宮本常一記念館

学芸員ノート

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宮本常一と農業 その5 周防大島の農業④

宮本研究|2025年11月21日|板垣優河

養蚕

 周防大島では明治後期から養蚕が次第に盛んになり、大正に入ると、サツマイモを作っていた畑の3分の2までが桑畑になる(宮本1971:48)。特に日露戦争後は養蚕の伸びが目覚ましく、1929年のピーク時には大島郡蚕繭糸の総額は99万円に達し、同年の米の産額92万円を超え、大島郡第一の産業となった(大島町誌編纂委員会1959:486)。大正から昭和初期にかけて、周防大島は養蚕によって支えられていたといえるが、このいわば時流に乗った経営により、農家はそれまで抱えていた借銭を払い、自立した経営ができるまでになった(宮本・岡本1982:791-792)。宮本が生まれた1907年は、宮本家がいち早く養蚕によって生計を立てようとしていた時期であり、作業空間を確保するために家屋を蚕室風に改築している。

 ところが、その養蚕が1930年前後の世界恐慌によって急に没落を始める。アメリカへ輸出する量が減り、生糸の価格が暴落したからである。そこで養蚕に見切りをつけ、ミカンを植える者が増えてきた。

ミカン栽培の歴史

 周防大島におけるミカンの歴史は古いが、栽培された品種にはいくつかの系統があり、それらにも盛衰があったようである。以下、『私の日本地図9』によってミカン栽培の歴史を振り返る(宮本1971:54-57)。

幕末頃、日前では大庄屋藤井彦右衛門が紀州からミカンを持ち帰り植えた。しかしこれは枯れてしまい育たなかったという。その後1884年に河合何某という者が再びミカンの苗を他から持ってきて植えた。これが日前のミカン栽培のおこりとされている。

またそれとは別に、長崎では尾張温州系のミカン栽培がおこっている。やはり幕末頃であるが、西方神宮寺の弘法市の露店で売られていたミカンの植木を林幸太郎という者が買い、山の畑に植えた。その1020年後、大きな実が鈴なりに成っているのを見た山本萬之丞がその枝をもらってザボンか夏橙を台木にして接木し、見事なミカンの木をつくった。これを萬之丞ミカンと称し、その穂木をとって接木し、株を増やしていった。山本系とも称されるこの系統は、大島郡のミカン栽培面積の半分近くを占めていたともいわれている。宮本家には1890年頃に萬之丞が植えたミカンの木が10本ほどあり、宮本家のミカン栽培もここから始まったという。なお、萬之丞は稲の品種改良にも力を尽くし、萬之丞稲と称する新品種を作り出した。明治中期の長崎を含む西方地域では、この品種が神力・雄町とともに栽培されていた(土井1955:200)。

なお、萬之丞のことについては、東和町農業協同組合から196210月に発行された『農協だより』第3号でも紹介されている。現在、長崎の海岸には「山本萬之丞頌徳碑」がある(写真1)。

写真1 長崎にある山本萬之丞頌徳碑

ミカン園の盛衰

ミカンは早くも1904年に大島郡是として取り上げられ、養蚕とともに郡の二大重要産業として推進することになっていた。1920年に発行された『大島郡大観』には、「柑橘栽培が、近時長足の進歩をなし来つて、今や本郡より産出のものは、優に紀州雲州物を凌ぐに至らんとして、立派な特産品となつて来た」と書かれている(小澤・村上1920:208)。

先述のように、養蚕は1929年をピークとし、世界恐慌の影響を受けて没落するが、その前から生糸相場の変動が大きくなると、養蚕の先行きに不安を覚え、ミカンを植える者が出てきた。『和田村現勢調査簿』によると、旧和田村のミカン植栽本数は、19272,080本、19283,715本、19296,980本、19307,500本、19317,800本と着実に増えている(宮本・岡本1982:793)。1927年には大島郡柑橘出荷組合が結成され、大島郡を一本とする生産販売の実をあげるようになる。後々まで親しまれることになる「でっぷりとふくよかなおばさんが満面にえみをたたえて、みかんを運ぶ絵」というトレードマークは、この時に商標登録されたものである(大島町誌編纂委員会1959:508、写真2)。

写真2 ミカンの木箱に貼付された「みかんおばさん」のシール(宮本常一記念館蔵)

しかし、戦前は水田にまでミカンを植える者はほとんどなかった。また太平洋戦争によって畑では麦と甘藷の栽培が優先されるようになると、ミカンの強制引揚げが指令され、肥料の配給も途絶えたため、果樹園の荒廃が進んだ(大島町誌編纂委員会1959:489)。

