宮本常一記念館

学芸員ノート

012

昭和14年中国地方調査ノート その11 様々な食べ物⑥ ツルボ・ヒガンバナ

資料紹介|2025年7月4日|板垣優河

ツルボの鱗茎

 宮本は山口県高根村向垰(現岩国市錦町)で「モメラ」という興味深い植物の食法を聞いている。調査のノートには次のように記されている。「野生ノモノデアル。スイセンノ葉ノヨーナモノガ五本モ十本モ出ルガ、ソレヲ土用前後ニ畑ガ多イノデ、ヒリヨーガタラズ、ヒリヨーガタラヌト、モメラガ出来ル。ソレヲ手デカクト上ニ出ルノデ、ソレヲヒロフ。タマネギノ小サイヨウナモノ。[/]之ヲ三日ホドタク。ニタラヌト、クチヲホソメルヨーニシブイ。[/]ソレヲヨクニルト、アマミアリ。カミシメルトニガイ。[/]ムギノ粉ト切木デネリマゼテタベタ。常食ニシタモノデアル」(板垣編2025:81-82、写真12)。宮本は島根県匹見上村三葛(現益田市匹見町)でも「モメラ」について「ラツキヨーニ似タモノデ、畑ニアル」と聞いている(同前:62)。

写真1 中国地方調査ノートにみる「モメラ」の食法
写真2 中国地方調査ノートにみる「モメラ」の食法(続き)

 この「モメラ」は、形態的特徴や加工調理法、呼称法からして、筆者はツルボのことではないかと考えている。ツルボはキジカクシ科ツルボ属の多年生草本で、北海道から九州、中国、台湾の原野に生える。長線形の葉は春秋2回出て春の葉は夏枯れる。初秋になると葉の間から茎が直立し、淡紫色で穂のような総状花序がつく。鱗茎は卵球形で長さ23cm、外皮は黒褐色、下部には細い根が束生している。九州山地ではツルボのことを「スミラ」「スミレ」「スベラ」などと称し、その鱗茎を掘って食用にすることがあった。そうすると、中国山地における「モメラ」という呼称は、上記の呼称からの転訛ではないかと思われる。

九州山地のツルボ食

 以下、筆者が九州山地で調査したツルボ鱗茎の食料化事例を3件示す(板垣2024)。

事例① 宮崎県東臼杵郡椎葉村向山日当 女性(大正生まれ)
 スミラは小指の先くらいの大きさで、ラッキョウと一緒の形をしている。春34月、畑や原っぱに鍬を打つと土中からその根が塊になって現れる。それを際によけて何日も掘るとカゴいっぱいになった。その後、洗わずに1ヶ月ほど干すと甘みが出る。上皮をとってきれいな身だけにし、大きな釜で3日も4日も炊く。焦げ付かないよう、1日に2回水を差し、シャモジで底からかき上げ、水を均等に送る。あまり火を強くせず、「ぶっすりぶっすり」と音が立つくらいで炊いた。スミラを炊いている時、人がブツブツと話しているようだった。それだけではイガライので、ハッタイ粉(麦の炒り粉)と練り混ぜて食べた。また、煮えたスミラをザルに上げた後、醤油のように黒みがかった煮汁を瓶にとっておく。子どもが腹痛をおこすとスミラの煮汁を飲ませてやった。

事例② 宮崎県東臼杵郡椎葉村向山日添 女性(戦前生まれ)
 スミラは45月にヤボを焼いた後(焼畑後)の原っぱやトウキビ畑に掘りに行った。根は小さく、群生するところで掘らないと割に合わない。鍬で土を突きほぐしながら掘り、大きな根を中心に拾い、小さな根は後から増えるように残しておいた。掘った根は天日に広げて干し、カラカラになったところを手で揉み、皮をとる。それを洗って釜で煮る。焦げ付きをおさえるために、切り揃えた藁を釜の底に敷き込んで炊いた。また、スミラの上まで水が被るよう、適宜水を注ぎ足して炊く。水が少したぎるくらいで火力を保ち、寝るときは釜に水を満たし、置き火にした。そうして5日くらい煮ると、スミラは干し葡萄のようになる。これにハッタイ粉を加え、練って食べた。なお、スミラの煮汁は別にとっておき、キュウリなどにかけて食べた。

事例③ 宮崎県児湯郡西米良村村所 女性(大正生まれ)
 スミラはいわゆる救荒食物だった。痩せた畑や小石混じりの土地に多く、初秋の頃、サトイモを掘るのに鍬を打つと、土の中からコロコロと出てきた。それを拾い集め、軒下に広げてしばらく干す。時々かき混ぜて下部のひげ根と上部の葉をとり、大釜で1週間ほど炊く。釜にはヒタヒタになるまで水を入れ、カジ(コウゾ)やカズネ(クズ)の葉で上を覆って蓋をする。最初は強火で、その後は弱火でトロトロと炊く。蓋と大釜の隙間に竹筒を差し、それを介して水を少しずつ注ぎ足した。炊き上がった時に蓋をあけると、甘い匂いが立つ。煮えたスミラにハッタイ粉をまぶして食べた。

