?〔離島調查〕熊本阿蘇 熊本・宮地(泊)、宮地(婦人会出席)・大分...。 〔佐渡〕 |
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1963年 | 昭和38 |
6月 雑誌「デクノボウ」創刊。 林業金融調査会に集まる若い人たちとデクョボウクラブをつくり、機関紙としてタイプ印刷の「デクノボウ」を月刊でだす。 7月 雑誌「日本発見」創刊。 長谷川竜生・竹内實らとはかつて日本発見の会をつくり雑誌「日本発見」を出すも続かず5号で終わる。 7月 日本塩業研究会会長に就任。 7月2日~10日〔長野県下伊那地方調査〕。 7月29日~30日〔新島調査〕。 |
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56歳 |
8月 九学会連合下北半島調査に日本民俗学会から参加。 〔対馬離島振興関連〕 12月 佐渡(1週間)。 |
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1964年 | 昭和39 |
3月1日~5日 佐渡。 4月 武蔵野美術大学非常勤教授就任。 5月11日~16日鹿児島・雲仙、5月11日坊津・鹿児島・栗津大口・水俣・天草・島原、15日・16日雲仙・離島振興協議会総会出席。 〔五島列島〕5月17日佐世保発有川、18日七目(講演)・有川発佐世保。 6月20日~26日〔新潟県佐渡郡赤泊村経済実態調査〕。 6月30日 土浦中貫。 7月〔下北半島九学会連合調査〕。 |
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57歳 |
〔北海道離島調査〕8月4日利尻町、5日鬼脇、6日東利尻、7日礼文、8日焼尻・天売。 8月17日~22日 佐渡赤泊村他。 10月? 佐賀・大分 佐賀・久大線・日田。 |
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1965年 | 昭和40 |
1月20日~26日 佐渡。 4月 武蔵野美術大学教授就任。 民俗学、生活史等を講義することになる。授業時間外も研究室に話を聞きにくる内外の学生が多いために、41年4月に生活文化研究会をつくり、毎週1回、曜日を決めて研究会をもつことにする。この頃から有形文化、主として民具の研究に本格的に取り組む。 6月18日~23日〔長野県奈川・安曇地区調査(パイロット林道)〕。 7月18日~28日〔長野県奈川・安曇地区調査(パイロット林道)〕。 |
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58歳 |
8月1日〜4日 佐渡。 8月30日 『にっぽんのやど』発行。またこの頃から宮本の企画・監修になるテレビドキュメント『日本の詩情』(日経映画社)の制作がはじまる。 共に近畿日本ツーリスト・同協定旅館連盟の10周年記念事業であった。これが縁となって日本観光文化研究所が設立される。 10月20日〜26日 佐渡。 11月4日〜8日〔長野県奈川村調査(パイロット林道)〕。 12月20日〜26日〔長野県安曇村調査(パイロット林道)〕。 |
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1966年 | 昭和41 |
1月 日本観光文化研究所設立。 昭和56年1月に亡くなるまで所長として後進の指導育成につとめる。研究所は近畿日本ツーリスト株式会社の社内組織として誕生し、当初は資料室という名称であったが、4月から日本観光文化研究所を正式名称とする。宮本千晴が会社の嘱託となり事務局長として苦労する。 3月? 佐賀・大分県日出。 3月31日~4月10日〔鹿児島県種子島経済実態調査〕。 |
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59歳 |
8月12日~15日〔椋梨ダム水没地域民俗緊急調査〕広島県加茂郡大和町王子原・箱川・河内町小田。 8月30日~9月3日 新潟県佐渡羽茂町岡田・小木町江積。 12月17日〔椋梨ダム水没地域民俗緊急調査〕広島県加茂郡大和町王子原・箱川。 |
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1967年 | 昭和42 |
