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昭和14年中国地方調査ノート その7 様々な食べ物② トチの実
資料紹介|2025年5月29日|板垣優河
堅果類・根茎類に関する記録
以降しばらくは、筆者が全国的に行った野生堅果類・根茎類の食料化に関する民俗調査と対照させながら宮本の調査ノートを分析していく。これは重箱の隅をつつくような作業ではあるが、宮本の資料がもつ学術的な価値を確認し、また日本各地の食生活の地域的差異や時期的推移を見るうえで、必要な作業であると考える。
まず筆者の立場と分析視点を述べる。筆者は縄文時代の食生活、特に植物食について研究している。といっても、分析するのは考古資料ばかりではない。縄文人による植物の採集・加工・調理・貯蔵の手法について具体的で正確度の高い推論を立てるために、平成27年から令和2年にかけて、山野に自生する堅果類や根茎類の食料化に関する民俗調査を行ってきた。しかしながら、関連伝承はその当時でも既に風前の灯といった感が強く、自身による調査だけでは自ずと限界があった。これを克服するには、民俗調査だけでなく古文献記録の調査が必要である。その点で、戦前から物質文化の記録に重きをおいて調査を進めていた宮本の資料には、筆者が把握できなかったより古層の民俗の態様が具体的に記されている可能性が高く、良好な分析材料になると思われた。
また、宮本と筆者の記録を対照させることで、ここ100年ほどの民俗の変容過程や不変要素を捉えることもできるだろう。特定の民俗事象を変容させ、もしくは継起させた生態学的・社会的条件を明らかにすることができれば、そこから敷衍して縄文時代にもつながり得る要素を見定めることもできるはずだ。そのような観点から筆者は宮本の資料を分析するものである。
なお、以降の記事は拙論(板垣2024)をベースとし、それを再構成したものである。
トチの実
宮本は山口県高根村向垰(現岩国市錦町)で、「アハ、キビハセツキニモチヲツクタメニ作ツタ。[/]年末ノモチハアハ、トーキビ、トチノミ」と記している(板垣編2025:75)。アワやキビ、トウキビなど、米以外で作る餅を食べていたことがうかがえるが、その中でも興味深い餅の材料として「トチノミ」が出てくる。調査ノートでは続けて、「トチノミヲヒロツタ。タクサンアツタ。[/]天井ニホシテ、オイテ、モチニシタ」と書かれている(同前:75)。この地域にはいわゆる栃餅の食習が残存していたのである。
トチの実が成るトチノキは、トチノキ科トチノキ属の落葉高木である。北海道の小樽市以南から本州・四国の深山の渓流沿いに生える。九州にも分布するというが、稀である。5月下旬に群れて白色の円錐花序が直立する。倒卵円形を呈する果皮内には径3cm弱で丸みの強い種子が1、2個入っている。種子にはサポニン・アロイン・タンニンが含まれており、アク抜きをしないと食べることができない(写真1)。
トチの実はかつて広い地域で食べられていたと考えられ、日本でその食習が残る地域の南限は、山口県岩国市錦町であるとされてきた(和田2007:190)。しかし、筆者による民俗調査では、高知県吾川郡いの町越裏門などでも栃餅を作っていたことを確認しており、南限はさらに下がるものと思われる。いずれにせよ、宮本の記録は調査例の乏しい中国山地におけるトチの実食を伝えるものとして貴重である。
トチの実の加工法、及び栃餅の製法について、宮本は広島県戸河内町本横川(現安芸太田町)で詳しく聞いている。調査ノートには次のように書かれている。「天井ヲスダナニスルノハ、トチヲホスタメ。[/]トチヒロヒハ女ノシゴト。[/]川ヘオケヘイレテツケル。3、4日間スルト虫ガシヌル。[/]ソレヲアゲテ、天日デホス。3日位。[/]シハガヨルカラ、天井ノスノ上ニアゲテオク。[/]ソレヲオロシテ、5升ナラ5升マスデハカツテ、オケヘイレテ、アツイユヲカケル。夜ソレヲムク。ヘシトイフモノデムク。[/]女ノシゴト。[/]ソレヲアサユスイデ、ナベデヌクメテ、ツチデ石ノ上デタタイテ、ヒラクタニスル。ソレヲユルリノハイ、トチガ五升ニハイヲ五升ノワリアヒデ、カンカンカオケカデアナヲソコニアケ、ソノ上ヘスクモヲヤリ、ハイヲイレテ、水ヲイレテアクヲトリ、ソノアクノ中ニトチヲ1日カシテオキ、アクル日ニシルヲステ、トチヲ川ヘツケテ、三日クライ川デサラス。