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昭和14年中国地方調査ノート その21 貸借による生活
資料紹介|2025年9月4日|板垣優河
ユイとヨメ
宮本は『村のなりたち』のなかで、村で生きていくためには貸借による協力関係が必要であったとし、次のように述べている。「農業を中心にした地域集団は、その地域に住む者が、同一の仕事をしているということによって同業者集団であるともいえる。同業者仲間では、そこに存在する物資も同等同質のものが多く、交換するよりも貸借することによって補いをつけることが原則になる。[/]たとえば農家にあっていちばん困るものは労力の不足である。しかも労力の不足するのは農繁期である。田植・稲刈・草刈などがそれである。そういうときにあまった労力を借り、また貸す。この労力の貸借は差引において零になるのが原則であり、そういうのをユイ(結い)といった」(宮本1966:186-187)。
後述するように、ユイとは農作業等に際して互いに力を出し合うことをいうが、これがヨメの語源になったとする説がある。宮本の執筆によると思われる『風土記日本』第2巻の「庶民のめざめ」には次のように書かれている。
戦国末期から江戸初期にかけて武士の帰農が増え、嫁入り居住婚が多くなった。しかしそれ以前は、男女に夫婦関係が成立してもしばらくは別居し、女性は男性の家の手伝いに行き、男性も女性の家へ手伝いに行った。こうした労働交換のことをユイと称したが、そのユイをする女性がユイメであり、ユイメがヨメに転訛した(平凡社1957:355-356)。
父系親族結合の強い東日本では、嫁は結婚すると同時に夫の家に入ることが多かった。これに対し西日本、特に中国地方では婚戚結合の方が強く、家庭生活の基本をなしていたのは夫婦であり、親子ではなかった。このことは、先の記事で紹介した民家の間取りによってもうかがうことができる。
また結婚に際し、嫁入りに先んじて婿入りが行われる風もあった。宮本は島根県匹見上村三葛(現益田市匹見町)で「コンレイノバンニ、ムコハナカウドトユキ、ゴチソーヲウケテ、ムコハサキニカヘル。[/]ムコノシリニゲトイフ。男(14、5才)コシモトトニゲル」と聞いている(板垣編2025:64)。三葛では嫁入りの前に婿が仲人とコシモトを伴って嫁の家に行き、ご馳走を受けた後、婿はコシモトと一緒に帰った。これを「ムコノシリニゲ」と称していた。
同県恵曇村片句(現松江市鹿島町)でも嫁入りの前に婿入りが行われていた。調査ノートには「コンレイスルバンニ、ヨメノウチヘムコガハジメテクル。[/]サカヅキヲクミアツテカヘル。[/]ソノアトヨメガムコノ家ニハイリコム」と書かれている(板垣編2024:66)。
片句では男性が沖へ漁に出るか網子遠洋漁業などに出ている場合が多く、家計のやり繰りは女性が行っていた。調査ノートには「主婦ハ、コクモツヲ倉ヘノ出シイレナドハスベテ主婦。ウリ買モ主婦。[/]家ニヨツテハ、会計マデヤツタモノガアル。[/]ヨメハクラノ中ニナニガアルカ、ワカラヌトイフ。[/]ヨメニ主婦ケンノワタルノハ、主人ガインキヨシテカラデアツタ。[/]タダクチデワタシタ」と書かれている(同前:68)。
主婦権が息子の嫁に渡るのは主人が隠居してからで、それまでは主人の嫁が食料を管理していた。食料が足りていなければ、出稼ぎ等によって米を持ち帰る必要があった。調査ノートには「農ハンキノトリイレジキニ、コナシニ出テユクモノアリ。[/]生馬、サダ、法吉村ノ方ヘイツタ。[/]一日米二升カラ二升五合位。1日ニ1円クライデアツタ」と書かれている(同前:79)。
再び『風土記日本』第2巻では、ヨメという言葉は西日本では主婦になるまでの間の妻のことを指し、主婦になればカカと呼ばれたとする(平凡社1957:356)。調査ノートにも僅かであるが、「オヤジガカカヨリハヤクシヌルトイフコトアリ」と、「カカ」という呼称が出てくる(板垣編2024:124)。このことを裏付けるように、片句では主婦と嫁を厳密に区別していた。ヨメという語がユイに由来するという同書の説は、もともと夫婦は対等な関係にあり、嫁の座が決して低くはなかったことをうかがわせるものである。
