011
昭和14年中国地方調査ノート その10 様々な食べ物⑤ クズ
資料紹介|2025年6月22日|板垣優河
クズの塊根
クズはマメ科の蔓性半低木で、全国山野の至る所に生える。茎の基部は木質で上部は草質、非常に長く伸び10mに達する。塊根は長大で多量の澱粉を蓄えており、主根は長さ1.5m、径20cmになる(写真1)。その塊根を原料として、いわゆる葛粉の製造が各地で行なわれてきた。
宮本は島根県田所村鱒渕(現邑南町)で、「クズノネヲイノコトイフ。之デイノコモチヲコシラヘタ。[/]ニマグン[邇摩郡]ノ西ニハ、コノネヲホツテ、クズヲセイゾーシテイル。[/]クズハ牛馬ガヨロコンデクフ」と記録している(板垣編2025:9)。鱒渕ではクズの塊根から澱粉を採取し、「イノコモチ」と称する餅にして食べていたようだ。秋深まる旧暦10月の「亥の日」は炉開きや炬燵出しの日として知られるが、この時季はまた、クズの塊根に多量の澱粉が蓄えられており、気温も下がるので、葛粉の製造に適していた。なお、戦時中に刊行された『郷土食慣行調査報告書』には広島県神石郡で「救荒食として米麦食の代りに用ふ」ものとして「くずだんご」という食品が報告されている(中央食糧協力会編1944:389)。中国山地では「イノコモチ」や「くずだんご」が褻(け)の食品として食べられてきたのである。
宮本は山口県高根村向垰(現岩国市錦町)でもクズの食料化について聞いている。調査ノートには次のように記されている。「クズヤユリ、クスバノカズラノ根、ワラビノ根ヲホツテタベタモノ。之ヲカンネホリトイツタ。[/]冬ヤマヘホボヲカツイデホリニユク。[/]モツテカヘツタノヲ石ノ上デタタキ、オケヘサデコミ、水ヲシツカリイレテオイテ、カスヲサキニ出ス。[/]トドツタモノヲ又アラメノヌノカ何カデコシテ、ノコツタモノヲステテ、ノコツタモノガカンネデアツタ。[/]ソレヲソバノ粉ナドニマゼテタベタ。[/]之ガ常食ノ一ツデアツタ」(板垣編2025:82)。
向垰ではクズやユリ、ワラビなどの野生根茎類を掘って石の上で叩き砕き、桶の水中で澱粉を溶かし出した。その後底に沈んだ澱粉を布類で濾して採取していた。それを蕎麦粉と混ぜ、「常食ノ一ツ」として食べたという。なお、江馬三枝子の『飛騨白川村』には、岐阜県大野郡白川村では稗粥3~5合に葛粉1升余りを入れて食べるほか、穀類とは混ぜずに葛粉ばかりを食べる場合もあったことが記されている(江馬1975:98)。白川村ではヒエを基軸とする食構造に葛粉がかなり食い込んでいたようだ。筆者の調査ではこのような主食的な用法を見出すことはできなかったが、葛粉は主食にはならずとも、自給度の高い山村では無くてはならないものとみなされ、食料化されてきたことは確かである。
また、向垰では野生根茎類の採掘を「カンネホリ」と称し、濾過沈殿させた澱粉も「カンネ」と称していたことが興味深い。この語は宮崎県東臼杵郡椎葉村や熊本県八代市泉町でも聞かれた。椎葉村ではクズの塊根のことを「カズネ」と称し、「カンネ」ということもあった。そうすると、向垰で使われていた「カンネ」という言葉は、九州山地でクズの塊根に対して使われていた「カズネ」から来ている可能性がある。
宮崎県椎葉村の場合
筆者が平成の終わりから令和の初めにかけて調査した時点でも、椎葉村ではクズの食料化に関する伝承が残っていた。以下、椎葉村向山日当で大正生まれの女性に聞いたことを記す(板垣2024)。
カズネは蔓が丈夫になるよりも前、すなわち春に掘った。日添の根はミが少なく、日当の根はミが多い。ノホリで掘るとき、根と蔓の境にあたるクビを少し切ってみる。土を塗り付けたノホリの刃をその切り口にあててみて、白い汁が付けばミが多く、付かなければ掘り損といった。