ソレデニガミガ去ル。[/]ハイノカスヲステナイデ、ユヲカケルト、アクガ出ル。[/]ソノトチガニガミナクナリシトキ、又ソノ汁ニイレルト、トチハヤハラカクナル。ソレデモチゴメヲイレテ、ムシテツク。[/]五升ノトチムギハ、二時間ハカカル。一升デトチハ150アリ。ナマドチハ100アル。[/]今トチノ木ヲキツタノデ、タベナクナツタ。[/]トチモチヲタベルト、大変タスカルモノデアル。[/]トチハドノ山ノヲヒロツテモヨカツタ。今ハコミヤマダケ。[/]共有山ハヒロヘル」(板垣編2025:55-56)。
この記録によると、拾った実はまず水に浸けて殺虫し、天日に干し、さらに天井に上げて貯蔵した。天井は簀棚になっていたが、これはトチを干すための工夫であり、トチの食料化作業が家屋構造にも影響を及ぼしていたことがうかがえる。乾燥させたトチは湯に浸けて温めてから「ヘシ」と称する道具で剥いた。その剥き身を石の上で叩き潰し、灰汁に1日浸け、さらに川の流水に3日くらい浸けて晒した。「ソレデニガミガ去ル」というので、アク抜きはこの段階で完了していたようだ。さらに、「ソノトチガニガミナクナリシトキ、又ソノ汁ニイレルト、トチハヤハラカクナル」とある。アクが抜けた状態での2回目の加灰は、トチを柔軟化させ、穀類と搗き混ぜやすくするためのものだったと推測する。
なお、前回の記事で紹介した『郷土食慣行調査報告書』には、戸河内町より上流地域で作られていた食品として「とちだんご」の加工調理法が記されている。宮本の蔵書にもその部分に線引きが見られ、宮本がこの食品に注目していたことがうかがえる。報告書に記された加工工程は、「栃の子実に沸騰している熱湯をかけ、十二-三時間放置す。へしにて栃の実を一つ宛押し擦つて、外皮を剥ぎ除く。中の実(胚乳の部分)を木槌で叩き潰す。それを一晩蕎麦稈灰汁に漬けて後更に一昼夜清流又は清水に晒す。更に灰湯に暫く浸し、最後に蒸籠に入れて蒸し、別に蒸して置いた糯米と混ぜて臼で搗いて餅に作る」というものであり(中央食糧協力会編1944:396)、宮本が同町本横川で記録した「トチモチ」の加工調理法と驚くほど重なる。そして後述するように、どちらも剥き実をアク抜きの前に粉砕している点が注目される。
吉野西奥地方のトチの実食
ところで宮本は昭和14年10月13日に調査した奈良県吉野郡十津川村迫で、「コンキウノ時ハ、オイモチヲタベタ(ヒガンバナノ根)。[/]カシノミヲタベタ。[/]トチモチヲタベタ。玉置川デタベテイル。[/]土地ノカンレイトシテ、トチガ出来ルト、キツテハナラヌトイフカンレイガアル」と記録している(田村・徳毛2019:164)。吉野西奥地方でも「トチモチ」いう食品が作られていたことがうかがえる。筆者が調査した時点で、紀伊山中の奈良県吉野郡川上村、上北山村、下北山村、十津川村、また三重県多気郡大台町などでは栃餅が作られていたが、上の記録によると、かつてはこれを「コンキウノ時」に食べていたようだ。トチの実は食料として重要だったため、「トチガ出来ルト、キツテハナラヌ」という不文律も存在した。
ついでに、宮本は昭和39年8月12日に調査した青森県むつ市関根で、「山ガタノ人ハ、トチヲタベタ。コノアタリノ人ハ、トチヲタベルコトヲシラヌ。トチノ木ノナイ家ヘハヨメニイクナトイフ」と記録している(「下北調査1 昭和38年度・39年度 むつ市」未目録文書)。「トチノ木ノナイ家ヘハヨメニイクナ」という口誦句は、トチの木が食料供給源として重視され、一家の固定財産して扱われていたことを示唆するものである。筆者も岩手県下閉伊郡岩泉町で「トチの木が3本ない家は嫁にもらえなかった」という話を聞いたことがある。
また昭和14年10月14日に調査した奈良県吉野郡十津川村湯泉地温泉では、トチの実の加工について次のように記録している。「ヒロツテ来テ、二、三日水ニツケ、ワラノミシロニホシ、中ノミガナルマデホシ、水ニツケ、ユデヌクメテ、タタイテミヲトリ、ハイジルヘツケ(一ヨサ)、一ヨサアハイテ、一日ホシテ、又アハイテ、モチニツク。[/]モチゴメヲ少シイレル。[/]ハイガタラヌトニガイ。多イトハイガライ」(同前:177)。
