宮本常一記念館

学芸員ノート

029

宮本常一と農業 その1 序

宮本研究|2025年10月24日|板垣優河

令和の米騒動

 近年、米の価格高騰が「令和の米騒動」と呼ばれ注目されている。その背景には、長年にわたる減反政策や気候変動、農家の高齢化、若年層の農業離れなどに伴う米の供給体制の弱体化がある。加えて、食生活の多様化や人口減少、インバウンド効果など、米の需要構造においても変化が生じており、問題を複雑かつ長期的なものにしている。

20259月に発行された『現代思想』第53巻第11号では「米と日本人」と題する特集が組まれた。この特集では日本人にとって中心的な食材である米が、日本の歴史や文化、社会経済、国家のイデオロギー等とどのように関わってきたのかが多角的に検討されている。巻頭には「飢えという人災を引き起こさないために 農と食の思想と実践」と題して藤原辰史と山内明美の討議録が収められている。そこでは戦後日本の農政は対米政策のなかで成立し、アメリカをはじめ海外貿易を考えないと日本の米も含め色々な食糧状況が理解できないこと、米問題といっても「日本」という括り方は雑であり、地域によって事情が異なること、農村の維持と生産は不可分であるにもかかわらず都市生活者は両者を切り離して議論したがる傾向があること、などが指摘されている。また藤原は村社会の複雑な生産構造にふれるなかで、次のような発言をしている。

「日本の農水省が目指している一つの方向はスマート農業で、基本的には合理化・省力化、無駄をなくしていくという方向に来ている。気持ちはわかりますが、ただ農業だけはその無駄がたくさんない限り、あるいはその無駄を支える人たちの面倒くさい繋がりがない限り、簡単に食権力にあらゆるジャンルが飲み込まれてしまう。そして次の米騒動では本当に飢餓が起きる」(藤原・山内2025:21)。

 ここでは飢餓が天災ではなく人災であることを喚起するとともに、旧来の伝統的な農業のあり方が食権力への抵抗手段として見直されるべきことが示唆されている。

実は、宮本常一は早くから日本的風土のなかでの地域自立的な農業の振興を主張していた。「令和の米騒動」と呼ばれるこの時代に宮本の仕事を再検討することは、現代の食糧問題を考えるうえで、意義のある作業だと考える。

宮本常一の「篤農家」的側面

宮本常一は自身の体験を通して物事を論じることが多い民俗学研究者だったが、特に農業の問題ではその傾向が強かった。『民俗学の旅』では次のように述べている。

「民俗学という学問は体験の学問であり、実践の学問であると思っているが、それは幼少時の生活のあり方にかかわるところが多いのではなかろうか。私は幼少期から少年期にかけて土を耕し種子をまき、草をとり草を刈り木を伐り、落葉をかき、稲や麦を刈り、いろいろの穀物の脱穀をおこない、米を搗き、臼をひき、草履を作り、菰をあみ、牛を追い、また船を漕ぎ、網をひいた。そして何故それをしなければならないかを父祖に教えられた。きびしい教訓としてではなく、百姓の子としておこなわねばならぬこととして、また一つの物語りとして身につけさせられたのである。そしてその延長の上に今も生きつづけている」(宮本1978:7-8)。

 幼少時は家を維持するために辛苦の多い農業を体験し、戦時中は大阪府農務課嘱託として府下農村の実情を調べ、戦後も特に1949年頃までは全国各地を農業技術や農家経営の視察・指導等で歩いた。そうしたなかで、宮本は書物に書かれた学問の世界と現実に生きられている世界には大きな隔たりがあることを痛感する。1979年に『読売新聞』に連載した「自伝抄二ノ橋界隈」では次のように述べている。

「学者になろうとしているのでもなければ、新しい何かを発見しなければならないわけでもない。いま生きている人たちの姿を忠実に伝えることであり、いわば代弁者になることであると思った。何かの雑誌に物を書いたとき、ある評者が「百姓根性がぬけない」と評した。そのとき「そうなんだ、その通りなのだ。私自身にとってはいつまでたっても、どこまで歩いても大切なのはそのことで、その視点と立場から物を見ることを忘れてはいけない」と思った」(宮本2002:182-183)。

宮本は農家が抱える問題を、外側から研究対象として見るだけでなく、内側から仲間事として見ようとした。それは、「私も百姓の子であり、今でも家へ帰ると鍬鎌を持って田へゆく。だから百姓仕事は一通りできる」(宮本2002:182)と自称する宮本であればこそ採れる立場であり、方法でもあった。

 以降、この連載では、宮本が周防大島で体験した農業、また戦中戦後に全国各地で行った農業技術や農家経営の視察・指導等を振り返る。これにより、民俗学研究者に留まらない宮本の「篤農家」的な側面を焙り出していくものである。

 篤農家とは、宮本の言葉を借りれば、「すぐれた技術を持ち、すぐれた経営をおこなうだけでなく、指導力をもっていて、周囲の人びとをまきこんでいく力量のある人たちのこと」であり、「篤農家は技術者であるとともに経営者でもあり、教育者であった」とされている(宮本1973:244-245)。戦後宮本は郷里を起点にして、出稼ぎのようなかたちで日本各地を歩きまわっていた。その点では、土着の思想をもって地域に腰をすえて活動していた篤農家とは異なる。しかし、一つ一つの地域の実情をつぶさに見ながら、その集合体としての日本の農業を考え、その発展に力を尽くしたという意味では、やはり篤農家といってもよいのではないかと思う。この連載では、そうした宮本の側面にも注意しながら検討を進める。(つづく)

引用参考文献

・藤原辰史・山内明美2025「飢えという人災を引き起こさないために 農と食の思想と実践」『現代思想』第53巻第11号、青土社、9-29
・宮本常一1973『日本を思う』(宮本常一著作集第15)、未來社
・宮本常一1978『民俗学の旅』、文藝春秋
・宮本常一2002『父母の記/自伝抄』(宮本常一著作集第42巻)、未來社

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