根を洗うと土と一緒にミまで落ちてしまうので、包丁状のタケワレで削いで土を落とす。それを臼に入れ、ドンチを使ってビショビショになるまで叩く。ドンチはサルスベリ製の重たい杵で、クズ打ち専用だった。長い板に潰した根を広げ、今度はカシノキ棒で叩く。4人いれば2人ずつ、6人いれば3人ずつ、男性が板を挟んで向い合い、丁寧に叩き潰した。このときクズ打ちの唄がうたわれた。
大きな桶の縁にショーケをかけ、その中で手が火照るまで根を揉む。根の滓を絞り、もう一度叩いてミを出し、別の桶にかけたショーケの中で揉み洗う。桶は全部で4、5個用意し、順番に根を移して洗っていく。それぞれ桶の底に沈んだミを木綿袋にとり、ショーケの上で絞る。1晩おくと、桶底には一番下にベターっとした「シロクズ」、次に泥のようにドブドブした「クロクズ」、さらにその上には「コイー」と呼ぶものが溜まった。根の滓はカビとして虫除けに使えたので、カズネには捨てる部分がなかった。
底に沈殿した澱粉を回収するには、まず囲炉裏に穴を掘り、その内側に木綿袋を広げ、クロクズを流し込む。木綿袋の口を縛り、上から灰をかけて重しをする。朝になると水気が引き、袋の中でクロクズが固まっている。それを団子に丸め、囲炉裏の熾きの上で灰をかけながら焼いた。これを「クロダゴ」という。独特の粘りと匂いがあって美味しかった。一方、シロクズの方は桶の上水を換えてもう1晩晒し、きれいな粉にする。それを包丁で起こし、布を敷いたカゴに入れて干す。食べるときは粉の上に熱湯を注ぎ、掻いて粘らせる。ヤマユリ(ウバユリ)の粉は腹薬、カズネの粉は強心剤の代わりになり、また見舞いの品としても用いられた。なお、シロクズは貴重だったが、売るということはなかった。
向垰の記録には言及がなかったが、椎葉村では澱粉を二層に分けて沈殿採取し、下層に沈殿する白色の澱粉を「シロクズ」「クズ」「カネ」、上層に溜まる黒色の澱粉を「クロクズ」「ドロ」と称していた。澱粉を二層に分けての沈殿採取は、先の記事でみたワラビの食料化方法とも共通する。さらに、上の聞取りによると、「コイー」と称する第三の沈殿物もあったことが分かる。なお、下層澱粉を「カネ」と称するのは、「カズネ」→「カンネ」→「カネ」という語の転訛によるものと思われる。
奈良県吉野西奥地方の場合
ところで、宮本は奈良県吉野西奥地方でもクズの食料化について記録している。昭和14年10月11日に訪れた奈良県吉野郡大塔村篠原(現五條市大塔町)では、「トラカズラヲ三尺位ニキツテ、カラシテ、五条ヘ出ス。1貫80銭。[/]トラカズラノヤリネヲホツテ、タタイテ、水ニヒタシテシボル。[/]一タンオケニイレテオクト、キゴガシズム。[/]之ヲ又水デシメカヘス。[/]昔ハキゴヲ、シノハラデホツタ。10月ノホンコーマデニハガキガ来テ、米四升トカ五升トカノヤクジヨスル。[/]私ガ14ノ時、キゴ一貫目ニツキ米三升五合デアツタ。ソコノ人ハ又シメカヘテシロクシテ、吉野ノカシニシタモノデアル」と記している(田村・徳毛2019:133)。「トラカズラ」というのはクズのことである。
筆者も五條市大塔町の篠原や惣谷で「トラカズラ」や「トラノネ」という言葉を聞いた。宮本の記録によると、篠原ではクズの塊根を叩き潰して水中で揉み、それをしばらく水に浸け、澱粉を沈殿させていたようだ。さらに水を換えながら晒すというが、向垰のように布類を使って澱粉を濾過精製する工程への言及がない。