1月 東京都府中市文化財専門委員会議長。 54年3月まで。 3月 雑誌「あるく みる きく」創刊。 4月 早稲田大学理工学部講師。 46年3月まで民俗学講義。 7月 北里病院に入院。? |
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60歳 |
9月29日~10月1日 広島県高田郡八千代町中土師。 12月8日~14日 広島県高田郡八千代町桑の木・上土師。 |
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1968年 | 昭和43 |
7月7日 青梅市師岡。 7月21日~8月22日〔宮の原貝塚(横浜市港北区)発掘〕(武蔵野美術大学考古学研究会 毎日居たわけではない))。 〔青梅市民俗調査(武蔵美生活文化研究会)〕7月22日・23日南小曽木・前橋、24日富岡、25日谷野・今井。 7月31日~ 7月31日広島発別府経由、8月1日阿蘇内牧温泉(講演)、2日内牧・日田・英彦山...。 |
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61歳 |
〔阿武川ダム水没地域民俗資料緊急調査(調査団長)〕 8月28日 広島県因島市箱崎。 10月 青梅市上長渕。 12月 観光資源保護財団評議委員。 |
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1969年 | 昭和44 |
〔青梅市民俗調査〕7月31日青梅市成木、8月1日青梅市長渕、2日下長渕、3日二俣尾、4日新町。 |
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62歳 |
8月18日~24日〔山口県阿武川民俗資料緊急調査第二次(調査団長)〕8月20日 転倒骨折。 9月27日~10月1日〔沖縄講演と調査〕27日羽田発沖縄、10月1日帰着。 〔青梅市民俗調査(武蔵美生活文化研究会)〕11月2日青梅市西分、3日上長渕、4日御嶽、5日沢井。 |
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1970年 | 昭和45 |
〔山口川上村〕1月2日東京~小郡~川上、5日川上~小郡~大畠~下田、7日下田~東京。 〔長野県上田〕1月30日国分寺~上野~上田、31日上田〜上野~小金井。 〔群馬県〕 2月11日 鎌倉。 〔静岡県今井浜〕2月15日小金井~今井浜、16日今井浜~小金井。 〔名古屋・大阪〕3月2日国分寺~名古屋、3日名古屋~大阪、4日大阪~富木~大阪~東京。 3月26日東京~愛知県豊橋~二川、27日豊橋~東京。 〔周防下田〕4月8日小金井~東京~下田、9日下田~久賀、10日久賀~東京。 〔山形・新潟〕4月25日小金井〜東京〜鶴岡、26日鶴岡~新潟、27日新潟~横越~新潟~上野。 〔佐渡小木・羽茂〕 〔長野県松本・茅野〕5月23日小金井~新宿~松本~茅野、24日茅野~国分寺。 〔新潟〕6月24日国分寺~新潟~横越、25日新潟~上野。 7月4日横浜・霧ヶ岡発掘調査打合せ、6日吉祥寺・霧ヶ岡発掘調査打合せ。 〔徳島~大阪〕 〔横浜市緑区霧ヶ丘遺跡発掘〕(武蔵美考古学研究会) |
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63歳 |
8月 田耕の「おんでこ(鬼太鼓)座」設立に協力。 〔青梅市民俗調査〕 〔飯田・金沢・佐渡〕 〔広島県安芸郡宮島町民俗調查〕 9月 離島振興審議会委員就任。 54年6月まで。 〔宇部・小野田炭坑調查〕 〔新潟県山古志〕9月13日国分寺~長岡~山古志、14日山古志~長岡~国分寺。 〔宮城県白石〕 10月18日国分寺~広島、19日広島~国分寺。 10月20日~11月2日〔横浜市緑区霧ヶ丘遺跡発掘〕。 〔広島県〕 〔名古屋〕11月24日国分寺~名古屋、25日名古屋~賢島~名古屋~東京。 12月17日国分寺~鎌倉。 〔青梅市民俗調查〕12月22日青梅市今井、23日今井・藤橋、24日~25日塩船。 |
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1971年 | 昭和46 |