 筆者が全国的に行った民俗調査では、ツルボの食伝承を残す地域は九州山地に集中的に分布することを確認している。それ以外の地域ではツルボの食伝承を見出すことができなかった。その点で、宮本の中国山地における記録は貴重である。さらに、ツルボが生育する土性や長時間煮沸を前提とする加工処理、味覚、麦粉との練り食など、筆者と宮本の調査記録には共通点が多いことも重要である。

ツルボの鱗茎には看過できないエグミがあり、それを除去しないと食べられない。筆者がツルボの食料化について調査した都合34例では、全て長時間かけて対象を煮沸し、アク抜きをしていた。煮沸具には「スエガマ」や「ヒラガマ」と呼ばれる据え付けの大釜を用い、また「イーガイ」や「カマイゲー」と呼ばれる大杓文字で適宜かき混ぜながら煮ていた。

写真3は椎葉村十根川の古民家にあった大釜で、径84.2cm、深さ33.1cmを測る。そばには長さ89.2cm、最大幅14.8cmになる大型の杓文字が置かれていた。これら道具は主として茶葉を炒ったり豆腐を作ったりする際に使われたものだが、ツルボの煮沸処理にも同様の道具が使われていた。ツルボの加工量と消費量が並大抵のものではなかったことがうかがえる。

写真3 宮崎県椎葉村の大釜

煮沸日数は、最短で1日、最長で1週間とする例があった。宮本の記録でも「三日ホドタク」とされている。煮上がったツルボは甘く、さらに進んでイガラさを感じるものだったという。砂糖が入手困難だった終戦前後、ツルボは甘みの供給源として利用され、おやつ代わりにもされていた。しかし、その強すぎる甘さの故に、そればかりを食べ続けるのは難しかった。そこで、ほとんどの例ではハッタイ粉(麦の炒り粉)と混ぜて甘みを緩和していた。ほかに黄な粉や唐黍粉との混食もみられた。椎葉村ではツルボを茶碗に盛ってハッタイ粉と練り混ぜ、日に3度もこれを食べていた家もあった。宮本の記録にも「常食ニシタモノデアル」とある。主食にはならずとも、ツルボは明らかに主食を補完する目的で食べられてきたことがうかがえる。

 なお、宮本が『旅と伝説』第97号に発表した「特殊食物座談会」にもツルボのことが記されている。この稿は周防大島長崎周辺の古老による談話を宮本が筆録・報告したものである。そのなかで「コンキュー(飢餓)の時ツルンボをほつて食うたらうまかつたと言つていました」(宮本1936:64-65)や、「ツルンボは七日位たたぬと食はれませんでした」(同前:65)といった話が出てくる。

縄文時代にも遡及する加工処理法

 宮本と筆者の調査記録から分かることは、かつて中国山地や九州山地ではツルボの鱗茎を掘り、長時間煮沸してアク抜きして食べていたということである。そして、この長時間煮沸を基本要件とする加工処理法は、縄文時代まで遡及する古層の食料加工技術ではなかったかと思われる。

 この点で注目されるのは、縄文土器の内面でしばしば焦げ付いたような状態で検出される径12cmの炭化鱗茎のことである。こうした炭化鱗茎は、筆者の管見にふれた範囲では、縄文前期の富山県上久津呂中屋遺跡(富山県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所2013:199)、福井県鳥浜貝塚(鳥浜貝塚研究グループ1979:図版100-2)、山梨県花鳥山遺跡(山梨県埋蔵文化財センター1989:107)、滋賀県入江内湖遺跡(滋賀県文化財保護協会2007:275)、中期の長野県判ノ木山西遺跡(長野県教育委員会1981:図版6)、山梨県水呑場北遺跡(山梨県埋蔵文化財センター1989:114)、後期の東京都下宅部遺跡(下宅部遺跡調査団2006:224)、鳥取県桂見遺跡(鳥取県埋蔵文化財センター1996:348)、岡山県津島岡大遺跡(岡山大学埋蔵文化財調査研究センター1994:243)、鹿児島県芝原遺跡(鹿児島県立埋蔵文化財センター2011:169)、晩期の石川県米泉遺跡(松谷1994:143)、滋賀県六反田遺跡(滋賀県文化財保護協会2013:213)などにおいて確認されている。

