宮本常一記念館

学芸員ノート

023

昭和14年中国地方調査ノート その22 山棲みの人びと①

資料紹介|2025年9月12日|板垣優河

宮本が受容した山人論

 昭和14年の中国地方の旅で、宮本は山棲みの人びとについて数多くの見聞をしている。そこでの見聞は、後に独自の山村文化論を構築する際の重要な参考資料となるのだが、この時点ではむしろ柳田國男の山人論の発展的継承を意識しながら聞書きを進めていたように見える。そこで、本稿ではいったん調査ノートの分析から離れ、宮本がこの頃受容していたと思われる山人論について、整理を進めることにする。

 筆者は先に「宮本常一と縄文文化食の問題を中心」と題する論考で、宮本が提起し、また示唆を与えた縄文文化観を検討した。以下、その一部を再説する(板垣2025:5-6)。

宮本は1960年代に入ると、平地の稲作文化と対照させるかたちで、山地における畑作文化の存在を強調し、またその源流を縄文文化のなかに求めるようになる。昭和391月に発表した『山に生きる人びと』では、平地の稲作地帯と山地の畑作地帯の人文景観上の断絶を指摘し、両者では生産様式を異にする人びとが住んでおり、明瞭に棲み分けていたのではないか、という考えを示した(宮本1964:20-21)。また、昭和433月に発表した「山と人間」では、改めて稲作地帯と畑作地帯の断絶を指摘したうえで、後者では水田耕作を行わずに定畑や焼畑耕作によって食料を得ていたとし、「そこで少し突飛な想定であるけれども、縄文式文化人がやがて稲作文化をとりいれて弥生式文化を生み出していったとするならば、それはすべての縄文式文化人が稲作文化の洗礼をうけたのではなく、山中に住む者は稲作技術を持たないままに弥生式文化時代にも狩猟を主としつつ、山中または台地の上に生活しつづけて来たと見られるのではないかと思う。この仲間は縄文式文化時代にすでに畑耕作の技術は持っていたのではなかろうか」と述べている(宮本1968:263)。

 前掲論文では指摘し得なかったが、宮本の上記のような仮説の形成には、柳田國男の山人論の影響が大きかったのではないかと考える。そこで、宮本常一記念館で保管している宮本の蔵書を改めて調べると、柳田山人論の総決算ともいえる『山の人生』が複数の版で確認された。

『山の人生』は大正1511月に郷土研究社より刊行され、さらに昭和225月、実業之日本社から柳田國男先生著作集第1冊として出版されている。その後昭和384月に筑摩書房から刊行された『定本 柳田國男集』第4巻にも収録され、昭和368月に平凡社から刊行された『世界教養全集』21などにも入っている。このうち宮本の蔵書で確認できるのは、実業之日本社版・筑摩書房版・平凡社版の3冊である。郷土研究社版も持っていた可能性はあるが、昭和207月の大阪空襲の際にほかの多くの蔵書とともに焼失したものと思われる。実業之日本社版は刊行されてすぐの昭和22619日に東洋大学前の書店で購入している。奥付付近には「22.7.9 読了[/]此日雨寒イホドノ涼シサ[/]毎日照テイタアトトテ快イ[/]此書ハ之デ2回ヨム」との書込みがある(写真1)。これにより、宮本が『山の人生』を繰り返し読んでいたことがうかがえる。

写真1 『山の人生』(実業之日本社版)の書込み

それでは、宮本が影響を受けたと思われる柳田の山人論とは、どのようなものだったのか。

柳田國男の山人論

明治436月の『遠野物語』の発表に始まる柳田國男の初期民俗学研究では、山人の問題が重要な位置を占めていた。柳田は山人を、稲作農耕民が渡来する前から日本列島に暮らしていた先住民の末裔とみなしていた。つまり山人は、現代的に解釈するなら縄文人の純然たる末裔ということになる。代表的な山人としては、サンカ等の山地漂泊民があげられる。

大正611月に発表した日本歴史地理学会大会講演手稿「山人考」で、柳田は「山人といふ語は、此通り起原の年久しいものであります。自分の推測としては、上古史上の国津神が末二つに分れ、大半は里に下つて常民に混同し、残りは山に入り又は山に留まつて、山人と呼ばれたと見るのですが、後世に至つては次第に此名称を、用いる者が無くなつて、却つて仙といふ字をヤマビトと訓ませて居るのであります」と述べている(柳田1963:177)。続けて、「山人即ち日本の先住民は、最早絶滅したと云ふ通説には、私も大抵は同意してよいと思つて居りますが、彼等を我々の謂ふ絶滅に導いた道筋に付てのみ、若干の異なる見解を抱くのであります」とし、その道筋のなかでも「永い歳月の間に、人知れず土着し且つ混淆したもの」が最も多いとしながらも「旧状保持者、と謂ふよりも次第に退化して、今尚山中を漂泊しつつあつた者が、少なくとも或時代迄は、必ず居たわけだといふことが、推定せられるのであります」と述べている(同前:182)。

