宮本常一記念館

学芸員ノート

015

昭和14年中国地方調査ノート その14 靭皮繊維の利用と仕事着

資料紹介|2025年7月24日|板垣優河

フジの靭皮繊維

 前回の記事では、アサが縄文時代から栽培されていたことを示したうえで、中国地方の調査ノートにみえるアサの栽培と加工処理について検討した。今回の記事では、主として山野に自生する草木を対象とした靭皮繊維の利用、及び仕事着を検討する。宮本の記録を参照すると、中国山地では野生植物からの繊維採取が盛んに行われていたことが分かる。

 なかでも多いのはフジからの繊維採取である。島根県邑智郡田所村鱒渕(現邑南町)では「藤コソ」と称するフジの靭皮繊維について、次のように記している。「5月末ゴロ山ニイツテ、フジヲキツテ(径三四分、二年目物)、山デシンヲヌイテモドリ、ウチニカヘツテ、ウチカワノシロイトコロヲトリ、木灰ヲ多クシテナベニイレ、水ヲソソギ、シバラクニル。[/]ソレヲ川ヘイツテコグ。スルト、アサトオナジヨーニナル。[/]ソレヲ冬ノヒマナ時ニウンデ、クルマニカケテツムグ。[/](ツムグモノハタテ[縦糸]ニスル)[/]ヨコニオルニハ、ヘソヲコシラヘル。[/]ウンダノヲヌラシテ、ヌレタノヲヘソニスル。サイニイレテオル。ムカシノハタ[地機]デナイトオレナイ」(板垣編2024:88-89)。

 また、広島県山県郡大朝町(現北広島町)でも「フジコソ」について詳しく聞いている。調査ノートには「フジヤマガアツタ。[/]フジヲウエテイタ。各自ガ持ツテイタ。[/]フジヲキルノハ、秋ノヒガンカラ春ノヒガンマデ。アカイ皮ヲシタヨコニシジラノハイ[ツ]タノガヨイ。[/]ソレヲ石ノ上デ、タテツチデタタキツブシ、カワト実トワケテ、オニ皮ヲカマデコサゲトル。オニカワハタイマツニシタ。シンハヒナワデツポーノヒナワニナウタモノデアル。タバコヲスフノニモツテアルイタ。[/]カハハホシ、キツテ水気ヲナクシテ、ソレヲミズニツケテ、ユルイデタイタ。ハイヲモブレルダケモブツテ、カマヘイレテニル。ソレヲ川デ、アサヲコグヨーニコグ。[/]ソレニコメヌカヲモブル。ソレヲカハカシテ、ヌルユヲカケテ、又川デノシヲナガス。ノビキツタノヲ、タクラヌヨウニホス。[/]カハクト、アサトオナジモノニナル。ウンデツムイデ、糸車ニカケル。[/]アサヨリ少シヨハイ。実ニ小サイセンイデ、山着ニコシラヘテ着タ。[/]アサオガタラヌト、フジヲツカツタ。[/]フジヲ56尺ニキツテ来テコシラヘタ」と書いている(板垣編2025:29)。

 上の記録によると、中国山地ではフジから内皮を剥き出し、それを木灰を入れた鍋で煮て軟らかくし、川で扱いでいたようだ。フジの靭皮繊維は「アサトオナジヨーニナル」とも「アサヨリ少シヨハイ。実ニ小サイセンイデ、山着ニコシラヘテ着タ」ともいわれる。大朝町では「フジヤマ」(藤山)と称し、フジを採取するための山を各家で持っていたようだが、このことは、フジが繊維原料として重視されていたことをうかがわせるものである。

ところで万葉集には「須磨の海人の塩焼衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず」という歌がある。これは「須磨の浦の海人が塩を焼く時に着る藤の衣の織目が粗いように、間も遠いので、その衣はまだ着なれていない」という意味であり(奈良県立万葉文化館の万葉百科を参照)、古代にはすでに藤布が存在したことが分かる。近世になると木綿が普及し、フジの靭皮繊維の利用度は一般には低下する。しかし、宮本の記録からは、中国山地では近代に至るまでその利用が継続したことがうかがえる。なお、静岡県の安部川・大井川流域ではフジの繊維で織った布のことを「タフ」と呼んでいた。この呼称は「藤布」(とうふ)から生まれたものと推定されている。山梨県南巨摩郡早川町ではフジの繊維で織った「タホ」を着用し、麦コナシの際に身体に芒が刺さったり、山で茨が刺さったりするのを除けたという(野本2024:377)。さらに、静岡県掛川市ではクズの靭皮繊維を用いて織った葛布が伝統工芸品に指定されている。かつてはフジとともにクズの利用度も高かったと考えられる。