また近年、走査型電子顕微鏡を用いた細胞組織レベルでの観察により、縄文前期の福井県鳥浜貝塚や富山県小竹貝塚、また弥生前・中期の徳島県庄・蔵本遺跡から出土した炭化鱗茎がツルボと同定されるに至っている(佐々木2017、佐々木ほか2018:65、米田・佐々木2017:82)。埼玉県南鴻沼遺跡では現生標本との比較から土器付着の炭化鱗茎11例が「ノビル型」「ツルボ型」「アサツキ型」「キツネノカミソリ型」の4型に区分された(さいたま市遺跡調査会2017:239)。山梨県前付遺跡では砂の入った曽利式深鉢から約360個分の炭化鱗茎が取り上げられ、全て「ツルボ型」に区分されている(山梨文化財研究所2015:273)。これら植物遺体の分析結果も踏まえると、先述した土器内面炭化物の多くは、主としてツルボの鱗茎を煮沸型で処理することによって形成された残滓ではないかと思われる。その場合、前付遺跡で炭化鱗茎と一緒に取り上げられた砂は、焦げ付き防止材として使用されていた可能性がある。

 鱗茎の煮沸具とともに、鱗茎の採掘具としても注目すべき遺物がある。筆者の民俗調査によると、ツルボが生育し、採集された場所は、畑やその跡地など人的干渉を強く受けたところであり、ツルボの群生地は「スミラ畑」と呼ばれ、畑の一部をそれに転換することもあった。鱗茎は土中に浅く群生しており、手鍬などを使って土を突きほぐすことで簡単に掘り集めることができる。福井県鳥浜貝塚では手鍬状の鹿角斧が多数出土しており、筆者による使用痕分析等からは、そのうちの23点が手鍬状の土掘り具として使用されていた可能性を指摘することができた。鳥浜貝塚からはツルボと同定された炭化鱗茎も出土しているので、遺跡周辺の人的干渉が繰り返され草地化の進んだ空間で、鹿角斧を使ってツルボを掘っていた可能性がある(以上、板垣2024)。

 話は少し脇へそれたが、こうした推測をなすうえで、民俗学的な記録が果たす役割は大きいのである。宮本の調査記録は、縄文時代の植物食を考古学的に可視的な方法で検討する際に、有効な参照枠を与えてくれるものである。

ヒガンバナの鱗茎

 宮本は山口県高根村向垰で、「牛モメラ」について「オヤジガ戸長ヲシテイタコロ、牛モメラヲクフコトヲ玖珂郡ノ人宮城トイフ人ト考ヘタコトアリ。[/]赤イハナ。マンジユサゲ。ツヒニ成功シナカツタ」と記している(板垣編2025:82)。この「牛モメラ」はヒガンバナの鱗茎のことである。その食用を試みるが、遂には成功しなかったという。

ヒガンバナは、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年生草本で、人家に近い田畑の縁や堤防、墓地などに群生する。秋の彼岸頃に鮮やかな赤花をつけ、ひときわ存在感を放つ。葉は線形で花が終わった後に束生し、34月に枯れる。鱗茎は広卵形でアルカロイドを含み、有毒である。北海道から琉球にかけて広く分布するが、もとよりの自生ではなく、中国から渡来してきたものと考えられている。

 向垰では鱗茎に含まれる食阻害要素を解消できなかったようだが、実は、水晒しを徹底することで食べることができた。宮本は昭和141013日に訪れた奈良県吉野郡十津川村迫で、「コンキウノ時ハ、オイモチヲタベタ(ヒガンバナノ根)」と記録している(田村・徳毛編2019:164)。また同年1014日に訪れた同村湯泉地温泉では「オエモチ」ないし「オチモチ」と称するヒガンバナの鱗茎について、二通りの加工処理法を記録している。その一つは「畑ノヘリニアカイ花ガサク。ソノ根ハ玉ガアル。ソノ玉ヲタイテ、ヤハラカクシテ、水デアラツテ(サハカス)、アクヲヌイテ、フキンヲオイテ、オモシヲオキ、ソレヲニギリ、ヲキデヤイテ、ミソヲツケテタベタ。[/]ヘタヲスルト血ヲハイタモノデアル。タクサンアツタ」というものである(同前:176)。いま一つは「ユデテ水デアハス。マゼラレルダケマゼル。手ノユカヌ所ガアルト、ヨウテ血ヲハクトイハレル。[/]アハイテ、モチニツイテ、ニギツテ、シヨーユツケテタベル。[/]米ヨリウマイトイフモノアリ」というものである(同前:177)。

