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宮本常一と農業 その6 周防大島の農業⑤
宮本研究|2025年11月28日|板垣優河
農地解放の効果と課題
宮本は『山口県久賀町誌』のなかで旧久賀町の農業の歴史的な展開について書いている。そのなかで、宮本が前近代において農業の進歩を阻んだ要因とみているものは、「小作農の増大」と「出稼」である(久賀町誌編集委員会1954:141)。小作農はその高額な小作料(加徴)のために余剰利益を再生産にまわす余裕がなかった。小作料は極めて高く、久賀の伊藤家に伝わる文政2(1819)年の文書によると、田の石高よりも小作料の方が高いという例も少なくない。18世紀中頃からの人口増加により、亡土百姓と称する土地を持たない者が増え、彼らは本百姓(小土地経営者)から土地を少しずつ借りて小作したが、やがてその小作地の奪い合いとなり、小作料をせり上げていった。特に久賀ではそれが甚だしく、郡内でも最も小作料が高かったところといわれている。
また、明治中期以降は、男性による出稼ぎが隆盛を極め、農地は女性の手で作られることが多くなる。宮本は女性ばかりに頼る農業では生産性が上らないと考えていた。この点は鍬のサイズにも表れているという。『山口県久賀町誌』では次のように書いている。
「たとえば大島郡以外の地方で使用して居る鍬は大抵幅五寸程度のものであり、備中鍬なども重いものになると一貫目近いものがある。それが大島郡へ来ると何れも小型になつて来、特に女が農業を営む家では幅三寸をこえる鍬はきわめて少くなる。幅五寸、長さ約一尺の鍬にのる土の量は普通五合余であるが、幅三寸の鍬にのる土はその半分に達しない。五合の土は通常二百七十匁であるが、小型の鍬ではその半にすぎない。すると一日の耕作能力は後者は前者の半分と言う事になるが、そればかりでなく耕土も自ら浅くなる。かくて鍬が小さくなると言うだけで、それが作物に及ぼす影響はきわめて大きい」(久賀町誌編集委員会1954:143)。
1926年の久賀町の自作地は201町、小作地は277町、1938年の自作地は272町、小作地は219町となっている(同前:301)。出稼ぎや農産物の増産によって次第に土地を買い入れ自作化するようになってはいたが、それでも農家の自立は難しかった。この問題を一応解決したのが戦後の農地解放とされている。
1946年、戦前までの地主制度を改め、自作農を中心とする民主的な農村社会を形成するために、自作農創設特別措置法が制定され、併せて農地調整法が改正された。これにより、不在地主の小作地全てと、在村地主の小作地のうち一定の保有限度を超える分は国が強制買収し、実際に耕作している小作人に優先的に低価格で売り渡すこととなった。農地の強制移転に重きをおいた、いわゆる第二次農地改革である。
旧東和町の場合は町内に大きな地主がおらず、農地改革は比較的スムーズに行われた。1946~1948年に解放された農地は、耕地面積857町のうち63町で、全体の約7.4%に過ぎなかった。しかも、そのうち47町余は畑だった。畑を持っている者は畑百姓と称され、幕末の頃から出稼ぎにいき、後には家族を連れて出ていたため、不在にしている者が多かったのである。不在地主といってもせいぜい1反内外の土地を持つに過ぎず、それが不在であるために解放しなければならなかった。また、在村地主でも耕地所有面積5町を超える者は少なく、せいぜい2町余だった(宮本・岡本1982:802)。解放された農地は都合717戸の小作人の手にわたったが、小作人といっても出稼ぎ者の家族が土地を借りて作っている程度だった。一方不在地主は347人いたが、その者たちは親戚や知人に土地を預けて他出していたのであり、その所有地を除くと、在村地主の農地の解放は解放面積の半分にも足らなかった(同前:832)。