ついでに、宮本は山口県高根村向垰(現岩国市錦町)で「婿ヲアラウ」として「田植ニアタラシイムコヲシロカキニ出スト、ムコヲアラフトテ、ドロヲカケル。四方カラ牛ヲケシカケル」と聞いている(板垣編2025:72)。新婿をシロカキに出すと、その婿に泥をかけたり牛をけしかけたりしたようである。『忘れられた日本人』所収の「女の世間」でも、「田植のときは女の方がえろうてのう、男を追うのが面白かった。男が甲斐性なしで苗とりがはかどらずに、あんまり人手をかりると、今度は早乙女がドベ(泥)を持ってのう、手伝いの男にぶちかけて、しまいには田の中へ突込んだりしたもんで......」という話が出てくる(宮本1960:87)。宮本は女性を、男性に虐げられる存在とは見ていなかった。
テマガエ
宮本による中国地方の調査ノートには、ユイに関する記録が頻繁に出てくる。
島根県恵曇村片句では「1人デ労力ノ足ラヌトキハ、2、3人デシアフコトヲ、テマヲカヘストイフ。[/]シゴトニオクレルト、シンセキガテツダヒニイツテヤル。[/]ムギカリ、イモオコシ、ムギマキナドヲヤル」とある(板垣編2024:65)。片句では平地が少なく段畑をひらいて麦やイモを作っていたが、畑仕事を助けてもらったら、次は相手の畑仕事をするようにしていた。こうした労働力の交換を「テマヲカヘス」と称した。
広島県大朝町(現北広島町)では「講内ヲ組ンデ田植ヲシタリ、ヤネヲフイタリスル。[/]テマガエトイヒ、イイヲスルトモイフ。[/]ヤネフキハ、オトナガユケバ、オトナガカヘス」と聞いている(板垣編2025:32)。ここでは田植えや屋根葺きに伴う労働力の貸借のことを「テマガエ」とも「イイヲスル」とも称していた。「イイ」というのは、やはりユイからの転訛であったと思われる。
広島県戸河内町本横川(現安芸太田町)では屋根葺きについて「共有山ノカヤガアツテ、ソコヲ毎年カハリゴシニ刈ル。[/]テマハ、五人ヤクトカ三人ヤクトカ、近所カラカリニイクスケアリ。[/]サウシテヤネノフルイノカラテツダヒニイク。[/]四ツノドーギヨー(ニケンゴヤ・フルヤシキ・本横川・田代)アリ。自分ノ属スルドーギヨーノモノガテツダヒニユク」と聞いている(同前:57)。横川には4つの同行(地縁組)があり、屋根葺きはその内部で三人役、五人役などと決めて力を出し合うようにしていた。
島根県匹見上村三葛では「田植ハ、モトテマガエデウエテイク。ハラデクンデウエル。[/]クミトモイフ。ハラガ四ツアル。[/]ハラノテツダヒハ田植ガ主デ、牛ト之ヲオフ男ト女ガテツダヒニユク」と聞いている(同前:59)。三葛の場合、「ハラ」というのは本家を中心にしてその周辺の分家を含んだ小地域的なまとまりのことを指す。本家には特別大きな力がなく、田植えはテマガエによって行われていた。
また、三葛では屋根葺きも村の共同作業として行われていた。調査ノートには次のように書かれている。「[カヤは]共有山デ刈ル。[/]1年ニ2軒乃至3軒ガ葺クノデ、イタンダ家ガ村ニイツテ山ヲ刈ルコトニシテ、刈ルノハ4、5月ゴロニ刈ル。秋カヤヲ刈ル人モアル。カヤヲカルカラ出テクレトタノンデ、アルク。[/]テマガエトイフ。メシハヤトウウチガ出ス。[/]オイコニカマ、米一升、ナワ一ソクヲモツテユク。[/]朝ハヤク出カケル。6~7時ゴロ。一荷毎ニオウテカヘル。一日ニ三荷クラヒ出ス。[/]カヤカリハ、大キイ家デハ二人役。大体240荷。之デ大体ヤネガ葺ケル。[/]モツテカヘツタノハ、家ノマハリニツンデオク。[/]フクノハ、ヤネヤガフク。[/]ヤネヤハ広島ケンカラ来タモノデアル。[/]近頃村人モフク。[/]村ノ人ガ一人役クラヒテツダヒニ来ル。イルダケタノミニユク。[/]フシンヨロコビ[/]近イモノハモチヲツイテ、ジユーバコニイレテモツテユク。[/]ソノ他ノモノハ10銭~20銭ツツンデユク」(同前:58-59)。