湯泉地温泉で記録された二つの加工処理法は、ともに鱗茎を煮て柔らかくし、おそらく粉にした状態で水に晒している。その後、第一の手法では絞って水を切っているが、この工程の存在により、食用にされたのは濾し出された澱粉ではなく、残留する繊維質分の方だったことが分かる。一方、筆者が十津川村の寺垣内や入谷で調査したところでは、クズやワラビと同様にヒガンバナからも「キゴ」、すなわち澱粉を採るということだった。そうすると、十津川村内でも処理の対象が集落や家庭によって微妙に違っていた可能性がある。なお、宮本の記録では処理の行き届いていないものを食べると「血ヲハク」とされている。筆者が調査した徳島県三好市の西祖谷山村や東祖谷山村では、これを「酔う」と表現することが多かった。どちらも、ヒガンバナの食用化では水晒しを徹底すべきことを教訓として伝えるものである。

 ちなみに、宮本は『忘れられた日本人』の「土佐寺川夜話」のなかで、高知県寺川村(現吾川郡いの町)の話として、次のように記している。「天保のキキンの時はずいぶん伊予からたくさん来て、シライ谷に小屋をたてて住んでおりました。シライ谷というのはシライの多い谷のことで、シライはシレエとも言い、彼岸花のことです。[中略]伊予の人たちは一年近くそこに住んでシライを掘り、それを煮て川水でさらし、毒をぬき、ついて餅にしました。これがシライ餅です。少し食べるには悪くもないが毎日たべると、決して有難い食べものではありません。そのシライを食べ、稗や稗ヌカを食べました」(宮本1960:139)。

 筆者も、高知県吾川郡いの町越裏門、清水下分大野、仁淀川町坂本などで「シレイ」と呼ばれるヒガンバナの食用化伝承を記録している。四国山地では戦後しばらくまでヒガンバナが食用化されていたが、紀伊山地では早くに止んでしまい、さらに中国山地では宮本が調査した昭和14年の段階でも伝承が途絶えつつあった。

宮本はアチック・ミューゼアムに入所し、中国地方の旅に出る昭和1411月から、戦争が激化して調査の続行が困難になる昭和181月頃までの3年余り、全国各地の農山漁村で民俗採訪を行っている。その間に集中的に作成された調査ノートを相互に比較することで、地域間での特定民俗の残存度を浮き彫りにし、その背景を考察することができる。ヒガンバナの食習に関する記録はそのよい例である。(つづく)

引用参考文献

・板垣優河2024「縄文時代植物採集活動の研究」博士論文、京都大学
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・岡山大学埋蔵文化財調査研究センター1994『津島岡大遺跡4』(岡山大学構内遺跡発掘調査報告第7冊)
・鹿児島県立埋蔵文化財センター2011『芝原遺跡2』(鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書158
・さいたま市遺跡調査会2017『南鴻沼遺跡』第3分冊(さいたま市遺跡調査会報告書第177集)
・佐々木由香2017「縄文時代の鱗茎類利用に関する植物考古学的研究」科学研究費助成事業研究成果報告書
・佐々木由香・米田恭子・町田賢一2018「小竹貝塚出土の土器付着炭化鱗茎の同定」『大境』第37号、富山考古学会、61-70
・滋賀県文化財保護協会2007『入江内湖遺跡
・滋賀県文化財保護協会2013『六反田遺跡
・下宅部遺跡調査団2006『下宅部遺跡
・田村善次郎・徳毛敦洋編2019『宮本常一農漁村採訪録21 吉野西奥調査ノート』、宮本常一記念館
・鳥取県埋蔵文化財センター1996『桂見遺跡八ツ割地区・堤谷東地区・堤谷西地区』(鳥取県教育文化財団調査報告書45
・富山県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所2013『上久津呂中屋遺跡発掘調査報告』第3分冊(富山県文化振興財団埋蔵文化財発掘調査報告第55集)
・鳥浜貝塚研究グループ1979『鳥浜貝塚縄文前期を主とする低湿地遺跡の調査1―
・長野県教育委員会1981『長野県中央道埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書茅野市その4・富士見町その3 昭和5153年度
・松谷暁子1994「米泉遺跡出土土器付着物の走査型電子顕微鏡による観察」『石川県立埋蔵文化財センター年報』12、石川県立埋蔵文化財センター、143-149
・宮本常一1936「特殊食物座談会」『旅と伝説』第97号、三元社、63-68
・宮本常一1960『忘れられた日本人』、未來社
・山梨県埋蔵文化財センター1989『花鳥山遺跡・水呑場北遺跡』(山梨県埋蔵文化財調査報告第45集)
・山梨文化財研究所2015『前付遺跡・大祥寺遺跡』(笛吹市文化財調査報告書第31集)
・米田恭子・佐々木由香2017「庄・蔵本遺跡出土の土器付着炭化鱗茎の同定」『徳島大学埋蔵文化財調査室紀要』3、徳島大学埋蔵文化財調査室、79-88

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