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昭和14年中国地方調査ノート その19 村の組織と運営
資料紹介|2025年8月24日|板垣優河
高根村の自彊会記録
先の記事で紹介したように、山口県高根村向垰(現岩国市錦町)では山田家が陣頭に立って村の運営にあたっていた。調査ノートには次のような記録がある。「キンケンチヨチククミアイヲオヤジガハジメ、ワタシノ代マデ之ヲヤリ、四十年ノ戊申シヨーシヨノ下ツタトキ、自彊会ニシ、今モ之ガノコツテイテ、今私ガソノ会長ヲシテイル」(板垣編2025:97)。美島清一の父である山田勝次郎によって創設された勤倹貯蓄組合は、その子武作に受け継がれ、さらに明治40年に武作の弟である美島が引継ぎ、同年自彊会に改組した。この自彊会では全ての村人が会員になり、随時総会をひらいて村の出来事について協議し、実行に移した。実質的には村の自治機関のようなものだった(宮本1976:195)。
宮本は昭和14年に美島の家を訪ねた時、自彊会での協議事項を記した日誌を見せてもらっている。この日誌は表紙に「向垰自彊会記録」とあり、明治44年3月以降、「高根村自彊会」の「向垰支部長」である美島が書き記したものである(写真1)。宮本の調査ノートにはその部分的な抄録が見える。その期間は、明治45年4月23日から昭和11年2月15日までで、民俗学に関係があると思われるものを中心に書き抜いている。行間には美島からの聞書きと思われる部分が混在する。実際に『村里を行く』には、「之等の資料に目を通しつつポツリポツリ話る美島氏の語に耳をかたむけていると一日は短かつた」と書かれている(宮本1943:283-284)。
この記録を見ると、村の民俗が比較的短期間のうちに変容していることに気付く。例えば、大正元年9月15日の項には「墓地ヘ人ヲウズメツクシテ、ウズメル所ガナイカラ火葬場ヲモウケヨウ。近藤留吉氏ノ山ガ墓地ツヅキデ、同氏ハ薪山ガ少イガ、ワケヨートテ、三畝三十円ニワタシテイル」とある(板垣編2025:102)。墓地が手狭になってきたので火葬にしようという話が出たが、結局は隣接する土地を買い、墓地を拡張することにしたようである。これに対し、調査ノートの聞書き部分では、土葬のことが次のように記録されている。「ツボホリハ講中ノ人間。[/]講ガシラガ命令シテ、講組ノモノニ一々ヤクヲサヅケル。穴ホリニハ、時ニサケヲ出ス。[/]ボチノ一定セヌトキハ、家ノタクチノセドナドニウズメタモノデアル。今火ソーニシテヤイテ、コツヲ家ノキンジヨニオサメタ家モアル」(同前:114)。30年も経たないうちに、村の葬送方式が土葬から火葬に変わったことがうかがえる。
また、昭和5年3月24日の項には「正月ニ女ガシンセキ、オヤブン、心ヤスイ家ヘイワイモチヲモツテイツタモノデ、大キナノヲ交カンシタモノデアル。[/]之ヲヤメルコトニスル」とある(同前:107)。正月に親戚や親分に餅を配りあるく風をやめることにしたようである。
こうした記録からうかがえるのは、村の民俗が個人個人の判断で徐々に変わるのではなく、村全体の協議を経て一斉に変わっていったのではないか、ということである。宮本は『忘れられた日本人』所収の「対馬にて」という紀行文のなかで、寄合が村の意志決定手段としてどのようなかたちで行われ、またそれがいかに権威付いたものであったのかを叙述している(宮本1960)。村の意志をまとめ、実行に移すには、村人全体で協議する場が必要であり、そこで決定されたことに対しては、村人は粛々とこれを実行しなければならなかったのである。
さらに、自彊会記録の大正元年9月15日の項には、不貞な事件を起こした男の処遇が「[前略]明治42年8月31日ヨリ組合講中ハ申スニ及バズ、向垰全体絶交。ソノ後改シユンニヨリ、復旧スベシ」と記されている(板垣編2025:102)。この男に対しては後述する「講外し」が実行されたが、反省の色があればそれを解除しようとしている。
ちなみに、『民俗のふるさと』では「ハチブにされた者よりも、ほかの者が犠牲になった例」として、「山口県のある山中のムラ」の話が出てくる(宮本1975:221)。これは上記の向垰の不貞な事件のことではないかと思われる。調査ノートには事件の詳細は記されていないが、同書では男をムラハチブにすると、その事件に関係した家がいつまでも白眼視されるので、当時の総代(美島清一)は反対したという。しかし村人に押し切られて寄合(向垰自彊会)にかけ、ハチブにすることになった。結局、関係した家の者はいたたまれなくなり、村を去ってしまう。「ハチブにするということは実にむずかしいことです。だから少々目にあまるようなことがあってもそういうことはしなかったのです」と総代が宮本に話したという(同前:221)。