三葛では屋根材にするカヤをテマガエによって刈っていた。屋根は屋根屋が葺くが、村の人にも出てもらった。その際、「フシンヨロコビ」と称して餅やお金を持ってきてもらった。三葛には家数が40戸ないし45戸あったといわれるので(宮本1976:150,153)、1年で2戸ないし3戸の屋根の葺替えをしていくと、だいたい15~20年に一度その順番が回ってくることになる。そのくらいの長期で労働力の貸借をしていたのである。
山口県高根村向垰(現岩国市錦町)でもテマガエによって田植えを行ったが、その際、手間の合理的な按分に相当の意を払っていた。向垰で田が作られるようになるのは金山谷の溝手工事が完成した明治初期である。それ以降は次のような方式で田植えをしていた。「一反ヘ早乙女四人カケル。之ハヒナカデ牛二匹ニキメテアル。[/]一町ハ毎日ウエル。40人。20匹。[/]ムカタオヲ二組ニワケテ田植ヲ行フ。[/]トシノハジメニオヒマチトイフノガアリ、ソノバンクジヲトル。[/]ソレノア[タ]ツタヒニウエル。[/]オヒマチハジユンバンニ家ヲマハル。マハル家ヲトーヤトイフ。[/]太夫サンヲマネキ、太夫ガクジヲ出ス。[/]田ヲツクラヌモノハクジヲトラヌ。[/]之ヲ田植組トイフ。[中略]カリニ5反ウエル人ハ20キテモラフ。年ハ12、3クライカラ1人トミトメル。[/]一町モツクル家ハ一町ニツイテ40人ヤクニナルカラ、カリデマニナル。[/]家ハ2人。早乙女ガ出テユク。少クツクツテイル家ハ少シ出テヨイ。[/]シカシ、ヤトハレルバアイモアリ。之ハヒヤクヲモツ。[/]タクサンツクル家ハ、足ラヌ分ヲカリデマトイヒ、タクサン出タ方ヲカシデマトイフ。[/]カリデマガ多イト、ソレダケ米ヲカシデマノ人ニワタス」(板垣編2025:71-72)。
向垰では1反の田植えに早乙女が4人出たというが、これは半日で植えられる量を示したものと思われる。すなわち1人が半日で植えられる量は2.5畝分で、半日で5反植えるなら20人の早乙女が出る必要があった。向垰には田植組が2組あり、各組が1日1町を植えたので、早乙女が20人、また田をならしたりするのに牛が10頭必要だった。この20人と10頭によって各家の田が順番に植えられていった。その順番は正月のお日待の晩にクジ引きによって決められた。
向垰の農家は田を平均5反作っていたというので(宮本1976:204)、だいたい半日で1軒分、1日で2軒分を植えていたことになる。しかし、当然5反よりも広く作っていた家もあれば狭く作っていた家もある。その場合は「カリデマ」ないし「カシデマ」が発生し、その差分は米によって埋め合わせていた。
なお、前回の記事でも述べたように、こうした労働力の按分方法が成立するには、一人前の基準が村内で共有され、かつその基準に合致したパフォーマンスを一人一人が発揮する必要があった。
さらに、向垰では家普請について「区有山ノケンリノアル人デ、ジブンノ山ノナイモノハ共有デキリ、皆ノ山ノヲ一、二本ヅツモラフ。[/]フシンヲスルトキハ、今デモ近所カラヤルコトニナツテイル。[/]キダシニハクミノ人ガ出シテヤル」と書かれている(板垣編2025:70)。山を所有している者はその山で建材をとり、所有していない者は区有林でとった。その際、近隣の家から各自が所有する山の木を1、2本ずつ提供してもらう風があった。田所村鱒渕でも建材の確保について「コビキガ家ヲツクル家ノヤマノ木ヲキツテ、アラケズリヲシテオク。之ヲ人ヲタノンデトリヨセル。[/]チカイシンルイハ、フシンミマイニキヲヤル」と聞いており(板垣編2024:114)、自家の山だけでなく親類からも建材の提供を受ける風があったことがうかがえる。