篠原で製造された「キゴ」は、米と交換するために町へと出荷されていたようで、宮本は「ソコノ人ハ又シメカヘテシロクシテ、吉野ノカシニシタモノデアル」と記している。おそらく、繊維質の混じる粗製澱粉を業者が買い取り、町方で澱粉を濾過精製していたのだろう。筆者が調査した奈良県宇陀市の黒川本家でも、山方でクズの採掘から粉砕、粗濾過までを行った「粗製葛」を本家に運び込み、そこで濾過精製を繰り返し、精度の高い「吉野本葛」を製造していた。大蔵永常の天保年間の著作『竈賑』にも、「山より掘出して製したるまま未だ晒さざる」ものとして「灰葛」が登場する(和田齊編1943:104)。宮本の調査は、これらと同様の役割分担、地域間の分業を捉えていたものと思われる。山と町が貨幣経済によって結び付いていたことがうかがえる。写真2は筆者が平成29年2月に福井県若狭町熊川を調査した時のものである。ここでは細目のサラシ布を使って澱粉を濾過した後、上水の交換と攪拌を約2ヶ月かけて25回も行い、澱粉を精製していた。
一方、現地で澱粉を採取し、そのまま自家用に消費していたのではないかと思われる記録もある。宮本は昭和14年10月11日に訪れた奈良県吉野郡天川村坪内で、「ワラビキゴ、クズキゴヲツクル。[中略]クズノウカレ(ハハトモイフ)ハ、ウマクナイ。デンプンノ上ニタマルモノデアル」と記している(田村・徳毛2019:90)。
「クズノウカレ」とは、澱粉の上に泥状に溜まる上層沈殿物のことで、先に示した椎葉村向山日当において「クロクズ」と呼ばれていたものである。紀伊山地で筆者が調査したところでも、和歌山県田辺市の竹ノ平や向山、深谷などでは「キゴ」と称する下層澱粉に対し、「ウキ」と称する上層沈殿物も採取していた。
上層澱粉は水分量が多く泥のようにドブドブとしているので、灰を用いて水気を取る。その後特に乾燥させたりはせずに、生のまま団子に丸め、囲炉裏の灰に埋めたり、熾きにのせたりして焼いて食べた。紀伊山地ではこれを「クズモチ」や「ウキモチ」、九州山地では「クロダゴ」や「ドロダゴ」と称した。これら食品の味覚に対する評価は総じて高く、「また食べてみたい」と当時を懐かしむ人が多いのも印象的だった。ほかに米粉や麦粉と混ぜて団子にする、味噌汁に入れる、鍋で煮て練り固める、熱湯を注ぎ茶碗掻きする、お粥に混ぜる、といった食法も認めた。
下層澱粉は緻密に沈殿しているので、包丁やヘラなどで切り出して干した。この方はもっぱら乾燥させて保存し、腹薬や頭痛薬、風邪薬、そのほか病人食や離乳食にすることが多かった。その延長で、見舞いの品という用法も見られた。先に示した椎葉村の例では「家に病人がいるからカズネ分けてくれんか」と隣近所に葛粉を求めたという。主たる食べ方は茶碗掻きである。これは茶碗に粉をとり、熱湯で掻いて粘らせるものである。ほかに麦粥や茶粥に入れて増粘させる、味噌汁に入れる、団子に握って焼く、などの調理法があり、餅とり粉としても利用された。日常的に葛粉を食べることもなかったわけではないが、多くの場合は医薬品的な位置付けで、普段は食べなかったという。しかし、蕨粉のように換金対象にされることはほとんどなく、もっぱら自家用に消費されていた点も見逃せない。山間部ではジャガイモやサツマイモから澱粉を製する以前、クズやワラビなどからの澱粉採取が積極的に行われていたのである。(つづく)
引用参考文献
・板垣優河2024「縄文時代植物採集活動の研究」博士論文、京都大学
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・江馬三枝子1975『飛騨白川村』、未来社
・田村善次郎・徳毛敦洋2019『宮本常一農漁村採訪録21 吉野西奥調査ノート』、宮本常一記念館
・中央食糧協力会編1944『郷土食慣行調査報告書』
・和田齊編1943『救荒食糧聚説』、人文閣