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昭和14年中国地方調査ノート その18 親方の役割②
資料紹介|2025年8月17日|板垣優河
親方の位置
前回の記事では山口県高根村向垰(現岩国市錦町)の山田家を取り上げ、その親方等の側面を検討した。宮本は『村里を行く』のなかで、山田家のことを次のように記している。「この親方は子分に労力を強いて提供させたり、田を小作させたりする様な親方でなく、名付親とか筆親とか言ふ形式のもので、子が丈夫に育つやうにとか、困つた時には親方があれば面倒を見ていただけるとか言つたやうな意味のものであつて、隷属的なものではなかつた。されば親として子たちに幾分でもよい生活をさせたいといふのが勝次郎の念願であつた。之によつて村人たちは遂に飢えることなき日を迎へたのである」(宮本1943:282)。
この記述は、村における親方の位置を端的に表しているように思える。以下では、村を一つの「家」とした場合に生じる仮の親子関係について検討する。
カナオヤのこと
高根村向垰の場合、村人の6割は山田家を親方とする子方だった。調査ノートには、山田家の子方になるための手続きが次のように記されている。「コブンニナルニハ、酒一升、米一升モツテタノミニ来ル。[/]スルトマネイテ、ゴチソースル。[/]ヨメヤムコニイクトキ、オビ代、ハカマ代ナドヤリ、又ナイモノヲヤツタ。夫婦間ノカツトーアレバ、オヤブンガチヨーテイシタ。[中略]ハジメニタノミニクルト、日ヲ定メテ、ジツサイノオヤガ子ヲタノミニクル。[/]カナオヤヲトル。[/]子ノオヤヲオヤガトツテヤル。スルト実父ハアンシン出来ル。[/]サカナヲツクリ、実父ガカナオヤニサケヲサス。スルトカナオヤガ子ニサシ、子ガカナオヤニサス。[/]子ハカナオヤノウチヘ、正月ヘ4、5日トマリニ来ル。[/]子ニナツタモノハ、一日ネタリコケタリアソビ、夜ハゾーリヲツクリニ来タ。5月、秋ニテスケニ二、三日位クル。[/]又病気ノ時テスケニクル。[/]小作モ子ニサセタ」(板垣編2025:96-97)。
子になる方は、親になる方へ酒1升と米1升を持って頼みに行った。すると親になる方はご馳走した。初めて頼む場合は、まず実父が来る。次に子を連れて来て盃をする。実父は持参した酒を親方に差し、親方は子に差し、子は親方に差す。これで仮の親子関係が成立した。親になった者は「カナオヤ」と称した。こうして仮の親子関係が成立すると、「実父ハアンシン出来ル」という。実父はその子の幸福を願ってカナオヤをとったのである。
調査ノートには続けて次のように書かれている。「盆セツキニハ餅、テヌグヒナドヲモツテ来ルガ、ソレニ子分ガ困ルト、大抵出シテヤリ、又ゼイキンガオサマラヌト、ソレヲタテカヘテヤツタリシテ、タフレテシマツタ。[/]兄ガ病気ノ時、子分中ガ岩国マデカゴヘカツイデイツタ」(同前:97)。
親方は子方が困っていると金を出してやり、また税金が納まらないという場合は立て替えてやった。その結果、親方は借財を大きくして倒れてしまうことになる。一方で子方は親方(山田武作=美島清一の兄)が病気になると岩国まで駕籠で担いで出たという。親と子の関係は経済的なものである以前に、信頼によって強く結びついたものだった。そして、そのような関係性を一つの軸にして、先の記事でみたような向垰の発展が見られたのである。
仮の親子関係
仮の親子関係を結ぶ風は向垰だけでなく、中国地方のかなり広い範囲で見られた。島根県恵曇村片句(現松江市鹿島町)では、男子は「エボシオヤ」、女子は「カナオヤ」を地元の有力者に頼んで仮の親子関係を結んだ。前者について、調査ノートには「20デ一人マヘニナル。19ノ時ニエボシキドリヲスル。[/]有力ナモノヲオヤニタノミ、エボシオヤトイツタ。19ノモノ、エボシ子トナル。エボシオヤノ名ヲ一字モラツテ、名マヘカエヲシタ」と書かれている(板垣編2024:38)。「エボシオヤ」というのは、もとは烏帽子をきせてやったことに由来する言葉と思われる。後者については「カナオヤニハ、シンセキ又ハセイリヨクノアル人ヲタノム。[/]13ノ時デアル。[/]盆正月、オヤノ方ヘセイボトテ、3年間モツテイツタ。[/]今一年。オカガミ二重ネモツテイク。[/]オヤノ方ハ、男ノ方ハ紋ノツイタハオリヲヤリ、女ニハタンス、オビヲヤル」と書かれている(同前:65)。また、仮の親は実の親と同様に大切にされた。調査ノートには「カネオヤ、ヨボシオヤハ、両親ト同様ニケツコン式ニレツセキシタ。[/]結婚後モ大切ニ取扱ツタ。ソノ一生涯ハ実父母ト同様デアツタ。[/]ヨボシ子ハ、オセノカンヲカツイダモノデアル」と書かれている(同前:66)。
