宮本常一記念館

学芸員ノート

013

昭和14年中国地方調査ノート その12 文字をもつ伝承者

資料紹介|2025年7月11日|板垣優河

優れた伝承者に会う旅

 宮本は昭和141939)年10月にアチック・ミューゼアムに入り、戦争の激化に伴い調査の中断を余儀なくされる昭和181月頃まで、日本の各地を精力的に歩いた。そして同年12月には各地の農山漁村を訪れるなかで接した人びとについて叙述した『村里を行く』を発表する(宮本1943)。本書に収録された「土と共に」は昭和141112月に行った中国地方の調査に伴う紀行文だが、これを読むと、宮本が特にその土地に根差した博識な人や、地域の秩序維持と発展に貢献してきた人を求めて歩いていたことが分かる。島根県八束郡恵曇村片句(現松江市鹿島町)の山本恒太郎、同県邑智郡田所村鱒渕(現邑南町)の田中梅治、広島県山県郡八幡村樽床(現北広島町)の後藤吾妻、山口県玖珂郡高根村向垰(現岩国市錦町)の美島清一などがそうした人たちである。

宮本は彼らが保持してきた伝承や体験を早急に記録しておかねば取り返しのつかないことになると考えていた。前掲の「土と共に」では次のように書いている。「つい最近までは村には物識とよばれる老人が大抵は一人か二人居た。そこへ行けば村のことは何でも分つた。出産、婚礼などといふやうな儀式的なことをはじめ、家々の歴史までよく覚えていて、いざといふときには、どこの家でもさういふ老人の処へ行つて知恵を借りたのであつた。昔はどうであつた。何の出来事の時にはどういふやうにした。などとその老人から聞くと人々はそれによつて自分の家の基準をたて、安心して事を行うた。さういふ人は大抵は村でも中流以上に属し、生活もやや楽であり、若い時から物がたかつたといふのが普通であつた。そしてその知識を、その親たちから受け継ぎ受け継いで来たのである」(宮本1943:176)。

 かつては重視された村の経験的な知識も、時代が変わると旧弊とみなされ、それを保持してきた人びとの死去とともに忘却されていく。宮本は優れた伝承者に会い、その談話を聞くことで、そうした知識をできるだけ多く書き留めようとしていた。

文字をもつ伝承者・田中梅治

 そのなかでも島根県邑智郡田所村鱒渕の田中梅治は、宮本にとって印象深い人だった。田中は『忘れられた日本人』のなかで「文字をもつ伝承者(一)」としても紹介された篤学・篤農の人である(宮本1960)。慶応41868)年に生まれ、若い頃から村役場職員や村会議員を勤め、明治421909)年には県下2番目の組合である田所信用組合を創設し、後には産業組合理事や村助役などを歴任した。公職を退いてからは農業に勤しんでいたが、その傍らで稲作に係る技術や習俗について日頃から書き留めていたことを「粒々辛苦」と題して昭和131938)年頃までにまとめていた。

宮本がその草稿を手にしたのは昭和14年の春で、「読んで見ると、筆者の長い間の体験を通じて書かれたものであつて、心にしむものが多い。このまま埋れさすのは惜しいと思ひ澁澤敬三先生にお願して活字にすることになった」とある(宮本1943:172)。その夏、宮本は国語教壇の講習会に出席するために隠岐に渡り、そこで邑智郡長谷村の小学校に勤めていた森脇太一を通じて田中のことを知り、田中をその故郷の地に訪ねてみたいと考えるようになった。昭和14年の中国地方の旅は、「翁の『粒々辛苦』という原稿に加筆訂正をお願いするのがその第一の目的であった」とまで述べている(宮本1976:337)。この原稿は畑作行事について記した「流汗一滴」とともに、昭和169月に『粒々辛苦・流汗一滴』としてアチック・ミューゼアムから刊行されることとなる(田中1941、以下『粒々辛苦』と略す)。なお、宮本は昭和159月に渋沢とともに田中を再訪しているが、田中はそれから1ヶ月もしないうちに狭心症で急逝した。