野本寛一はフジやシナノキの繊維で糸を作る場合、灰などを使ってアク抜きをしたり、水で晒したりする必要があることに注目している。これらの工程はトチやナラ、トコロなどの食料化処理でも見られるものであり、「シナ・藤の布が採集時代のアクヌキ文化とセットになっていたことをよく物語るものと言えよう」と述べている(野本1987:339)。これは示唆に富む指摘である。

 先の記事でみたように、中国山地ではクリ・トチ・ナラ・カシなどの堅果類、クズ・ワラビ・ツルボなどの根茎類が食料化されていた。このうちクリは生でも食べられるが、トチは剥き身を叩き潰し、灰汁に浸け、川の流水で晒すことによってアク抜きしていた。ナラ・カシは対象を粉砕したうえで水に晒し、クズ・ワラビも粉砕して澱粉を採取した。ツルボは長時間煮沸することによってアク抜きしていた。これら加灰・水晒し・煮沸・粉砕等の技術はフジの加工処理にも採用されていたものである。縄文時代の遺跡からは人為的に破砕されたトチの種皮片が多数出土しているので、縄文人がトチの加工処理技術を保有していたと考えられる。よって、フジの靭皮繊維の利用も早い段階で始まっていたと推測できる。

シナノキの靭皮繊維

 宮本は大朝町で、シナノキの靭皮繊維の利用について聞いている。調査ノートには、「アキ、土用ミテニ木ヲ刈ル。三、四尺ニキツテ、皮ヲハイデ、ソレヲ水ノカワラヌクサレイケニナゲコンデオク。[/]アクル年ノ四月ゴロニモチアゲテ、川デ上ノ皮ヲアラフ。上ノ皮ガクサラヌトトレヌ。ソレヲホシテオク。ソレヲナワニスル。[/]ホスト、ワラヨリヨハル。水ニツケルトツヨクナル」と書いている(板垣編2025:29)。

 シナノキの外皮を除去して滞留する池の水に半年ほど浸けておき、川で洗って内皮を取り、それで縄を作ったとする。当地ではシナノキの靭皮繊維で布を織ることはなかったようだが(宮本1976:88)、シナノキ製の縄は「稲藁以前」を考えるうえで興味深いものである。

稲作をベースとする農村ではもっぱら稲藁が結束材として用いられてきたが、稲作に不適な山村ではその外の自然素材が巧みに利用されてきた。筆者が調査したところでは、例えば宮崎県東臼杵郡椎葉村では畑作物の結束にクズの蔓を利用していた。また、澱粉をとった後のワラビの根茎の筋滓で縄を製作した地域もあった。宮本も『民具学の提唱』のなかで、奈良県吉野郡大塔村篠原(現五條市)の「ワラビ縄」に言及している(宮本1979:138)。「蕨縄」という語は天保121841)年頃に萩藩の主導でまとめられた『防長風土注進案』にも多数登場し、宮本の郷里がある周防大島西方村(現周防大島町)の場合も諸上納物のところに「蕨縄七束四房半」と書かれている(山口県文書館編1961:122)。また、富田礼彦によって明治31873)年に完成された地誌『斐太後風土記』にも、蕨粉を生産した益田郡阿多野郷日和田村(現高山市)で「蕨縄五百五十把」といった記載が見える(蘆田編1968:186)。蕨縄は丈夫で水に強かったので、岩手県北上山地や高知県四万十地方でも橋を繋いだり屋根材を縛ったりするのに使用していた(以上、板垣2024)。

また、秋田県北秋田郡森吉町(現北秋田市)では、シナノキのことを「マダ」や「マンダ」と称し、その外皮から3分の1ほどを剥ぎ捨て、残った幹を34ヶ月池の水に浸け、剥がれてくる内皮で蓑を作った。これを「マダケラ」と称して着用した。ほかにシナノキの内皮で作った製品として、長野県秋山郷(下水内郡栄村)の「サイテゴ」(手籠)、石川県石川郡白峰村(現白山市)の「シナハバキ」(脚絆)などが報告されている(以上、野本1987:337-338)。シナノキは稲藁の代替素材として縄以外にも様々な使い道があったことがうかがえる。