島根県田所村鱒渕(現邑南町)でも仮の親子関係を結ぶ風があった。これを「シンルイヲタノム」と称した。特に宮本が話を聞いた田中梅治は、鱒渕では最も多く仮の子をとった人だった。調査ノートには次のように書かれている。「ジブンノ長男長女ヲ、シンルイデアツテ、相当ノ家ガアルト、ソノイヘノケイヤクゴニシテモラフ。[/]ソノイヘノオモイツキデ、10クライデタノムモノモアリ。14、5或ハ女デアレバヨメイリマヘニスルコトアリ。[/]男ハケイヤクゴ。[/]女ハカナムスメ。[/]之ヲシンルイヲタノムトイフ。テモトノコマイモノガヤルノデ、各戸スルノデハナイ。[/]ソレデソノコロ人望アリ。セワヲヨクスル家ヲケイヤクオヤニタノム。[/]マスブチブラクデ数ヲイヘバ、当家ニハ十軒アル。[/]6軒、7軒或ハ二、三軒トアル家ガアル。[/]オヤコノケイヤクヲスルトキニハ、オヤガタノミニ来ル。[/]「ソンナラツマラヌガナラウ」トウケル。[/]オヤニナル家ニナンカノツイデガアルト、ゴチソーシテ、ソノオヤ子ヲヨブ。[/]来ルトキニ米一袋(白マイ二升)、サケ一升モツテクル」(板垣編2024:121)。
こうした風は全ての家で行うのではなく、「テモトノコマイモノ」が選択的に行うものであったことに注意したい。そして親に頼む者は、財産があることも一つの要件ではあったが、それだけでなく、人望があって人の世話をよくする者でなければならなかったことも大切だ。
仮の親子関係が成立した後は、親類同様の付き合いをするようになる。調査ノートには次のように書かれている。「フシンヲスルトカヨメヲトルトカスルト、オヤノモトニ子ヲヨブ。[/]セツク、盆、トシトリニハ、子ノ方カラツトメトシテ、盆礼トシテ、ワズカナモノヲヤル。[/]盆礼トシテ、ウドン四把乃至五把。年マツニハ、コンニヤク三丁クライ。コブームスビ。[/]セツクニハ、モチヲモツテユク位。又ハトーフ。[/]ケツコンスルトキニハ、ムスメニハヨメイリノセンベツヲヤリ、又コンレイノ式ニ出テユク。[/]ムスメノ場合ハツイテユカナイ。[/]ムスメノヨメイリスルトキ、オヤノモトヘ、ハツドマリニ来ルトキハ、モチノ大キナノヲ、ハツドマリモチトテ、中ニアヅキヲイレタモチヲツイテモツテクル。[/]之ハシンルイ、センベツヲモラツタ家ヘモクバル。ソシテカナオヤノトコロヘモユク。[/]ケイヤクオヤノシンダトキナドニハ、シンセキナミニツトメヲスル」(同前:122)。
親方は家普請をしたり嫁をとったりすると子方を招き、子方は節句や盆、年末には親方の家へ食品を持参した。また子方が結婚する時、親方は婚礼式に出たり餞別を出してやったりした。親方が亡くなると、子方は親戚同様の勤めを果たした。
広島県八幡村樽床(現北広島町)では、「カナオヤ」について、「ケイヤクオヤヲ、カナオヤトモイフ。[/]タイテイタヨリニナルヨーナイエヲタノム。センゾノカンケイデアルガ、シンルイカンケイノトークナルトイフヨーナ家ヘタノンダリ、ヨソカラクレバ、ヌレワラジノイヘヲケイヤクオヤニシタ」と聞いている(板垣編2025:50)。
ここで注目されるのは、他所から来た者が「ヌレワラジ」の家を仮の親にする風があったことである。「ヌレワラジ」については、「ハジメテヨツテ、ワラジヲヌイダ家。[/]サイトーキウザブローガ、コビキヲシタノガ、コノ村ニ来タ。コノ家ガケイヤクオヤニナツタ。[/]アラユルコトノソーダンニノツテヤル」と書かれている(同前:51)。村に移住する場合は、村の有力者に親方になってもらい、その村のしきたりに従うことを約束してから落ち着いたのである。
さらに、調査ノートには「タビヘヨメニイクトキハ、ケイヤクオヤヲジブンノカタニスルタメニスルノガアツタ」とも書かれている(同前:51)。他所へ嫁に行く場合、親許が良いと相手にも晴れがましいので、仮の親を自分の親として嫁入りする風があったこともうかがえる。