これによると、まず乾燥させた種実を湯水に浸け、叩いて種皮を剥いたようだ。現在、紀伊山中では「トチオシ」や「クワイ」と称する木製の剥き器が多用されているが、本例では「タタイテミヲトリ」と記されており、それ以前の様態を示している可能性がある。おそらく金槌や木槌、石などを使って種皮を打割していたのだろう。なお、金槌の使用は現在も十津川村上葛川などで孤立的に認められる。皮を剥いたトチは灰汁に一夜浸して加灰する。それをいったん干してから再び加灰し、糯米と搗いて餅にした。「アハイテ」という表現はやや独特だが、筆者が調査した上北山村白川の例では、「アワシバイ」という灰汁に浸ける工程があり、おそらくは灰合わせを意味するのであろう。白川では、加灰(アワシバイ)→水晒し(1週間)→乾燥(貯蔵を目的とする)→加灰(クイバイという)、と処理が進められていた。なお、この例では水晒しへの言及がないが、筆者の調査から帰納すると、これは絶対に不可欠な工程であり、宮本が聞き漏らしている可能性が高い。
現在の栃餅は風味を味わうために作られている。その栃餅はトチと糯米の比率が半々、どちらかというと糯米の方が多い傾向がある。しかし、湯泉地温泉の記録には「モチゴメヲ少シイレル」とある。戦前の山村ではトチよりも穀類の方が貴重で、不足しがちな穀類を補うためにトチを入れたのだろう。先の本横川の例でも、「トチモチヲタベルト、大変タスカルモノデアル」と記されていた。ここ100年ほどの間に、トチとその加工食品の位置付けが変わってきたといえる。
なお、湯泉地温泉の記録では「ハイガタラヌトニガイ。多イトハイガライ」とも記されていた。栃餅を作る場合、トチ本来がもつアクを除去するだけでなく、アク抜き媒介材として加えた灰の臭気を留めておくことも大切だったのである。
筆者が調査したトチの実食
筆者はトチの実食について、北上山地・濃飛加越山地・丹波山地・紀伊山地・四国山地の都合59箇所で調査を行った。そのなかで、宮本の調査記録、特に本横川の記録でみた加工調理法に近いものを改めて探索すると、濃飛加越山地中の白山周辺地域、具体的には福井県大野市上大納、同市下打波、岐阜県山県市神崎、同県郡上市白鳥町石徹白などが該当する。なお、宮本は『越前石徹白民俗誌』の入村記のなかで、石徹白村や上穴馬村で栃餅をもらって食べたと記している(宮本1949:13、17)。石徹白では筆者が調査した時点でも栃餅が作られていた(写真2)。
以下、福井県大野市下打波におけるトチの実食について記す。調査は令和元年11月3日に行った。
トチには成り年と裏年がある。令和元年は裏年だった。9月中旬から下旬にかけて村の共有林や私有林で拾ったが、昔は拾いに行く場所が各々で決まっていた。拾った実をムシロに広げ、1ヶ月ほど日に干す。毎日実をかき回し、完全に乾かす。試しに金槌で割ってみて、中身に爪が立たないくらいまで硬化していればよい。湿気を逃がすために、米の袋などに入れて保管する。昔は囲炉裏の上の火棚に上げていた。
栃餅を搗くときは、まず実を1晩水に浸ける。翌朝煮え湯に浸け、「ゴネリ」で剥く。ゴネリの下板に座布団をのせて足で固定し、皮を剥いた(写真3)。なお、昔は石に実をのせ、金槌で叩いて剥いた。人によっては歯で剥いた。
剥き身を1晩水に浸けてふやかした後、台石に2、3個ずつのせ、「トチツブシ」で叩き潰す。このトチツブシは幹に対してやや上向きに短めの柄が付いたもので、潰すといっても、2回ほど強めに打ち下ろし、粗く割る程度である(写真4)。このようにトチを潰しておくとアクが出やすくなる。潰した身を綿のサラシ袋に入れ、3、4日ほど谷の流れ水に浸ける。なお、下打波にはコンクリート製の水枡があり、そこへ山水を引き込んで晒した。山水は水温が一定して低い。大野市街の水は温いので、今でも下打波まで出向いて晒すようにしている。トチの苦みが移るため、昔は「他人が晒しているところより上で晒してはならない」と言われた。晒し終わったら、袋をねじって上に石をのせ、水を切る。今は洗濯機にかけて脱水している。