〔伊豆大島〕1月2日小金井~熱海~元町~差木地、三日岡田~国分寺。 〔新潟山古志〕1月14日上野~長岡〜山古志、15日山古志~長岡〜小金井。 1月30日 青梅市今井〔青梅市民俗調査〕。 2月11日 鎌倉。 2月24日東京~広島、25日広島~小金井。 〔広島三原〕3月6日小金井~三原、7日三原~大阪~鳳~大阪、8日大阪〜東京。 3月20日〜4月24日 〔横浜市緑区霧ヶ丘遺跡発堀〕(4月19日霧ヶ岡)。 〔広島県安芸郡宮島町民俗調查〕 3月28日~4月2日 周防下田。 〔山口県離島調查〕 〔三重県和具(海女)調查〕 4月29日~30日 高松市塩上会館(塩業研究会)30日高松~丸亀。 (塩飽諸島調查〕 〔大阪・名古屋〕5月22日小金井~大阪~鳳、23日鳳~難波~名古屋、24日名古屋~小金井。 〔栃木県大田〕6月24日小金井~浅草~大田、25日大田~小金井。 〔伊豆大島〕 |
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64歳 |
〔佐渡〕 〔岡山県美星町黒忠・豊松・博多〕 8月15日大畠~下田、16日下田、17日下田~久賀、18日久賀(8月17日~24日 〔山口県大島郡久賀町民俗調查〕)。 〔宮島民俗調查〕8月19日久賀~通津~宮島、20日s~22日宮島、23日宮島~岩国、24日岩国~大竹。 〔山口県玖珂郡美和町生見川ダム水没地域民俗調査〕(調査団長) 〔大阪〕9月10日小金井~大阪~鳳、11日、12日鳳~西宮~大阪〜小金井。 10月 山口県文化財専門委員就任。 〔愛媛県松山〕10月13日小金井~羽田~松山、14日松山~羽田~小金井。 〔秩父〕10月20日小金井~秋葉原~池袋~秩父~国分寺。 〔広島〕10月28日小金井~広島、29日広島、30日広島~東京~国分寺。 〔伊豆大島〕11月2日小金井~浜松町~竹芝~元町~差木地、3日差木地、4日差木地~元町~竹芝~小金井。 〔宇都宮〕11月25日小金井~上野~宇都宮~上野~小金井。 〔佐渡〕 〔三重県鳥羽〕12月11日東京~名古屋~鳥羽、12日鳥羽~名古屋~東京~小金井。 〔周防下田・大阪・京都・信楽〕 |
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1972年 | 昭和47 |
〔京都・奈良〕2月8日小金井~京都、9日京都~奈良~京都、10日京都~東京~小金井。 3月4日小金井~上野~長野、5日長野~国分寺。 3月9日小金井~上野~新潟、10日新潟~上野~小金井。 〔佐渡〕 〔山口県大島郡久賀町民俗調査〕3月23日東京〜岩国~通津~久賀、24~28日久賀調查、29日下田~下松~下田。 〔周防下田・広島県三原〕 4月 岡山大学法文学部講師。 4月24日小金井~京都~小金井。 〔石川大聖寺〕4月28日小金井~大聖寺、29日・30日大聖寺、5月1日大聖寺~京都、2日京都~小金井。 〔広島・大阪〕5月27日小金井~広島、28日広島~大阪、29日大阪~小金井。 〔佐渡〕 7月6日上野〜長野〜上野。 7月18日小金井〜上野~新潟、19日新潟~上野~小金井。 |
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65歳 |
〔東和町民具調査?〕8月4日小金井~東京〜小松~下田、5〜8日。 〔広島県豊田郡瀬戸田町塩業調査〕 〔大阪府鳳〕8月14日~16日鳳、17日鳳~尾道、18日尾道~国分寺。 〔宮城県柴田郡川崎町民具調査・札幌〕 〔岩手県北上山地塩の道調査〕 9月 日本生活学会理事。 〔岡山・比延庄釣針調査〕 10月8日国分寺~静岡~国分寺。 10月23日東京~京都~東京。 〔京都〕 12月4日国分寺~新宿~河口湖~国分寺。 〔広島県福山市松永町塩の民俗緊急調查〕(民具担当)12月14日東京~松永、15~17日松永、18日松永~尾道~瀬戸田。 〔広島県豊田郡瀬戸田町名荷〕(泥船乗り聞書)12月18日松永~尾道~瀬戸田、19日瀬戸田~尾道〜三原。 〔山口県玖珂郡美和町小瀬川弥栄ダム水没地域民俗調查〕 |
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1973年 | 昭和48 |