柳田は、先住民の多くは稲作農耕民に吸収されたり討伐されたりしたが、一部はある時代まで山中に残留したと考えていた。この山人が保持していた信仰が、平地の人びと、柳田がいうところの「常民」の信仰に深く入り込んでいるのではないか、そうであれば日本人の信仰生活を明からにするには、その構成要素の一つとして、山人の生活を見なければならない。そのような理論的仮説を設けて柳田は山人の研究に取り組んでいた。その総決算といえる書が、宮本も繰り返し読んでいた『山の人生』だった。

 柳田は当初、山人は今もどこかで生きているのではないかと考えていた。そこで、海外の文献にも明るかった南方熊楠に資料の提供を求めている。明治44416日に南方に宛てた書簡では「山男については小生はこれを現在も稀々日本に生息する原始人種なるべしと信じ、近日これに関する小文を公けにしたき希望あり、その付録として諸国の山男に関する見聞談二百ぐらいを生のままにて蒐集したきに候」と書いている(飯倉編1976:15)。これに対して南方は、例えば同年913日に柳田に宛てた書簡で、インドの密林でオオカミに育てられた少年を例にあげ、山人といわれる者は偶発的に現れ発見されることがあるとする。さらに、大正51223日に柳田に宛てた書簡では「『郷土研究』に、貴下や佐々木が、山男山男ともてはやすを読むに、小生らが山男とききなれおる、すなわち真の山男でも何でもなく、ただ特殊の事情よりやむを得ず山に住み、至って時勢おくれのくらしをなし、世間に遠ざかりおる男(または女)というほどのことなり」とし、柳田の山人生存説をはっきりと否定してしまった(同前:439-440)。

このこともあり、柳田は「山人即ち日本の先住民は、最早絶滅した」とせざるを得なくなる。しかし、山人の生存は確認できずとも、その信仰は日本人のなかに生き続けているのではないかと考えた。そこで注目したのが氏神信仰である。『山の人生』では「日本現在の村々の信仰には、根原に新旧の二系統があった。朝家の法制にも曽て天神地祇を分たれたが、彼の宗像賀茂八幡熊野春日住吉諏訪白山鹿島香取の如く、有効なる組織を以て神人を諸国に派し、次々に新なる若宮今宮を増設して行つたものの他に、別に土着年久しく住民心を共にして固く旧来の信仰を保持して居るものがあつた」と述べている(柳田1963:171)。つまり、村々でみられる氏神信仰には、全国統一的な「天つ神」系と土着的な「国つ神」系という二つの異なる系統の信仰が重層して形成されているというのである。

山人論は日本人の起源に関わる議論でもある。柳田は日本人を、先住民と稲作農耕民の複合民族とみなしており、単一民族とはみなしていなかった。その複数系統性を浮き彫りにするために、山人論を展開する必要があったという見方もできる。

 宮本は以上でみた柳田の山人論を受容し、山棲みの人びとに関する聞書きを進めていったものと思われる。そして、信仰生活よりも生産生活、精神文化よりも物質文化に重きをおき、柳田とは異なるかたちで日本人と日本文化の形成過程を見定めていくこととなる。

なお、本記事を作成するにあたり、色川大吉(1978)、川田稔(2016)、志村真幸(2023)による柳田國男・南方熊楠研究を参考にしたことを付記する。

引用参考文献

・飯倉照平編1976『柳田国男 南方熊楠 往復書簡集』、平凡社
・板垣優河2025「宮本常一と縄文文化食の問題を中心に」『京都府立大学考古学論集考古学研究室30周年記念』(京都府立大学文化遺産叢書第34集)、京都府立大学文学部歴史学科、1-12
・色川大吉1978『柳田國男』(日本民俗文化大系1)、講談社
・川田稔2016『柳田国男 知と社会構想の全貌』、筑摩書房
・志村真幸2023『未完の天才 南方熊楠』、講談社
・宮本常一1964『山に生きる人びと』(双書・日本民衆史2)、未來社
・宮本常一1968「山と人間」『民族学研究』第32巻第4号、日本民族学会、259-269
・柳田國男1963『定本 柳田國男集』第4巻、筑摩書房

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