少し脱線したが、とにかく村人として村で社会生活を営むうえで、村の付き合いから外されることは何としても避けねばならなかった。このことは、調査ノートにしばしば出てくる「同行」や「講中」と称する村の地縁組の記録を読んでいるとよく分かる。以下、その諸例を示し検討する。
八幡村の同行
広島県八幡村(現北広島町)には「同行」という地縁組があった。宮本は次のように聞いている。「他村カラ来タモノハ、同行入ヲスルトキハ近所ノ人ガセワヲシテ、同行ノモノヲ招ク。村民ニナレバ、村有林ハ平等ノ権利ヲ生ズル。[/]同行ハヤハタガ三ツニナツテイル。[/]上下樽床。[/]同行ノツトメハ、香典ノダシアヒヲナシ、ソーシキノセワ、カサイノ時ノケンチク、シンチクノ木ヨセナド。[/]家ヲタテルトキ、木ハ木代ヲヤスクハラフト伐ツテヨイ。[/]屋根ノフキカヘハ同行ヘカケテフク。[/]ヒツヨーナ人ダケヤトウタ。今センモン家ニフイテモラツタ。[/]火事ニアフト、村中ゼンブフキ、クサヲ持ツテ来、米二升ヲモツテユク。[/]之ハ村ノドコニアツテモ之ヲ行フ」(板垣編2025:49)。
同行は八幡に3つ、樽床に2つあり、葬儀の際の香典の出し合いや世話、火災後の建築や見舞い、新築の木寄せ、屋根の葺替えなどを共同で行ったという。葬儀については「同行ハ一升。[/]シンセキハ5升、一斗クライモツテイク。[/]一戸カラ一人ハ出テテツダフ」とも記されている(同前:50)。ちなみに、筆者も周防大島の東屋代で香典の代わりに米を持参し、それによって葬儀の際のご飯を炊いたという話を聞いたことがある。これを東屋代では「オコーマイ」と称していた。
他村から来た者は「同行入」をすることで村有林に対して平等の権利を持った。村有林は、明治41年に設立された自治組織「報徳社」を地主とする土地のことである。調査ノートには「村ノ山林ハ田一反ニツキ草刈場、タキギイクラノ割合デ使用ヲユルシ、土地ハ村有デアル」と書かれている(同前:49)。村人は報徳社の社員になり、同社に金を納めれば草を刈ったり木を伐ったりすることができた。
八幡村では同行という地縁組をくむことによって個々の家を維持していくとともに、村全体の運営も円滑に進めていた。村人として生き、また村を生かすには、同行に入ることがほとんど必須だった。さらに、八幡村の場合は報徳社を創設することによって村の風儀を改良し、相互扶助の程度を高めていた。なお、報徳社については先の記事(「昭和14年中国地方調査ノート その1」)で紹介したところである。
田所村の講中
宮本は島根県田所村鱒渕(現邑南町)で、「講中」について次のように聞いている。「主トシテ死人ノアツタトキニテツダヒヲスル会デアルガ、ムカシハゲンジウニヤツタモノデ、二年ヤ三年デハイレナカツタ。[/]講中ハ講内ニ死人アルトキコーデンヲスルガ、コノブラクハ戸別米八合(15才カラ上ノモノノシンダトキ)出ス。[/]一月ノハジマリニハツコーヨリヲスル。コーヤドハジユンバンニスル。[中略]不幸ノアル家トナイ家トデハ、出ス方カラ云ヘバ不公平ニナル。[/]ソコデ、コー中ヘハイタリ出タリスルコトヲキラフ。[/]イヨイヨ村ニ長クスム見込ガツカネバイレヌ。[/]クミヘイレルノハ容易デ、講中ヘハイレニクイ。講中ヘハイラヌ人ハソーシキノ時ハ人モタノメズ、ソーシキニテツダヒニモユケナイ。[/]戸主会ノ出来タノハ、20年ホドニナル。[/]ハイタウチハフシンヲヤルト、ソノテツダヒニイク」(板垣編2024:112)。
講中は第一に葬式組合というべきものであり、組内で人が亡くなると香典として米を8合出し、また葬儀の手伝いをした。田所村は真宗の盛んなところで、「宗旨をもとにした講中の制度は、組とか五人組とか言われるものより遥かに強力な共同団体であった」という(宮本1976:29)。その延長で、家普請の手伝いなども講中で行うようになった。村に入るのは容易だが、講中に入るのは難しく、その村に2、3年住んでいるくらいでは入れなかったという。
講中で素行の悪い者に対しては、「コーハズシ」なるものが実行された。調査ノートには「クミヲハヅサレタノハ、昔ニハアツタ。[/]コーハヅシヲヤリカケテ、ケイサツデシカラレテ、ヤメタコトガアル。[/]シヤツキンヲカヘサヌト、[証文ニ]ワラツテクレトカイタモノ」と書かれている(板垣編2024:120)。講中にあっては各自責任を果たさねばならず、金を借りて返さないというようなことは特に嫌われた。
恵曇村の講