〔伊豆大島〕1月3日小金井~熱海~岡田、4日、5日元町~東京~小金井。 2月5日国分寺~〔青梅市民俗調查〕~国分寺。 2月27日東京~松江、28日松江~佐太~松江~東京。 3月2日上野~長岡~新潟、3日新潟~上野。 3月5日上野~高崎~前橋、6日前橋~高崎~上野。 〔伊豆大島〕 〔伊豆下田〕3月13日東京~下田、14・15日、16日下田~東京。 3月13日~14日東京都西多摩郡日の出村〔農山漁家生活改善技術資料調査〕。 3月20日東京〜大阪、21日大阪〜東京。 〔広島県松永〕3月22日東京~松永、23~25日松永、26日松永~東京。 4月 農林省生活改善資料収集委員会委員就任。 4月 放送文化財ライブラリー諮問委員会委員。 4月6日上野~郡山、7日郡山~上野。 4月27日東京~鳥取県米子、28日、29日米子~東京。 5月 日本文化研究所理事。 〔広島〕6月8日東京〜広島、9日広島~下田、10日下田、11日下田〜東京。 〔伊豆大島〕7月7日小金井~熱海~元町、8日、9日元町~熱海~国分寺。 〔佐渡~新潟県山古志〕 〔会津〕7月23日新潟広瀬~田島~針生、24日、25日田島~大河原~川崎、26日川崎~東京。 |
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66歳 |
〔広島県豊田郡瀬戸田町塩の民俗緊急調査〕(民具担当) 〔山口県美和町小瀬川弥栄ダム水没地域民俗資料調査〕(調査主任) 〔瀬戸内海離島〕 8月24日上野~群馬県高崎、25日高崎~上野。 10月2日東京~名古屋、3日名古屋~東京。 11月10日東京〜京都、11日京都~東京。 11月20日国分寺~〔青梅市民俗調查〕~国分寺。 〔大阪・北設楽花祭〕 〔広島〕12月12日東京~広島、13日広島~下田、14日下田~東京。 〔周防下田〕12月25日東京~下田、26日、27日下田~東京。 |
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1974年 | 昭和49 |
*度々佐渡に行くことになる。武蔵野美術大学の学生の佐渡小木調査合宿が盛会となったため。 〔壱岐・対馬離島振興関連〕 |
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67歳 |
8月24日~27日 広島県世羅郡世羅町〔農山漁家生活改善技術資料調査〕。 佐渡(日本海大学、於小木博物館)。 10月 日本常民文化研究所主催の第1回民具研究講座開催。 席上で日本民具学会設立を提案、満場一致で可決。民具学会設立準備委員会幹事となる。 |
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1975年 | 昭和50 |
1月30日小金井~大阪、31日大阪~小金井。 〔佐渡〕 〔徳山~博多~大阪茨木〕 〔佐渡〕5月16日小金井~新潟~両津~羽茂、18日羽茂~両津~新潟~小金井。 〔広島県三原〕 6月14日東京~愛知県豊橋、15日豊橋~東京 〔伊豆大島〕7月9日東京~元町~波浮、11日波浮~元町~熱海~東京。 |
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68歳 |
7月18日〜8月30日 東アフリカ調査。 日本観光文化研究所アムカス探検学校に参加し、ケニア・タンザニアで民族文化調査を行う。国外での調査は初めてで、大きな刺澈を受ける。 秋田県仙北郡西木村〔農山漁家生活改善技術資料調査〕。 9月13日小金井〜上諏訪、14日上諏訪〜小金井。 〔広島三原〕10月28日小金井~三原、11月1日三原〜小金井。 〔京都・大阪〕11月8日小金井~京都、9日京都~堺~大阪~小金井。 〔沖縄〕11月20日東京~羽田~那覇、22日那覇~羽田~東京。 12月28日 小金井~愛知県豊橋。 |
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1976年 | 昭和51 |
1月6日 高知県長岡郡大豊村。 1月7日~8日 7日奈良県吉野郡大塔村天川、8日惣谷。 〔佐渡〕3月7日東京発、8日新潟~両津・羽茂講演、9日おんでこ座~両津~新潟。 〔佐渡〕日本海大学+生活学会サマーセミナー(於小木町宿根木)。 |
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69歳 |
10月23日〜 石川県輪島市〔農山漁家生活改善技術資料調査〕。 11月 日本民具学会設立、幹事。 |
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1977年 | 昭和52 |
