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昭和14年中国地方調査ノート その8 様々な食べ物③ ドングリ
資料紹介|2025年6月5日|板垣優河
ドングリの食用化
日本ではドングリのなる木として、コナラ属・マテバシイ属・シイ属の3属に分類される19種が知られる。このうち、以下ではコナラ属コナラ亜属に分類されるコナラ・ミズナラ・カシワ・ナラガシワ・クヌギ・アベマキ・ウバメガシのうち、照葉樹性のウバメガシを除いた6種を「ナラ」と総称する。これに対し、コナラ属アカガシ亜属に分類されるアラカシ・アカガシ・イチイガシ・シラカシと、コナラ亜属に分類されるウバメガシを「カシ」と総称して検討を進める(写真1・2)。
ナラのうち、ミズナラは落葉広葉樹林帯の主たる構成樹種として東北日本に卓越し、照葉樹林帯の主たる構成種として西南日本に卓越するアラカシの分布と棲み分けている。以下に示す宮本の調査記録からは、中国山地ではナラとカシが同じ地域のなかで混在して分布し、ともに食用にされていたことがうかがえる。
宮本は山口県高根村向垰(現岩国市錦町)で、ナラ・カシの実の食習を次のように記録している。「木ノ実ヲタベタ。カタギノ実、ナラギノ実ヲ国有林ヘイツテヒロツテ来テ、一応皮ヲムイテ、ツイテハタク。[/]ソレヲフクロヘイレテ、一昼夜水ニタタカスト、木ノ実ノシブガヌケル。ソレヲダンゴニシテ、湯ヲカケテ、ニエタツタトキ、ソノダンゴヲイレル。ニエルトウイテクルカラ、ソレヲトツテタベル。ソレニキナコヲツケテタベタ。[/]貧民ハシホヲツケテタベタ。[/]キノミダンゴトゲスノ子ハ、三ツマデハヨイ。[/]私ハキノミダンゴハ始終タベタ」(板垣編2025:81)。
向垰では皮を剥き、搗いて粉にした実を袋に入れ、水に一昼夜打たせてアク抜きをしていた。その粉を単独で捏ねたのか、穀類と混ぜて捏ねたのかはよく分からないが、団子に丸め、茹でて食べたとする。「キノミダンゴトゲスノ子ハ、三ツマデハヨイ」というのは、「木の実団子と下司の子は、三つまでは良い」ということなので、この団子は少量食べる分には良いが、喉を通りにくい食品だったようだ。それにも関わらず、話者(美島清一)は始終食べたと述べており、当時の厳しい食料事情をうかがうことができる。
戦時中に刊行された『郷土食慣行調査報告書』には、広島県芦品郡下で明治中期以前の飢饉の際に用いられた食べ物として「どんぐり」があげられ、その食法が次にように書かれている。「団栗を唐臼で搗いて皮を除き、石臼で挽き粉にして、それを二-三日間水に浸して渋を抜く。これと稗麦粉とを半々に混ぜて団子にして食べる。櫟の実より樫の実がよいといはれている」(中央食糧協力会編1944:397)。本書に記された加工調理法は、宮本の調査記録とも概ね符合するものである。
ここで注目したいのは、ナラもカシも粉砕し、水に晒すことによってアク抜きし、粉食にされていたことである。このことが持つ食文化的な意義を浮き彫りにするために、次にほかの地域で宮本が記録したドングリの加工調理法を検討する。
様々なドングリの加工調理法
管見の範囲では、宮本は中国山地のほかに青森県下北地方(むつ市周辺)や秋田県仙北郡檜木内村(現仙北市西木町)、奈良県吉野西奥地方(十津川村周辺)でドングリの加工調理法を記録している。以下、該当箇所を掲げる。
①青森県むつ市関根 昭和39年8月12日記録(「下北調査1 昭和38年度・39年度 むつ市」文書8-1/0012/01/00 )
「ドングリハ、アズキノカワリニタベタ。[/]シダミトモイフ。アクトシダミヲニテ、アクノフクロヲ出シテ又ニテ、ソレヲツブシテ、アンニスル」
②青森県むつ市城ヶ沢 昭和39年3月9日記録(同前)
「ナラノ実(シダミ)ハ、タベテイル。食料ノナイトキニハタベタ。[/]ニテ、水ダシテニテ、又ニテ、ソレヲツブシテ、シオ、サトウヲマゼテタベル」
③青森県下北郡東通村砂子又 昭和38年8月10日記録(「下北調査2 東通村」文書8-1/0013/01/00)
