宮本常一記念館

学芸員ノート

028

昭和14年中国地方調査ノート その26 小結

資料紹介|2025年10月17日|板垣優河

 この連載では、宮本が昭和14年の中国地方の調査で作成した都合6冊のノートを俎上にのせ、その記録から読み取れる民俗学的な事象について、宮本の著作や筆者の調査とも対照させながら針小棒大に議論を重ねてきた。まだ検討が不十分な部分もあるが、本稿をもっていったん本連載を閉じることにし、今後は必要に応じて補遺を行うことにしたい。

 昭和14年の中国地方の調査についていま一度振り返ると、これは宮本がアチック・ミューゼアムに入って最初に行った本格的な民俗調査だった。宮本が大阪の取石尋常高等小学校を辞し、渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアム(後の日本常民文化研究所)に入ったのは、『民俗学の旅』によると、昭和14年の1025日である(宮本1978:97)。その後、1116日に東京を出発し、1117日から124日にかけて中国各地を歩いた。具体的には、まず島根県の八束半島をめぐり、江津から田所村に入って山を越え、広島県大朝町、八幡村、戸河内町、島根県匹見上村、そして山口県高根村と歩いて岩国に出た。この時期の調査の方針について、宮本は『民俗学の旅』で次のように述べている。

「渋沢先生はとにかくざっと日本全国を見てあるいておくことだといわれた。だから予備調査のようなものであった。そして特に特定のテーマを持つということもなかった。ただあるいて見る。そしていろいろの人にあい、さまざまの地域に人はどうして生活しているかを見て来る」(宮本1978:104)

 この記述は調査ノートに記録された内容とも概ね合致する。32歳で教員生活を打ち切り、民俗学研究者としての道をゆく第一歩となったこの調査では、テーマ主義的に特定の項目を掘り下げていくのではなく、まず地域の生活文化の全体をおさえることが目指されていた。そのような意図をもって作成された調査ノートは、中国各地で営まれていた農山漁村の暮らし、山野河海での生産活動の輪郭を見ようとする場合、格好の文書資料になる。

宮本の記録が広範囲に及んでいるということは、それだけ利用可能な範囲も広いということである。逆説的になるが、宮本の調査ノートを利用する者は、特定のテーマを持って、自らの仮説を検証するために記録を読み込んでいけば、何らかの知見を得ることができるだろう。本連載ではそうした可能性の一端を示せたのではないかと思う。

もっとも、その広範囲性のために、掘り下げが足りていないと感じる部分もある。間違っていると思われる部分もないわけではない。これらの不足・不備については後学によって批判的検証が加えられるべきである。本連載では筆者が全国的に行った野生堅果類・根茎類の食料化に関する民俗調査と対照させて宮本の記録を分析した。それは重箱の隅をつつくような作業ではあったが、調査ノートの意義を確認し、また日本各地で行われていた植物採集活動の地域的差異や時期的推移を見定めるうえで、必要な作業であったと考えている。

調査ノートはいずれもカタカナ主体の文字で整然と書かれており、判読するのはそれほど難しくない。それでいて大きな錯綜・混乱も見られず、話の筋が通っている。また調査ノートには「整理スミ」といった加筆や線引きが見られる。これは宮本が調査報告を作成するために残した作業痕跡である。宮本にとって調査ノートは、聞書きの記録であるとともに、後に調査報告に仕上げていくための素材でもあった。

実際に、調査ノートと、それをもとにして公刊された『出雲八束郡片句浦民俗聞書』や『中国山地民俗採訪録』を読み比べてみると、宮本が調査ノートを忠実にトレースするかたちで調査報告を書いていたことがよく分かる。

しかしながら、調査ノートには記録があるにも関わらず、調査報告では言及のないものもある。本連載では特に『中国山地民俗採訪録』で大きく省略されたアサの栽培と加工処理について検討した。この生産活動はかつて村の主幹産業の一つだったが、今となっては再調査がほとんど不可能なものである。調査ノートはそのまま調査報告として転載しても差し支えないほど的確に書かれている。宮本常一や農山漁村文化の研究を進めるには、すでにアウトプットされた著作だけでなく、あるいはそれ以上に、インプットの所産である調査ノートにも目を向けるべきだろう。特に未報告の資料については、当館の事業として積極的に公開を進める必要がある。

ところで宮本が昭和14年に歩いた中国地方の村々は、総じて生活条件の悪いところだった。昭和12年に始まる日中戦争の拡大、相次ぐ出征者、旱魃による凶作などがそれに拍車をかけていた。しかし、というよりも、そのために、人びとは強い連帯感をもって生きていた。

宮本は戦前と戦後では旅先で受ける人びとの印象が大きく変わったと述べている。戦前の高齢者からよく聞かれた言葉に、「昔はよかった」というものがあった。具体的にどの点がよかったのかというと、「自分のつとめをはたしていさえすれば決して困ることはなかった。借銭ができれば親しい者が頼母子をはじめてくれる。長い病の床について田畑の仕事がうまく運ばなくなれば、近所の者が来て手伝ってくれる。家普請にも葬式にも村人の合力はあたりまえのこととせられた。お金がなくても家を建てることができた。貧乏ぐらしをし、ろくなものはたべなくても気楽であった。お金では買えないよさがあった。それが今はすべて金、金、金で人情がうすくなった」という(宮本1972:170)。