3月 武蔵野美術大学退職。 疲労が大きいので大学を退職することにする。そしてもう一度瀬戸内海を歩くことを計画する(この時期、武蔵野美術大学は定年退職者が多く、70歳定年を1年延長した時期であった)。 3月 佐渡相川町史編纂委員会。 4月 山口県光市の村崎修二から猿まわしの話を聞き、その復活を勧める。 村崎正義を中心に「周防猿まわしの会」が設立され、猿まわし復活に向けて活発な活動が展開される。 4月 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所「アジア・アフリカにおけるイスラム化と近代化に関する調査研究」(代表三木亘)の共同研究員となる。 昭和55年度まで共同研究員継続。この研究会では昭和52年5月28日に「生態学的にみた日本史」、53年12月2日に「海上民の文化と歴史」(済州島の調査を背景に朝鮮と日本にまたがる詳細な報告)の2回の報告を行っている。 5月 武蔵野美術大学より名誉教授の称号をうける。 |
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70歳 |
9月13日~20日 済州島調査。 日本の海女の系譜を探る。中村由信同行 9月13日大阪空港・釜山・済州市、14日西帰浦付近、15日、16日済州市・中文・西帰浦・済州市、17日民俗博物館、18日済州大学等、19日、20日済州島出発・釜山・帰着。 10月18日〜21日 高知県土佐清水市〔農山漁家生活改善技術資料調査〕。 12月 今和次郎賞授賞(日本生活学会)。 宮本常一著作集第1期25巻による。 |
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1978年 | 昭和53 | 70歳 |
1月 「周防猿まわしの会」による猿の調教がはじめられる。 記録担当として映像文化研究所の姫田忠義、沢蟠、日本観光文化研究所の小林淳が参加する。 7月10日~13日 福島県安達郡岩代町〔農山漁家生活改善技術資料調査〕。 |
1979年 | 昭和54 |
〔佐渡〕 3月・5月 日本観光文化研究所の福島県飯坂温泉再開発調査に参加するも、身体の衰えがめだつ。 6月 国土審議会離島振興対策特別委員会委員。 委員長代理となる。 |
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72歳 |
9月 台湾調査。 9月10日~20日 台湾調査。神崎宣武同行。 9月22日~24日佐渡・小木町にて日本民具学会+日本常民文化研究所民具研究講座。 |
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1980年 | 昭和55 |
3月25日 郷土大学発足。 東和町の若い人々を対象に研究会を計画、「郷土大学」と名付け、開校記念講演と第1回の講義をこの日に行う。郷土大学は「郷土にいて郷土に学び、同時に郷土で学ぶことによって、深い思索と広い視野を持ち、今後の郷土が如何にあるべきか、われら何をなすべきかを学習する機会と機関」であり、「今後の郷土のあるべき姿をさぐり、これを実現しようとすることを目的とするもの」であった。宮本自らは「郷土の歴史」を講義すると同時に、多くの知人友人に声をかけて話をしてもらうという計画であった。郷土の歴史は30回の予定であったが、8回で中断した。 〔佐渡・小木町〕 |
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73歳 |
10月 近畿日本ツーリストの招待で中国を歩く。疲労甚だし。 10月14日〜24日中国西南部、上海・桂林・南寧・昆明・広州旅行 11月22日 屋代ダム(山口県大島郡)水没地域民俗緊急調査中間報告会。 *屋代ダム水没地域民俗緊急調査は昭和55・56年にわたって行われた。 宮本は調査主任として指導にあたったが、この中間報告会と翌日の調査が最後になった。 12月23日 都立府中病院入院。 正月を家で過ごしたいと大晦日に帰宅。 |
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1981年 | 昭和56 |
1月4日 府中病院へ再度入院。 1月30日 早勃逝去 胃癌。 2月27日 勲三等瑞宝賞。 |