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昭和14年中国地方調査ノート その23 山棲みの人びと②
資料紹介|2025年9月19日|板垣優河
サンカに関する記録
柳田國男は明治44~45年に『人類学雑誌』上で「「イタカ」及び「サンカ」」と題する論考を発表し、早くから「常民」とは異なる人びとに注目していた(柳田1963)。柳田はサンカを山人、すなわち日本に古くからいた先住民の末裔と見なしていたが、彼らを研究対象とすることで、先住民と稲作農耕民の複合からなる「常民」の信仰生活の一端を明らかにすることができると考えていた。
前回の記事で紹介したように、宮本は『山の人生』などを読むなかで、柳田の山人論を受容していた。その延長で、サンカについても関心を持って調べるようになる。昭和14年の中国地方調査ノートにはサンカに関する記録が頻繁に出てくる。
島根県田所村鱒渕(現邑南町)では「サンカ」について、「三次ノアタリカラ、川原ノギヨギヨー[漁業]者ガ来タ。[/]ホーキヤヲシテイタ。[/]私ノウチノウラ山ニタケニスルヤブガアツテ、ソレヲモラヒニ来タ(市山)。[/]ウナギヲトルノニ、タケノツツデヤル。[/]ハエヲトツテ、イキタモノヲトツテイレテオク。[/]ウナギハ1バントレテ、ナンボデモトレル。[/]ウナギノオニキズノアルモノガアレバ、ソノアタリニ多イ。[/]セイリヨクアラソヒヲシテイルカラデアル。[/]田中氏ノハイゴヤヲヤドニシテシゴトヲスル」と聞いている(板垣編2024:100-101)。サンカは三次あたりから来てウナギやハエを漁獲し、また箒屋をしていたという。
また同地では「山ノキヲキツテヨイ所ヲサンカトイフ。[/]山ノ何合目カラカ上ハキツテモヨイトイハレテイル」とも聞いている(同前:98)。後述する木地屋の場合、山7合目以上の木は自由にすることができるという伝承を保持しており(宮本1964:92)、この話はそこからの影響が考えられる。山の高所は村人たちの利用し得る範囲から外れており、そこでは誰が来て何をしようともあまり問題にならなかった。そのため、サンカや木地屋は山から山を渡り歩くことができたのである。
広島県大朝町(現北広島町)では「堂人」について「ホーキ、ソーケ、タケザイクナドコシラヘテ、モツテウリニクルノヲ堂人トイフ。[/]ミヤヤ寺ノ堂ニネル。[/]ミツウドーニントイフモノガイタ。兄弟ガ夫婦ニナツテイタトイフ。[/]ソノ子ハドクシンデイル。少々バカデアル。[/]カベ[可部]ノモノデアツタ。ミツウドーニンヲカミナガトモイツタ。[/]コノアタリニハ、ドーニンガ多カツタ。カユヲタケノツツニイレテモツテアルイタ」と聞いている(板垣編2025:21)。「堂人」という呼称は、彼らが箒や籠などを作って売り歩きつつ、堂や宮に寝泊まりしていたことによる。彼らはまた「サンカ」とも呼ばれていた。調査ノートには「ナツハウオヲウリ、冬ハワナヲカケル」とも記されている(同前:31)。
さらに、大朝町では「チヤセン」や「カワタ」と呼ばれる者もいた。前者については「峠ノアタリニイル。山カラ木ヲ出シテオクトコロヲ、チヤセンコバトイフ。[/]フツーノ人ハ、タダコバトイフ」とあり(同前:31)、後者については「死牛ノ皮ヲウル。今も大朝ニイル。カワタノ解体所アリ」と書かれている(同前:31)。
島根県匹見上村三葛(現益田市匹見町)では箒を売りに来る者を「ドーニン」と呼んでいた。また竹細工をしたりウナギを捕ったりする者を「シンミン」と呼んでいた(同前:61)。
ところで、大朝町では「サシビ」と称する放火事件がサンカによるものとして語られていた。調査ノートには「イカダヅアタリハ、サシビガ多イ。[/]モノガモノウレナンダトキ、ヒヲツケタトイフ。[/]マツタケジロヘカキヲシナイノデ、カツテニトツタ。ソレニカキヲスルト、サシビヲセラレタカラ」とある(板垣編2025:18)。また、「ワタヤハ一町ホドモツテイタ。ヒル、ホーキヲカウテクレトテ、ホーキヤガキタノヲ、ヒドクオコツテカヘラシタ。[/]ソノバンニカジガアツタ。[/]ソレハ丁度オ[麻]ヲマクコロデアツタ。アサバタケヲウツテイルナカヲハダシデハシツテキタアトアリ。[/]ホーキヤヲトラヘテ、アシアトヲアハシテミタラワカツタ。[/]明治15年ゴロ」とも書かれている(同前:19)。
サンカは箒などを製作して町へ売りに来たが、品物を買ってもらえない場合は恨んで放火したという。また彼らはマツタケジロに入って勝手に松茸を採るので、山に垣などをすると恨んで放火したと語られている。
宮本が見聞したサンカ
上の記録によると、サンカとは主として川魚をとったり箒や籠などの生活用品を作ったりして売り歩く者だったことが分かる。彼らは堂や宮で寝泊まりし、漂泊性の強い生活をしていたことから、ドーニンとも呼ばれていた。
宮本は大阪で天王寺師範学校に通い、その後小学校教員をしていた大正末から昭和10年頃までの間に、川の橋下や山間の谷間に小屋掛けし、川魚を捕ったり村々の埋葬の手伝いをしたりするサンカの群れを目撃している(宮本1964:57-58、宮本1965:118-119)。また、昭和14~18年に全国各地を歩くなかで、奈良県吉野西奥の山中や四国の仁淀川・吉野川の流域などではサンカに遭遇している。いずれも川原に粗末な小屋を掛け、川魚を捕っていたという(宮本1964:58-59)。