「山ニハエテイルモノハ、クリ、ナラガ大キカツタ。[/]クリハ全山ニシゲツテイタ。クマガ実ニ多カツタ。[/]カゼガフクト、カマスヲモツテイキ、クリヲヒロイ、ナラバヤシデハ、シダミヲトツテタベタ。[/]木ハナラノ方ガ多カツタ。大キナ3尺直ケイノ木ガアツタ。木ニクマガノボツテイツタモノデアル。[/]シダミヲ大キイナベニイレテ、アクヲイレテタイテ、ホシテ、ウスデツイテ、カワヲトリ、サラニニテ、シブヲヌイテ、タイテタベル」
④秋田県仙北郡檜木内村堀内 昭和23年1月3日記録([秋田県仙北郡桧木内村堀内浅利つぎ聞書き]文書2-1/0100/01/00)
「シダミ(ドングリノ実)、凶作ノトキニ少シタベル。[/]シダミヲニルトキ、2~3升ナラバ、ササノハヲイレルト、アクガヌケル。スコシシブミガアル。[/]ニテ皮ヲトリ、ツブス。ソシテコシアンニスル。[/]ソレニ米ノ粉ナド加ヘテタベル。[/]ヨモギヲイレルコトモアル」
⑤奈良県吉野郡十津川村迫 昭和14年10月13日記録(「吉野西奥採訪記(五) 篠原、十津川村迫」(文書1-1/0036/01/00、田村・徳毛編2019:164)
「カシノミハ、サラシテ粉ニシタ」
⑥奈良県吉野郡十津川村湯泉地温泉 昭和14年10月14日記録(「吉野西奥採訪記六 湯泉地、上葛川、玉置川」文書1-1/0037/01/00、田村・徳毛編2019:177)
「ホソ、カシノミ、ヒロツテ来テホシテ、ツチデ一ツヅツタタキ、中ノミヲトツテ、コニハタイテ、川デアハシテ(三日)、水デネツテ、オツユニイレタリ、ヤイテタベル」
筆者が調査した岩手県北上山地では、コナラ・ミズナラ・カシワの果実およびその加工食品のことを「シダミ」と呼んでいた。①~④より、その呼称が下北地方や檜木内村にも分布していたことが分かる。一方、紀伊山地ではコナラ・ミズナラの果実のことを「ホソ」や「ホウソ」と称し、カシの果実とは明確に呼び分けていた。この点は⑥の記録とも合致する。
加工法について、①ではまず灰の入った袋とナラ(おそらく剥き身)を一緒に煮た後、袋を取り出し、再び煮てアク抜きをしている。工程的には筆者が調査した北上山地の諸例と共通する。②は加灰工程への言及がないが、文脈からして、おそらく①と同様の工程で処理したものと思われる。一方、③と④では、皮付きのまま加灰し、煮沸した後に皮を剥いたとする。しかし、この点については宮本の記録がやや錯綜しているように見える。筆者が調査した北上山地や石川県白山市白峰では、全て剥き身にしてから煮沸していた。宮本の記録にみる皮剥き前の煮沸は、アク抜きというよりも殺虫、つまり長期貯蔵のための下処理的な意味合いが強かったと推測する。だが、その後の処理については情報が不足している。
いずれにせよ、加灰し、煮沸されたナラは手でも簡単に潰せるほど柔軟化した(写真3)。①②④ではそれを餡子のように潰して食べたとする。一方、戦中および終戦直後の北上山地では、潰さずに粒のまま茶碗に盛り、まさにご飯の代わりに食べることが多かった。この点はナラの加工法や食品形態、食料としての位置付けなどが、時期や地域によって若干相違していた可能性がある。
紀伊山地ではその垂直な地理的構造のゆえに、ナラとカシが比較的狭い範囲内に混在して分布していた。吉野西奥地方の⑥では、ナラもカシも叩いて粉砕し、川の流水で晒したとする。粉砕し、水に晒すという点では先にみた高根村向垰の手法と共通する。①~④でみた煮沸を主とする処理法とは全く系統が異なる加工タイプということができる。
筆者も、奈良県吉野郡十津川村や和歌山県田辺市龍神村などで、ナラとカシを水晒しによって処理していたことを確認している。龍神村丹生ノ川の場合、11月頃に落ちるカシの実を拾った。それを日に干し、唐臼で搗いて皮を剥く。少し干してからまた搗き、フルイにかけて残った粒をまた搗いて粉化する。その粉を袋に入れ、谷の水が落ちるところへ持って行き、上から水をかけ落として1、2日晒した。それを茶粥に入れたり、小さく握って味噌汁に入れたりして食べた。ホウソ(コナラ)も同じようにして食べたが、カシの方が美味しかったという。特に戦時中は食べるものが不足していたので、上記のようにドングリを加工して食べたのだった。