写真1 田中梅治著『粒々辛苦・流汗一滴』

 田中訪問のことは『忘れられた日本人』にも詳述されている。そのなかで宮本は田中の印象を、「ちょうど、明治大正の時代を前向きになって時代とともにあるいた村をそのまま凝集して一人の人間に仕立てあげた、と言ったような人であった」と書いている(宮本1960:233)。田中はそれまで宮本が出会ってきた文字を解しない伝承者とは異なり、「文字を持つ事によって、光栄ある村たらしめるために父祖から伝えられ、また自分たちの体験を通して得た知識の外に、文字を通して、自分たちの外側にある世界を理解しそれをできるだけ素直な形で村の中へうけ入れようとする、あたらしいタイプの伝承者」であったという(同前:235)。

宮本が抱いたこの印象は、田中の自序とも概ね重なる。田中は『粒々辛苦』の冒頭におかれた「年譜」のなかで自身の経歴を振り返り、「僕ノ経路ハ終始一貫シテ本村自治ノ為産業発展ノ為ニ尽スベク努力シタノデアツテ、決シテ虚栄心ナドニ我楽多役ヲ漁ツタノデハナイ」と書いている(田中1941:2-3)。田中は郷里を愛し、郷里の生産や生活に即して伝承された知識を大切にするとともに、郷里の発展のために村外の知識をも積極的に導入しようとする「文字をもつ伝承者」だった。宮本はこうした新しい型の伝承者を軸にして、戦前の村は前進していったとみていた(宮本1960:253)。

田中からの聞書き

 それでは、田中への聞取りは実際にどのようにして進められたのだろうか。この点は宮本が昭和14年に作成した中国地方調査ノートによって確認することができる(板垣編20242025)。この旅で宮本は都合6冊の調査ノートを作成しているが、そのうち田中の談話は2冊目から4冊目にまたがって記録されており、全体の約24%を占めている。後述する『中国山地民俗採訪録』の冒頭に掲げられた「採訪日誌」によると、宮本が田中を訪ねたのは1121日の夜で、1123日の午後に亀谷の牛市場を見た後に田中と別れている(宮本1976:9-10)。また『忘れられた日本人』には「とにかく朝から夜半まで、ぶっとおしに、食事と便所のほかには動きもしないで話をきいた」とある(宮本1960:226)。調査ノートに記録された談話のボリュームからも、一人の伝承者がもつ体験と伝承の厚みをうかがい知ることができる。

宮本が訪れた田所村(現邑南町)は、邑智郡の南端にあって中国山地の脊梁筋を挟んで広島県山県郡大朝町(現北広島町)と境を接していた村である。南西から北東に向かって流れる出羽川流域のうち、標高300400mの田所村周辺は谷が広く水田があり、かつては大田植行事などが行なわれていた。また、支谷の奥ではタタラ場が稼行しており、製鉄も盛んだった。さらに、砂鉄運搬用や農耕用に牛が飼われ、その畜養のために周辺の出羽・阿須那・亀谷では牛市が発達していた。調査ノートにはそうした村の生業や労働に関する記録が多数見える。

 一連の調査報告は、昭和511976)年10月刊行の『中国山地民俗採訪録』(宮本常一著作集第23巻)においてなされている(宮本1976)。そのなかの「島根県邑智郡田所村」の章で田中の談話が報告されている。しかし、その元となった調査ノートと対照させてみると、稲作に係る技術や行事、労働組織、またアサ栽培のことなど、調査ノートには記録があるものの、『中国山地民俗採訪録』では報告のないものが散見する。この点について、同書には「じつはこのほかに農耕特に麻栽培や大田植行事などについてはかなり委しくきいてみた。それらについてはすでに田中翁の『粒々辛苦』に書かれていることでもあり、ここに重出することを避けた」とあるので(宮本1976:42-43)、意図的な省略であったことが分かる。