底に径5mmほどの穴を10個穿った一斗缶に布を敷き、木灰を詰める。そこへ熱湯を注ぎ、アクを垂らす(写真5)。昔は「トチ1升にアク1升」といい、囲炉裏で集めた灰を使った。木灰はナラなどの雑木、特に生木を焚いたものが良い。針葉樹や枯木、古木、またナイロンなどゴミが混ざる灰は駄目である。ただし、スギでもその年に切ったものなら良いとされた。熱湯を注いだ後、ポタポタと滴りはじめた液体を舐めてみて、舌がピリッとくるうちは適宜煮え湯を注いでアクを垂らす。舌にピリピリこないうちはトチの苦みは抜けていない。何度も味見しながらアクを垂らすので、次第に舌が麻痺し、その夜はご飯の味が分からなかった。そうして丁寧にアクをつくっておけば失敗がない。アクは何年でも保存できるので、暇をみて垂らしておく。なお、ヨモギを煮るときは薄く垂らしたアクを使った。
水に晒したトチを1晩アクに浸ける。その際、トチもアクも温めることはない。冷めてしまったアクにトチを浸けておくだけである。アクに浸けたままトチを保存することもある。糯米1升5合につき、トチを5合入れて蒸籠で蒸す(写真6)。それを杵で搗き、おろしたクルミをかけたり餡子で包んだりして食べた。
ところで、栃餅とは別に「コザワシ」と称する食べ方もあった。粉を「サワス」、つまり水に晒すのでそう呼んでいた。米のないところでは昭和25、26年頃まで作っていた。これを作るには、まず拾ったトチの実を生のまま煮て、臼で搗き潰す。中身が割れ、粉になって出てくるので、トーシ(篩)にかけて皮と粉を分ける。トーシに残る皮は捨てる。長さ70cm、幅50cm、高さ15cmほどの木枠に何本か棒を渡し、その上に竹簀と布を敷く。布の上にトチの粉をのせ、さらに布を被せる。その上に樋で導いた山水をチョロチョロと落とし、2晩晒す。水を静かに落とすと粉は上手い具合に棚の中に拡散する。1晩アクに浸け、さらに山水でもう2晩晒す。白くなった粉を取り上げ、布で絞って脱水する。コザワシはツルツルとしたおからのようなもので、味噌をかけて食べると香ばしかった。
なお、写真7は石川県白山市白峰を調査した際に食べたトチの水晒し粉である。白峰ではその加工法、及び加工食品のことをともに「コザラシ」と称していた。
調査記録の比較、考古学研究への援用
宮本が調査した本横川の例と筆者が調査した下打波の例を対照させたとき、アク抜きに先行して剥き身を叩き潰している点が共通要素として注目される。もっとも筆者が観察した限り、潰すといっても粉にするわけではなく、粗く割る程度だった。潰しすぎると水晒し中に澱粉が流出してしまうからである。その際に用いる木槌は、柄が短いわりに敲打部が異様に太く、手元の生硬い対象を狙って砕くのに適したものだった。それと組み合うのは扁平な自然石をそのまま用いた台石であり、筆者が下打波で観察したものは優に100年も使用され続けていた。台石の機能面は概ね平坦で、使用による凹面化や平坦化は認められないが、木槌と頻繁に接触していた中央部では、長径19cm、短径14cmほどの範囲で小規模な脱粒が認められ、残存する高所は押し潰されたように磨耗していた(写真8)。
本稿では細かな論証を避けるが、トチの実を加工する際の重要技術の一つとして、筆者は「粉砕」をあげることができるのではないかと考えている。下打波で行なわれていた「コザワシ」も、粉にして水に晒すという点に技術的な枢要が認められるのである。「粉砕」が重要な工程であることを認識できれば、次にその加工用具の様態を明らかにしなければならない。特に、使用により道具にどのような痕跡が形成されるのかを観察し、それを考古資料上に観察される痕跡と対照させていく作業が必要である。というのも、縄文時代の遺跡からは、下打波で使われていた台石と同様の形態・サイズ、そして使用痕をもつ石器が出土しているからである。以上により、縄文時代の植物食に考古学的に可視的な方法で接近することができる。
縄文時代の植物食を研究するなかで、「ツチデ石ノ上デタタイテ、ヒラクタニスル」と書かれた宮本の調査ノートは、筆者にとって重要な示唆を与えてくれるものである。(つづく)
引用参考文献
・板垣優河2024「縄文時代植物採集活動の研究」博士論文、京都大学
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・田村善次郎・徳毛敦洋2019『宮本常一農漁村採訪録21 吉野西奥調査ノート』、宮本常一記念館
・中央食糧協力会編1944『郷土食慣行調査報告書』
・宮本常一1949『越前石徹白民俗誌』、三省堂
・和田稜三2007「トチノミの食文化」『トチノキの自然史とトチノミの食文化』、日本林業調査会、171-269頁