また⑤には、カシを「サラシテ粉ニシタ」とあるが、その前に「粉ニシテ」という部分に取消し線が入っている(写真4)。これを額面通りに読めば、宮本が記録したのは「粉砕→水晒し」ではなく「水晒し→粉砕」という手順を踏む処理法だったといえる。つまり、⑥とは粉砕と水晒しの順序が逆になるのである。筆者の調査でも、和歌山県田辺市本宮町、徳島県那賀郡那賀町、高知県四万十市西土佐奥屋内などで、カシを粒のまま水に晒した例を認めている。
西土佐奥屋内では「カシモチ」と称する食品が食べられていた。これは、米の量を増やす目的で、糯米にカシの粉を搗き混ぜて成形する食品だった。まず11月頃に落ちるカシの実を拾い、乾燥させ、木槌で割って皮と身を分ける。1個1個渋皮を手で剥き、きれいな粒だけにする。竹製のザルに入れて川の流水に浸け、アクが出るまで1週間ほど晒す。それを干し、ひき臼にかけて粉にする(写真5)。これを糯米と一緒に蒸して搗いた。
岩手県遠野市附馬牛町でも、ナラを粒のまま川の流れに晒していたところがあった。ただし、筆者が行った復元実験の結果からすると、粉砕してから水に晒す方が処理時間は短縮され、食料化作業としてはより効果的である(板垣2024)。民俗例で粒のままでの水晒しが散見するのは、主として穀類と結合させて食べていたため、対象を完全にアク抜きする必要がなかったからではないかと推測する。また、風味としての渋みを残すために、あえて粒のまま晒していた可能性も考えられる。
ドングリ食の食文化的な意義
宮本の調査記録は、これまで調査が不足していた中国山地のドングリ食を伝えるものとして貴重である。また、ほかの調査記録も合わせて透視できることは、一口にドングリといっても、日本各地には様々な加工法が伝承されていたということである。
特に注目されるのは、水晒しを経たドングリがその前後で粉砕され、粉食にされていたということだ。粉にしてしまえば他の食材と混ざりやすく、また団子や餅状の食品に成形しやすかった。ドングリの場合、水晒しと粉砕はワンセットで把握されるべき食料加工技術だったといえる。そしてこの技術は、縄文時代から伝承されたものだったと考えたい。宮本も「森に住んだ人びと」と題する論考のなかで、「水さらし」の技術に注目し、「水さらしというのが今日でもわれわれの調理方法のなかに大きな比重を占めているというのは、過去においてそういう調理が中心になっていた時代があったことを物語る」と述べている(宮本1976:3)。
また、宮本は水晒しのほかに煮沸という食料加工技術にも注目していた。宮本は「煮ることと蒸すこと」と題して昭和53(1978)年7月に行った日本生活学会第4回公開講演のなかで、日本人の食生活の中心になっている「煮る」という行為は縄文土器の出現まで遡り、その縄文土器は植物性のものを煮てアク抜きをしたり、貝類を食べるために発達したものとする。そして今日の食文化は「煮る文化」の延長で説明できる部分が多いとし、「その最初に敷かれたレールは、実は縄文のはじめにあった。それが弥生式文化に受け継がれて今日の日本の食文化の基礎をつくりあげていった」と述べている(宮本1980:125)。
宮本は水晒しや煮沸といった食料加工の技術に早くから注目し、それらを日本的食文化の基盤に位置付けようとしていた。そうした見解は、山村のドングリ食を広く聞くなかで形成されてきたものではないかと思われる。(つづく)
引用参考文献
・板垣優河2024「縄文時代植物採集活動の研究」博士論文、京都大学
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・田村善次郎・徳毛敦洋2019『宮本常一農漁村採訪録21 吉野西奥調査ノート』、宮本常一記念館
・中央食糧協力会編1944『郷土食慣行調査報告書』
・宮本常一1976「森に住んだ人びと」『環境文化』第21号、環境文化研究所、2-11頁
・宮本常一1980「煮ることと蒸すこと」『生活学』第6冊、ドメス出版、105-125頁