調査ノートを読むと、実際の聞取りも『粒々辛苦』を意識し、時にはその記載事項を確認しつつ、むしろ『粒々辛苦』には書かれていない農業以外の生業、農業周辺の暮らしの全般を聞き、村のあらましを捉えようとしていたことがうかがえる。これにより、例えば田所村ではフジの靭皮繊維を利用した布が織られていたこと(板垣編2024:88-89)、ワラビ・ゼンマイ・バカ・タラ・フキ、それ茸類の採取が盛んだったこと(同前:126-127)、松脂を採取して「ヨジロ」と称する蝋燭を自製し、ヨナベ仕事に使っていたことなど(同前:90-91)、全般的に自給自足的な生活が営まれていたことが読み取れる。

アチック・ミューゼアムに入った頃の宮本の調査は、テーマ主義的に特定の項目を掘り下げるのではなく、まず地域の生活文化の全体像を捉えることが目指されていた。『民俗学の旅』では次のように述べている。「渋沢先生はとにかくざっと日本全国を見てあるいておくことだといわれた。だから予備調査のようなものであった。そして特に特定のテーマを持つということもなかった。ただあるいて見る。そしていろいろの人にあい、さまざまの地域に人はどうして生活しているのかを見て来る」(宮本1978:104)。

田中への聞取りも、その延長で行なわれていたと理解することができる。田中は先述のように信用組合を創設し、後には産業組合の理事を務めるなど村の発展に尽力したが、そうした経歴に関する記録は調査ノートには全くといっていいほど出てこない。これは、「こういう話は自慢話になりますので、話しにくいから書いたものがあるから見せる」といって、田中が積極的に語らなかったことにも原因がある(宮本1960:229)。しかし、調査ノートからうかがえることは、宮本が聞きたかったのは田中という篤農・篤学の人が保持する伝承の全般ではなかったか、ということである。この目論見は、田中が「文字をもつ伝承者」であることによって達せられることになる。

 それにしても、宮本の調査ノートにみる記録はあまりブレがなく読みやすく、そのまま調査報告にしても違和感がない箇所が少なくない。例えば、田植組合(田植組ともいう)について、調査ノートには次のように記されている(板垣編2024:116)。

5軒乃至89軒、近所ノモノガクミアフ。シンセキトハ別ニクマヌ。
今田ウエクミハナイガ、田植クミハ近クツキアフコトニナツテイテ、不幸ノトキモコノ田ウエクミヲタノム。
仏事ヲスルトキモ、ソノクミヘダンゴヲモツテユク。
田植クミハ大体平等。
一日ヅツトルヨウニシテ行フ。
大田ヲウエルマデニ、ミナ小植ヲシテオク。

 この記録をもとにして、『中国山地民俗採訪録』では次のように報告されている(宮本1976:32)。

田植組合は近隣五軒ないし八、九軒と組み合っている。地域団体であって親戚とは別に組まない。田植組は単に田植だけでなく親しく交際していた。たとえば家に不幸のあった時など先ずこの田植組をたのんだし、仏事をするとその組へ団子などを配った。しかし、大田植が衰えるようになって、田植組というものはだんだんとけてなくなり、今ではその年々に家と家との話しあいで組み合って植えるまでに崩れている。田植組と五人組とはまた別のものであった。

 宮本が調査した時点ですでに田植組は解体し、大田植も昔語りになろうとしていた。しかし、かつては田植組という地縁的な組織があり、またその繋がりによって生産活動や社会生活を円滑に営んでいたことがうかがえる。

田中梅治の談話を記録した調査ノートからは、宮本が優れた伝承者の知遇を得て、質の高い聞書きを量産し、地域の生活文化の全体を把握していった跡をうかがうことができる。(つづく)

引用参考文献

・板垣優河編2024『宮本常一農漁村採訪録26 昭和14年中国地方調査ノート(1)』、宮本常一記念館
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・田中梅治1941『粒々辛苦・流汗一滴』(アチックミューゼアム彙報第48)、アチックミューゼアム
・宮本常一1943『村里を行く』、三國書房
・宮本常一1960『忘れられた日本人』、未來社
・宮本常一1976『中国山地民俗採訪録』(宮本常一著作集第23巻)、未來社
・宮本常一1978『民俗学の旅』、文藝春秋

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