終戦後、米・麦・甘藷は国民主食の関係から比較的安い公定価格で抑えられたのに対し、ミカンは価格統制の枠から外されて有利に、しかも非常に高値で取引されるようになる。

下表は平郡村を含む1953年の大島郡の主要作物の作付面積と反当収量等を示したものである(中山1954より作成)。作付面積では稲を最上位としつつ、麦がそれに迫る広さで栽培されている。麦は稲や甘藷の裏作として作られていたので収量が多かった。しかし収益性でみると、そうした普通作物よりも、ミカン・タバコ栽培の方が格段に高いことが分かる。仮に1反の田で稲と麦を二毛作した場合は計23,264円、畑で甘藷と麦を二毛作した場合は計22,367円となるが、これに対し、ミカンの場合はそれ一本でも61,364円となる。田の2.6倍、畑の2.7倍の収益を上げられることになる。ミカン園拡大に向けての開拓や作付転換が農業経営として有利なことが分かる。しかし、この時点ではミカンの作付面積はまだ少なかった。投資コストが莫大であるにも関わらず未収益期間が長く、普通農家にとっては転換が容易ではなかったからである(中山1954:321)。

作物 作付面積 収量 価格 所得的失費 所得
水稲 16,830反 25斗 21,250円 6,740円 14,510円
麦類 14,250反 22斗 11,000円 2,246円 8,754円
サツマイモ 6,130反 500貫 15,000円 1,387円 13,613円
ソラマメ 1,180反 10斗 5,000円 645円 4,455円
アズキ 1,024反 6斗 7,860円 700円 7,160円
ダイズ 889反 9斗 7,920円 700円 7,220円
温州ミカン 5,986反 872貫 80,224円 18,860円 61,364円
タバコ 457反 50,000円 19,326円 30,674円

 それでも昭和30年代に入るとミカンの植栽が進められる。その結果、島の東部では稲作はほとんど行われなくなり、ミカン栽培のみで生計を立てる農家が出てきた。宮本家でも1959年頃に田を潰してミカンを植え、最終的には田と畑の全てにミカン園になった(宮本1971:51-52)。写真3は宮本が19596月に長崎で撮影したものである。写真4はほぼ同じ場所を196310月に撮影したものだが、僅か4年ほどの間にミカンの植栽が一気に進んでいたことが分かる。

写真3 長崎の農地① 1959年6月 宮本常一撮影
写真4 長崎の農地② 1963年10月 宮本常一撮影

ところで1960年に山口県知事が来島した際、各地の座談会でミカンの植栽が問題になり、これを進めるために借入金の利子補給をすることを知事が約束したという(宮本・岡本1982:864)。さらに1961年の農業基本法による農業構造改善事業において、農業生産の選択的拡大、及び適地適作目の主産地形成のために、耕地のミカン園化が急速に進められた。

 宮本は19643月に『広島農業』に書いた「みかん生産の近代化をめざして」という論考のなかで、旧東和町で1962年から行われた農業構造改善事業に言及している。東和町の場合、戦前からすでに経営体としての農家はほとんど解消していたが、戦後はそれがますます加速し、「農業は存在するけれども農家は存在しない」というほどに専業農家が減少していた。それでも町の生産額の上では農業は約4億円をあげ、首位をしめていた。宮本は「第一次、第二次産業の発展が、こうした島社会にあっては、その地の生活文化を向上させていく上に何より重要な梃子になる。にもかかわらず、それらの産業の基盤整備がもっともおろそかにせられてきていたのが現状であった」と述べている(宮本1964:17)。そうしたなかで、より高い生産を上げるには、良質な労働力の確保、農道の改修、用水設備の完備、販売流通機構の整備、それら事業を推進するための金融措置、が必要であるとする。

 また、設備の共同利用も、経営の共同化を進めるうえで重要な要件であると考えていた。馬ケ原では構造改善事業が計画されるよりも前に定置配管による共同消毒が実施され、これにより、一軒一軒が急傾斜にある園地まで機械を運んだり薬を調合したりする必要がなくなっていた(写真5)。これにならい、小泊と地家室でも共同消毒が行われることになった。

写真5 馬ケ原の農地 1969年4月7日 宮本常一撮影

東和町では農業構造改善事業により、田に土を入れてミカン園に転換したところが多い。そのなかでも宮本が注目するのは、下田の低湿田約7町分の全面的な埋立てである。下田は台風時の高潮被害を受けやすく、それを避けるために稲の早期栽培を行っていたが、その田を埋めて園地に転換すれば、傾斜面よりも作業能率は上がり、かなりの面積の高度利用が可能になると考えていた(宮本1964:18)。