さらに、熊本県上益城郡矢部町(現山都町)で土地の郷土史家からサンカについて興味深い話を聞いたことを受け、昭和37年10月に五ヶ瀬川上流の蘇陽峡を訪ねている。この峡谷の底には100年ほど前に宮崎県東臼杵郡諸塚村の七ツ山付近からサンカが移り住んだとされていた。訪村のことは『私の日本地図11・阿蘇・球磨』に書かれている。峡谷には100戸ほどの家があり、川のほとりの僅かな平地に水田や畑をひらきつつ、川ではウナギを捕り、また竹細工によって生計を立てていたという(写真1)。宮本はそこで実際にカゴを作っている人に会い、話を聞いている。そして「私はその話に胸のあつくなるのをおぼえた。ささやかな人生ではあるが、いかにも充実している。このあたりの人はこの人の技術や能力に大きく依存していたのである。しかしそれを誇示するのでもなく、自慢するのでもなく、ただ誠実に生きて来たのである」と述べている(宮本1972:166)。

物売りの系譜
しかし、一般的にはサンカはきちんとした住家や土地を持たず、農業とは異なる仕事に携わっていたことから、奇怪視されることの方が多かった。
宮本は昭和40年2月に発表した『生業の推移』のなかで、物乞と物売りの関係について次のような興味深い説明をしている。砂鉄の一大産地である中国地方では砂鉄精錬のために多量の木炭を要したが、その炭を焼くために早くから人びとが山奥に住んでいた。しかし、山奥での生活は全く容易ではなかったので、炭を焼くかたわらで箕や蓑、篩などを作り、春先になると里の方へ売りに出ていた。買う方は毎年必要でなくても、売りに来れば義理でも買うものとされていた。売る方も、相手はきっと買ってくれるものと信じていた。そのため、売る方はただ品物を買ってもらうだけでなく、助けてもらうような心持があった。だから買うことを拒否するようなことがあると、放火されたり物をぬすまれたりする場合もあった(宮本1965:43)。
続けて同書では贈答と施与についてみるなかで、「実は日本における物売の系譜の中には、こうした仲間が大きな位置を占めていたことを忘れてはならない。さきにのべた山人たちの物売の中に、はっきりそのおもかげを見ることができる。[中略]したがって日本における交易は贈答から発達したといってもよかった。だから僅かばかりのものを押売しても、もとは決して不当とは考えなかった。そして貧しい者がそうするのはあたりまえのことであり、富める者はそれを買うべきものであると思っていたのである」と述べている(同前:44-45)。
宮本が中国山地で聞いたサンカの行動からは、かつての売買では単に現金と品物を交換するだけでなく、人間的な関係も重視されていたことがうかがえる。加えて、サンカが竹細工等において優れた技術を持ちながら、一般に村では軽蔑され、警戒されていたこともうかがえる。
木地屋に関する記録
広島県戸河内町(現安芸太田町)の本横川から山を南へ越えたところに那須という在所がある。那須は中国地方西部の中心的な木地屋集落で、山口・広島・島根県下で仕事をしていた木地屋はほとんどここから出ていたという(宮本1964:93)。
この集落について、宮本は本横川で次のように聞いている。「40戸。ロクロシ。大抵キツテイル。[/]ナスボントテ名高イ。ボン、ワンヲコシラヘル。[/]トチノ木ヲツカツテイル。モトハカツテニキツテイタ。[/]ザイリヨーヲトツテカヘツテ、冬シゴトスル。ヌルモノモアル。[/]ナスボンハ、サエキ地方、ヤハタ辺ニ出ス。[/]マルボンヲタノモシデカフ。年ニ1回5円トカ10円トカカケテボンヲソロヘタモノ。ヤハタノキツカバラ[木束原]アタリデ...[/]大アサノキジヤハ、ナスカライツテイル」(板垣編2025:55)。
那須の木地屋は本横川の山で勝手に木を伐り、盆や椀の白木を製作し、漆塗りもしていた。トチノキで製作された盆は「那須盆」として名高く、本横川の人びとはそれを頼母子によって入手していたという。
一般に木地屋は山中で移動を繰り返しながら膳・盆・鉢・椀・皿、また杓子などの木地物を製作していた。自由に山から山を渡り歩き、木地に適した立木があるところを見つけると小屋掛けし、しばらくはそこで仕事をした。明治中期頃までは漂泊性が極めて強く、宮本が美濃奥で出会った木地屋などは親子二代の間に美濃を中心にして三河・飛騨・越前と24箇所も移動していたという(宮本1964:81)。
ついでに、日本では10世紀頃を境として陶器が減少し、それに代わって木器が多用されるようになる。宮本はその背景に木地屋による木器製作の活発化を想定している(宮本2013:105-106)。木地屋は日本の物質文化の重要な担い手であったにも関わらず、野に住む一般民衆とほとんど無縁のような生活をしていた。そのために誤解されることが多かった。この点はサンカと同じである。
宮本の調査では、実態のつかみにくい木地屋やサンカのことがよく捉えられていたといえる。
引用参考文献
・板垣優河編2024『宮本常一農漁村採訪録26 昭和14年中国地方調査ノート(1)』、宮本常一記念館
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・宮本常一1964『山に生きる人びと』(双書・日本民衆史2)、未來社
・宮本常一1965『生業の推移』(日本の民俗第3巻)、河出書房新社
・宮本常一1972『私の日本地図11・阿蘇・球磨』、同友館
・宮本常一2013『宮本常一 山と日本人』、八坂書房
・柳田國男1963『定本 柳田國男集』第4巻、筑摩書房