島根県匹見上村三葛(現益田市匹見町)では「カナオヤ」について次のように聞いている。「ウマレタトキニ名ヲツケテモラフ。[/]モチ一重、米一升ヲ盆、正月ニモツテユク。タビ、ソノ他ヲモツテユク。大キクナルト、男15ノクレカラトマリニユク。[/]トマリニユクノハ正月ダケ。二、三日。二、三年ユク。[/]ムスコハフンドシ、フデスミヲモラフ。[/]ムスメノ方ハ14ノ時、コシマキ、オシロイ、ベニヲモラフ。[/]ヨメニイクトキハ、キョーダイ、クシ、コーガイ、オシロイ、ベニ、ハリバコナド、全部カナオヤガヤル。[/]男ハハカマ、センスヲモラフ。ムスコノハナムケトテ、シマ一反位ソヘテモラフ」(同前:64)。
三葛では生まれた子の名付け親になるのはカナオヤだった。また子が結婚する時、カナオヤはその子に品物を贈った。さらに、婚礼に際して嫁と一緒に婿の家へ行くのもカナオヤだった。調査ノートには「カナオヤ夫婦。[/]ソノ家ノ身近イ人ガ親ノカハリニユク。[/]人足(ヘコカタギト云フ。1人)ガユク。[/]兄弟分モ行ク。[/]本当ノ兄弟デナク、オナジカナオヤノトコロデ子ニナツタヤウナモノガ多イ。ソレガツイテユク。[/]叔父カ叔母ガツイテユク」と書かれている(同前:64)。兄弟分(姉妹分)は本当の家族ではなく、同じカナオヤのところで仮の子になった者が多かった。このことからも、カナオヤが結婚に際して重要な役割を果たしていたことがうかがえる。
地主調査への飛翔
宮本は『ふるさとの生活』のなかで仮の親子関係を取り上げ、「ちかごろよくいわれる親分子分だの、ボス的存在だのというのは、このような制度のなごりなのですが、もとは、そのようにして村の人たちがしっかりむすばれていないと、暮らしてゆくのに不安なことが多かったのです」と述べている(宮本1950:94)。また『すまいの歴史』になるはずだった未完の原稿では、「一村が災厄につよい抵抗をもつためには、村が一つの家のような構造をもち、一戸一戸が自家をまもるための経営をおこなうとともに、村全体をまもるための経営をもおこなわねばならなかった」と述べている(宮本2007:52)。
こうした記述から読み取れるのは、宮本が村にあって旧家と呼ばれる有力者の家を生存戦略の観点から重視していたということである。調査ノートを紐解くと、上記のように仮の親子関係に関する記録が頻出するが、それは宮本が主として親方と呼ばれる村の有力者から話を聞いていたことが大きいだろう。宮本が出会った人たちは村人の上に立って彼らを一方的に搾取するのではなく、人望があり、頼りにされ、また自らが陣頭に立って村を良くしようとするリーダー的な存在だった。
宮本は戦後、新自治協会を足掛かりにして全国各地で地主調査を行うようになる。そのなかで彼が重視していた地主とは、いわゆる不在地主や寄生地主ではなく、地域に根差した親方であり指導者であった。そして、この者たちによってリードされる社会を理想にしていた。『民俗学への道』では「村落内の機構として地主は、制度の一部であり、村落自営自治のための必然的な一つの社会形態であったともいえる。したがってそれ自体の中に封建的なるものを多分に持っているが、封建性それ自身は善でも悪でもない」と述べている(宮本1968:245)。
宮本は戦後農地解放によって地主が無条件に力を失っていくなかで、彼らがかつて村の中で果たしてきた役割を確認しつつ、村内の組織制度や農業が今後どのように変わっていくのかを見定めようとしていた。その視点を確立する緒の一つとなったのが、昭和14年の中国地方の調査ではなかったかと筆者は考えている。(つづく)
引用参考文献
・板垣優河編2024『宮本常一農漁村採訪録26 昭和14年中国地方調査ノート(1)』、宮本常一記念館
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・宮本常一1943『村里を行く』、三國書房
・宮本常一1950『ふるさとの生活』、朝日新聞社
・宮本常一1968『民俗学への道』(宮本常一著作集第1巻)、未來社
・宮本常一2007『日本人の住まい 生きる場のかたちとその変遷』、農山漁村文化協会