しかし、これも厳密にいえば「提供」ではなく「貸借」であったと思われる。筆者も周防大島の秋で、家の建替えをする際に建材の貸借をしたという話を聞いたことがある。その家は自分で所有していた山の木を伐って建材にしていたが、それだけでなく、他家とも約束事を取り交わし、「あなた方が家を建てる時はやるけぇ、うちが家を建てる時はくれ」などと言って建材を融通し合っていた。周防大島の長崎では60年に一度家の建替えを行ったが、その際、自分の山から松を伐り出すとともに、親戚にも建材を持ち寄ってもらった。農村では手間の貸借だけでなく、物の貸借も行われていたことに注意したい。
貸借による生活の崩壊
以上でみたように、貨幣の流通が極めて少なかった農村では、物や労力を売買するのではなく、貸借することによって補いをつける場合が多かった。かつては村人相互の協力がなければ家も建てられず、屋根も葺けず、田植えもできなかった。さらには葬式なども村人の助けを前提としたものだった。はっきりとした規則のようなものがなくても、「この前は手伝いに来てくれたから、今度はうちが手伝いに行こう」という意識が村人の中にははたらいていた。このことについて、宮本は『民俗のふるさと』のなかで「ムラの中で経営の主体となっているものは一軒一軒なのだが、みんなが歩調をそろえているということで、ムラが一つの企業体とも見えるほどであった。そういう社会では一斉作業や共同作業もおのずから成り立ってくるはずである」と述べている(宮本1975:208)。
ところで、大工仕事も、もとは村人が各自ですることができた。鹿児島県宝島の例であるが、この島は自給自足度が極めて高く、島民の戸主の半分以上は大工の技術を持っていた。かつて建築技術は農耕技術などと同様に全ての人が身に付けていたと思われるが、より高い技術が要求されるようになると少数の大工がこれにあたって他の者は手伝いにまわり、さらには大工をねぎらう行事が付け加えられるようになる(宮本1961:169)。
宮本が中国地方を歩いた昭和14年は、そのような過渡期にあたっていたと思われる。例えば田所村鱒渕では「ダイクミマイ」として「ダイクノシゴトヲスルアイダニ、モチヤスシヲコシラヘテトドケル。オハギガ多イ」と聞いている(板垣編2024:114)。自分たちに代って専門の大工が仕事をしてくれるというので、普請をする家の親類が餅や寿司、おはぎなどを作って大工のところへ持って行ったのである。このような風習について、宮本は『日本の村』のなかで「今日では、それをたいへんまちがっていることのようにいって、やめさせることばかりがやかましくいわれていますが、もともと、深い共同の精神から出たものだったのです」と述べている(宮本1953:38)。
しかし、貸借による生活をしていたところに金銭が流れ込んでくると、状況は変わってくる。金銭を払えば人の手を借りなくても済むが、これは裏を返すと、人に手を貸す機会もなくなるということである。屋根葺きの場合、それまで材料も労力も貸借によって補いをつけていたが、金銭を持つようになるとそれで建材を買い、職人を雇って葺き替えるようになった。しかし、金銭がなく、かつ貸借不可となると、屋根が傷んでも葺き替えることができない。したがって、村の中でも外観が新しい家と古い家が混在し、その差が拡大することになる。宮本はこのような状況を、「村の中の歩調がすっかりみだれてきた」と表現している(宮本1975:201-202)。貸借生活の崩壊は、こんなところにも影響が出てくるのである。(つづく)
引用参考文献
・板垣優河編2024『宮本常一農漁村採訪録26 昭和14年中国地方調査ノート(1)』、宮本常一記念館
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・平凡社1957『風土記日本』第2巻
・宮本常一1953『日本の村』、筑摩書房
・宮本常一1960『忘れられた日本人』、未來社
・宮本常一1961『庶民の発見』、未來社
・宮本常一1966『村のなりたち』(双書・日本民衆史4)、未來社
・宮本常一1975『民俗のふるさと』(日本の民俗第1巻)、河出書房新社
・宮本常一1976『中国山地民俗採訪録』(宮本常一著作集第23巻)、未來社