実際に、宮本が戦前旅先で助けてもらったのも、こうした持ちつ持たれつの「相見たがい」を信条とする人びとだった。この連載で検討した「貸借による生活」にはこの思想が底流しており、「一人前の完成」はそれを円滑にするための一つの手段であったと理解することができる。調査ノートからは、戦前の中国地方にはまだそうした「お金では買えないよさ」が残っていたといえる。「四海皆同胞」や「相互扶助」の精神をひたむきに肯定し、叙述する宮本のスタイルは、この調査によって大きく形成されてくるものだと筆者は考えている。

調査ノートを読んでいると、宮本が地域の生業や生活の諸相を見聞していただけでなく、地域の社会秩序を維持し、暮らしむきを良くするための営為にも目を向けていたことが分かる。その話者となったのは、島根県田所村鱒渕の田中梅治、広島県八幡村樽床の後藤吾妻、山口県高根村向垰の美島清一など、村の優れた伝承者であるとともに指導者というべき人びとだった。彼らは村の中にいて、村の中から、自分たちの生活の場を固めようと努力していた。村の生活には様々な制約や限界があったが、それを重厚な伝承と村外から受容した知識によって乗り越えようとしていた。宮本は昭和54年に『読売新聞』に連載した「自伝抄―二ノ橋界隈―」のなかで次のように述べている。

「聞く話は労苦にみちたものが多かったが、暗いかげは少なかった。なぜなら、その労苦を克服して今日にいたっている人たちだからである。とくに山口県高根村(錦町)向垰の五〇余ヘクタールの畑を水田にきりかえる庄屋山田一家の三代にわたる苦心には心をうたれるものがあった。そして産を失ってしまうのである。しかし、産は失っても、村がよくなったことによって、この一家の人は満足している。[/]広島県芸北町樽床は今はダムの底に沈んでいるが、そこを理想郷としようとしてたたかってきた後藤吾妻氏の話などにはほんとに胸をうたれるものがあった。[/]どのような僻地にも自分たちの住む世界を理想郷にしようと懸命になって努力し工夫している人がかならずいたもので、そういう人がまたすぐれた伝承者だったのである。民俗学という学問は単に過去の消えゆきつつある習俗を調査し記録していくものではなく、過去の生活エネルギーを現在を経て将来へどのようにつないでゆくかについてしらべる学問ではないかと思った」(宮本2002:181

 中国地方の調査で得たこの所感は、宮本民俗学の全体を貫き通す思想へと発展するものである。

そのほか、この調査で宮本が得た見聞には、その後独自の民俗文化論を構築するうえで重要な論拠となったものが多い。例えば、草肥をはじめとする自給肥、アサ・フジ・シナノキ等の茎皮繊維の利用、松脂蠟燭やコエマツを用いた灯台に関する見聞は、農家の自給自足的な経営や暮らしを説明する際の事例としてたびたび引き合いに出されている。親方子方の制度や村の指導者、自治組織に関する見聞は、戦後の地主調査へと継承されている。各種の講や若者宿に関する見聞は、年齢階梯的で地縁的な社会を意識するきっかけとなり、田植えや屋根葺きといった貸借労働に関する見聞は、貸借によって補いをつける村社会とその崩壊を捉えるための視点となった。また、宮本は各地で家の間取りや屋根の形を記録していたが、それらは住居形式によってその地域や家々で営まれていた生産活動や消費生活を読み取ることができるとする独自の民家論の骨子になった。山間部における焼畑耕作や野生堅果類・根茎類の採集活動に関する見聞は、縄文時代の生業について民俗学的な推論を立てる際の参考資料になった。中国山地での砂鉄採掘と精錬、サンカ、木地屋などに関する見聞は、その後の山村文化論、ひいては日本文化形成史を立論する際の重要な構成要素となっている。

このように、民俗学研究者・宮本常一の大成にとって、昭和14年に行った中国地方の調査は極めて意義のあるものだった。調査ノートを読み進めると、宮本が優れた伝承者の知遇を得て、質の高い聞書きを量産し、地域の生活文化の全体を把握していったことがよく分かる。一連の調査ノートは、中国地方の民衆社会と生活文化のあり様を克明に伝えるとともに、宮本民俗学の形成過程を裏打ちする貴重な民俗採訪記録ということができる。

引用参考文献

・宮本常一1972『村の崩壊』(宮本常一著作集第12)、未來社
・宮本常一1978『民俗学の旅』、文藝春秋
・宮本常一2002『父母の記/自伝抄』(宮本常一著作集第42)、未來社

HOME 学芸員ノート 昭和14年中国地方調査ノート その26 小結

PAGETOP