島根県恵曇村片句(現松江市鹿島町)には様々な講があった。まず経済的・同志的な講として、頼母子講がある。調査ノートには「ユーズーコー[融通講]トイフ。[/]シヤクザイガ出来タリ、火事デ家ガヤケタリスルト、タノモシヲツクツテヤツタ。[/]ソノタメニカヘツテ多クナツテ、村ガコマツタ。[/]今ゲンジウニトリシマツテ、コハレタモノハナイ。[/]カイセン[会銭]ヲ出シテ、入札シテ入札金トル。トラナイ人ハ、コノカイセンヲトル。[/]タノモシハ、年二回、三回位行フ。[/]20人クライデクム。有効ニヤツテイル。[/]金持ノ家ヘカリニユクトイフ例モアル。タノモシハ、困リキツタトキニノミヤツテイル」と書かれている(板垣編2024:57-58)。
頼母子は借財を作ったり火事に遭ったりした場合の救済措置となっていた。また、これに代わるものとして伸びてきたものに、漁業組合がある。調査ノートには「ギヨギヨークミアイヲ立派ニシテ、キンユーキカンニシヨートシテイテ、信用クミアイトオナジヨーニ、1口10円ハラヒコンデ、キンユーキカンニシツツアル」と書かれている(同前:58)。
さらに、「フナシギ」と称する頼母子もあった。調査ノートには「舟ガ10ソウコハレタノデ、フナシギヲツクツテ、舟ヲツクツタ。[/]コハレタ人ノヲサキニツクル。[/]舟ヲツクツテオイテ、シギヲトツテカラハラフトイフヨーニシタモノモアルガ、之ハ大工トノ交シヨーニヨル」と書かれている(同前:60)。時化によって船が多数壊れたため、臨時に新造船を目的とした頼母子を設けたことがうかがえる。
一方で、片句には信仰を同じくする者同士で組む講も多かった。その一つに「トキコー」(斎講)がある。調査ノートには次のように書かれている。「ソーギノ時ハ区ヲ四ツニワケ、1バングミニ死人アレバ、1バン組ノモノガテツダイニイク。[/]シンセキハ、ミナテツダイニイク。[/]カンケイノ少イモノハ、コーデンダケ。[/]昔ハ村中ガトキヲタベルトテ、村中ガアツマツテヒルハンヲタベタ。カネヲタタイテシラシタ。コーデンヲモツテユク。[/]コーデンハ家ノ格デ、5円ヲ中心ニスルガ、トキコーノコーセンハ、米7合トナツテイルカラ、一般ハソレヨリ少クシナイ。[/]トキコーサヘアレバ、ソーシキハゼンブ出来ル。[/]トナリハトクニ大切ニシテイル」(同前:63)。
人が亡くなると、その組内の者が手伝いに出た。講銭は米7合であり、別に香典も持ち寄るため、喪主は斎講さえあれば葬儀を執り行うことができた。そして葬儀の実務を講員に任せきることで専念して喪に服すことができたのである。
そのほか信仰を通じた講として、調査ノートには「大師講」「観音講」「一畑講」「秋葉講」「杵築講」「黒住講」「天理講」「子安講」「金比羅講」の記録がある。これらは有志的な結合を利用した講であり、講員は信仰を同じくすることによって親睦を深め合うことができた。
ところで、宮本は『忘れられた日本人』所収の「村の寄りあい」のなかで、福井県敦賀の西海岸で見聞した観音講について次のように記している。「観音講のことについて根ほり葉ほりきいていくと、「つまり嫁の悪口を言う講よの」と一人がまぜかえすようにいった。しかしすぐそれを訂正するように別の一人が、年よりは愚痴が多いもので、つい嫁の悪口がいいたくなる。そこでこうした所ではなしあうのだが、そうすれば面と向って嫁に辛くあたらなくてもすむという」(宮本1960:34)。非血縁的・地縁的な社会では、年齢階梯による横のつながりを強固にするうえで、講がいかに重要な役割を果たしてきたのかを知ることができよう。
また、宮本は『村のなりたち』のなかで、「村人たちがほんとに心を割って話しあえるのは、こうした講のあつまりにおいてであった。それが部落内の融和をはかっていく上に大きな役割をはたした」と述べている(宮本1966:203)。講という装置をもつことによって、人びとは村でも孤立することなく、安心して暮らしていくことができた。宮本が昭和14年に訪れた中国地方の村々では、そのような地縁組がまだ有効に機能していたといえる。(つづく)
引用参考文献
・板垣優河編2024『宮本常一農漁村採訪録26 昭和14年中国地方調査ノート(1)』、宮本常一記念館
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・宮本常一1943『村里を行く』、三國書房
・宮本常一1960『忘れられた日本人』、未來社
・宮本常一1966『村のなりたち』(双書・日本民衆史4)、未來社
・宮本常一1975『民俗のふるさと』(日本の民俗第1巻)、河出書房新社
・宮本常一1976『中国山地民俗採訪録』(宮本常一著作集第23巻)、未來社