コーラン

 宮本は田所村鱒渕で「ハバキ」について、「コウラニテツクル。コーラントモ云フ。蘭カ。[/]春ヒイテ、水ニ秋マデツケテオク。川ニツケルモノモアリ。[/]タメ池ニツケルトキタナイモノニナル。之ヲ川デアラフ。[/]ソレヲホシテミノ、ハバキヲアム」と記している(板垣編2024:90)。「コーラ」ないし「コーラン」と称する野生のラン科を春に引き、秋まで川に浸けて繊維を取り、それでハバキを編んだり蓑を編んだりしたという。また、広島県戸河内町本横川(現安芸太田町)では、「コーラハ、シバギ[柴木]カラカヒニクル。[/]ミノセンモンノトコロデ、ヒロシマヘ出ス。[/]一マル三十枚クライデ、五マル、六マルモ出ス。[/]コノアタリハ、キルダケツクル」と記している(板垣編2025:57)。コーラは蓑を専門に作っていた柴木(安芸太田町)からでも買いにくるほどであったという。周防大島の場合、蓑の素材には稲藁とシュロの二種が使われていたが、全国的にみると、ほかにもコーランやシナノキなども使われていたことが分かる。

そのほか、宮本は大朝町で「クララ、ムコギハ野ニアル。ヨイセンイアリ。[/]イトランハ実ニヨイセンイアリ」と記録している(板垣編2025:30)。当地域ではクララ・ムコギ・イトランなどの繊維も採取されていたことが分かる。

ツヅリ

 宮本の調査ノートには、しばしば「ツヅリ」と称する仕事着のことが出てくる。田所村ではこの「ツヅリ」について、「タテ[縦糸]ヲアサ、ヨコヲモメンノボロ。ソデナシニスル。[/]コンニソメル。[/]ヒロシマ方面デハ、コンニソメズ、シマニオル。[/]山県[郡]デハタクサン着ル。ニモツヲオフニヨイ」と記している(板垣編2024:89)。また、「アカナ[赤名]ハミナツヅリヲキテイル。[/]石見ハ紺。アキハオツタママ。[/]亀谷デハタクサンキテイル。[/]赤名カラ東モ多ク用ヒテイル。[/]労働用。[/]ヨコヲボロニテオル」として、ツヅリの図を描いている(同前:119、写真1)。この図を見ると、「ツヅリ」は前合わせタイプの袖無のようである。『中国山地民俗採訪録』には同図を清書したものが掲載され、「越路に多く見られるサックリ系統であろう」との註が付されている(宮本1976:69)。なお、「サックリ」について、石川県白山市中宮では男性が夏から10月頃まで着用する筒袖、前合わせ、太股の半分までの丈の仕事着で、その素材にはアサを主としてイラクサの繊維が用いられた、との報告がある(野本2024:374)。

写真1 田所村のツヅリ

大朝町では「カミヨリノツヅレオリハアル」と記されている(板垣編2025:30)。広島県八幡村樽床(現北広島町)では、「昔ハツヅレヲカナラズ着タ。モメンハミナ手オリデアツタ。[/]キネバナラヌモノニシタ。コチラハコンニソメタ。[/]戸河内アタリデソメタ」とある(同前:52)。山口県高根村向垰(現岩国市錦町)でも「上等ノコーゾヲハバ二分クライニキリ、モメングルマニカケテツムグ。タテハヲ[麻]デアル」と書いている(同前:69)。中国山地ではツヅリが仕事着として多用され、その素材には麻をはじめ木綿、楮紙などがあったことが分かる。

 野生植物から採取した靭皮繊維の利用、アサを主素材とする仕事着の多用は、中国山地における衣類の生産及び消費生活が極めて自給自足度の高いものであったことをうかがわせる。(つづく)

引用参考文献

・蘆田伊人編1968『大日本地誌大系 斐太後風土記』下巻、雄山閣
・板垣優河2024「縄文時代植物採集活動の研究」博士論文、京都大学
・板垣優河編2024『宮本常一農漁村採訪録26 昭和14年中国地方調査ノート(1)』、宮本常一記念館
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・野本寛一1987『生態民俗学序説』、白水社
・野本寛一2024『新修民俗語彙』、柊風舎
・宮本常一1976『中国山地民俗採訪録』(宮本常一著作集第23巻)、未來社
・宮本常一1979『民具学の提唱』(民族文化双書1)、未来社
・山口県文書館編1961『防長風土注進案』第1巻 大島宰判 上、山口県立山口図書館
・奈良県立万葉文化館 万葉百科
https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detail?cls=db_manyo&pkey=413

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