 写真619601月に宮本が下田の低湿田を撮影したものである。下田の南側はもとタブノハラと呼ばれ、一面湿地だった。寛延31750)年に編まれた『地下上申』には、「下田と申ハ、当所に田否と申候て只今御田地拾五町程御座候、此所往古ハ入江之干潟ニて、下田人家有之所ハ干潟より沖に有之、ゆり上之洲浜ニて干潟之浜と申居候所ニ、右之干潟田地ニ相成候後ハ下田と相改候由地下人申伝候事」と記されている(山口県地方史学会1978:40)。このことから、「下田」という地名は「干潟」からの転訛であり、もともと干潟だったところを干拓し、水田にしたことがうかがえる。山裾にはすでにミカンが植えられているが、まだ田には植えられていない。周防大島では全島的に、ミカンの植栽が山の段畑から平地の水田へ向かって進められたが、下田ではそれが農業構造改善事業として行われた。写真719694月に宮本が同じところを撮影したものである。

写真6 下田の農地① 1960年1月 宮本常一撮影
写真7 下田の農地② 1969年4月 宮本常一撮影

下田で造成されたミカン園は「マンモスみかん団地」と呼ばれていた。『東和広報』第112号(東和町役場、19647月発行)には、この造成事業について「昨年の十二月農業構造改善事業で下田地区の水田五、六ヘクタールにブルドーザー、トラックなど二十台を入れて集団転換。転換された五、六ヘクタールは湿田で工費千三万円をかけ近くの山を切開き、一メートルほど土地をカサあげした大事業で六ヵ月かかり五月末完工しました」と書かれている。

ミカンの植栽が急速に進められた結果、ミカン園は、東和町で857町(1972年)、橘町で705町(1973年)、大島町で471町(1972年)、久賀町で417町(1972年)まで拡大する。収穫量のピークは1972年で、東和町は24,600t、橘町は24,100t、久賀町は15,800t、大島町は14,700tをあげている(福原1998:30)。宮本は196612月に島の上空をヘリコプターで飛んだ際、久賀の耕地の様子を写真に撮っている(写真8)。『私の日本地図9』では、「久賀の町の東南部の谷の田はミカンでおおわれていた。棚田そのままでも、畔が曲線を描いているのが特に不思議な美観を生み出しているが、ミカンが植えられると、また違った美しさが生れてくる」と書いている(宮本1971:109)。宮本は同書で「人間が作り出した風景の中でミカン畑だけは美しい。それは瀬戸内海の島の新しい風景になろうとしている」とも述べている(同前:68)。

写真8 久賀の農地 1966年12月23日 宮本常一撮影

しかし、ミカン園は1970年代前半を境として急速に縮小し、放置園が増加する。その背景として指摘されているのは、生産過剰による価格暴落(豊作貧乏)、それを受けての幼木の植付意欲の低下である(福原1998:34)。浮島でも島の開発とミカンの増産を目的として1970年に山口県がパイロット事業に着手したが、1972年以降ミカンの価格が下落し、1974年には「みかん新植抑制策」が発出されたため、1975年度で事業が打ち切りとなった(橘町史編集委員会1983:118-119)。

 旧東和町の場合、農道の敷設など基盤整備が根本的に遅れたため、イモや麦を植えていた畑へそのままミカンを植えたところが多かった。また各家の経営規模が小さいので、施設などはできるだけ共同化し、営農の団地化をはかる必要があったが、それも進まなかった。生産過剰は生産調整を行うことによって価格の回復があり得たが、地利的にも設備投資の上からも園の用途転換は容易ではなかった。このことについて、宮本は「すべての農業を捨ててミカン一本が奨励されたところに問題があった」と反省している(宮本・岡本1982:870)。

周防大島の農業は時流にのった経営により、ここ100年ほどの間にも大きく相貌を変えているが、このことはある面において、島の農業の不安定さをも示しているといえよう。(つづく)

引用参考文献

・大島町誌編纂委員会1959『周防大島町誌』、山口県大島町役場
・小澤白水・村上岳陽1920『大島郡大観』、大島新聞社
・橘町史編集委員会1983『橘町史』、山口県大島郡橘町
・土井彌太郎1955「山口県大島郡の稲作 第1報 稲作の変遷(大島郡学術調査報告5)」『山口大学農学部学術報告』第6号、山口大学農学部、191-228
・中山清次1954「山口県大島地域に於ける農業経営の諸問題 第1報 蜜柑園及びその間作に関する経営学的研究(大島郡学術調査報告3)」『山口大学農学部学術報告』第5号、山口大学農学部、319-330
・福原博1998「大島みかん園の盛衰東和町下田地区の場合」『エリア山口』第27号、山口地理学会、27-41
・宮本常一1964「みかん生産の近代化をめざして 山口県大島郡東和町」『広島農業』第17巻第3号、広島農業協会、16-19
・宮本常一1971『私の日本地図9・瀬戸内海 周防大島』、同友館
・宮本常一・岡本定1982『東和町誌』、山口県大島郡東和町
・山口県地方史学会1978『防長地下上申』第1

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