旧久賀町の場合は1947~1950年の間に田51.6103町、畑18.9628町の計70.5801町が買収され、そのうち不在地主の小作地は19.5928町、在村地主の小作地は42.4129町だった(久賀町誌編集委員会1954:402)。農地改革の結果、農家は高額な小作料によって縛り付けられることがなくなり、労働の成果を公正に享受できるようになった。
しかし、農地改革によって不在地主による土地所有が禁止されたが、それは反面、農家をその土地に縛り付けることにもなった。それでは農家にとっては真の解放にはならないため、宮本はこれを「新封建主義」と呼んで農家と農地の関係の是正を呼びかけた。宮本は1961年5月31日の『中国新聞』に次のように書いている。
「農地解放に対する本当の対策はちっともなされないで、ただ解放せられることに大きな危惧を感じたのである。農地が解放せられるからには土地改良とともに交換分合がなされ、耕地の集団経営も考えられていいことだし、もっと大事なことは農業を企業的経営に高めるための対策がとられてよいはずであった。そしてまた当時そうした意味でのよい芽も一方にのびようとしていたのであるが、それを育てる政策はみられなかった」(宮本2013:242)。
農家の経営の根本問題は、その小規模零細性にあった。その本質は農地が解放されても変わらなかった。農業を近代化するには、そこからの解放が何よりも必要だった。
小規模零細経営と近代化の遅れ
1920年に発行された『大島郡大観』には「平均せる富力...天下に誇るべきこと」として次のように書かれている。
「本郡の富力を研究調査して、尤も快心を禁じ得ないのは、富力の平均である。優れて貧乏人もない代りには、優れて富豪もない、八万余人の民衆が、殆んど平均せる富力を有して居ることである」(小澤・村上1920:104)。
同書では1916年の大島郡の田畑所有規模を示している。それを整理すると下表のようになる。これによると、1町未満、特に5反未満の田畑の所有者が非常に多かったことが分かる。この層が大島郡では中堅をなしており、「五千戸以上の中産階級がある、富の平均に於て、天下に誇り得べしと断ずるに何の誤りぞ」とされている(同前:105)。しかし、それにしても1戸当たりの農家の経営は小規模であったといわねばならない。
| 所有規模 | 田地 | 畑地 |
| 5反未満 | 5,610人 | 9,603人 |
| 1町未満 | 940人 | 449人 |
| 5町未満 | - | 252人 |
| 10町未満 | 9人 | 1人 |
| 10町以上 | 7人 | 4人 |
1959年に発行された『周防大島町誌』によると、旧大島町の現在農家数は2,251戸で、1戸当たりの耕地面積は平均4.5反とされている(大島町誌編纂委員会1959:482)。なお、農家が生計を営むうえで必要な耕地面積は1.6町、少なくとも1町が必要とされている。このことについて、同書では「本町における三反未満三六パーセント、五反未満二五パーセントは、あまりにひどすぎる。つまり耕地が極度に細分化され、その結果、農業が独立した職業としての意味を失いつつあることを物語っている」と書かれている(同前:483)。実際に、当時大島町では、専業農家39.7%、第一種兼業農家20.7%、第二種兼業農家39.6%で、約60%の農家が副業化していた(同前:483-484)。
先の記事でみたように、旧東和町の場合、農家1戸当たりの水田面積、及び全耕地面積は旧大島町よりもさらに少なかった。零細経営であることによって動力化も著しく遅れていた。このことは二つの町誌を読み比べてみても分かる。前掲の『周防大島町誌』には、旧大島町の場合、「最近は苗代管理と田植えが昔どおりであるだけで、畜牛は自動耕耘機に代り、草刈りの荒肥は厩肥や藁程度となって金肥を多く使い、中耕除草も四、五回が一、二回となって二四Dの除草剤を使い、稲刈りは自動稲刈機に、稲干は乾燥機に、籾脱穀、籾摺は動力となって、手ぎわよく運び、相当の規模であるときには一反につき一、二日前後にまで縮められた」と書かれている(大島町誌編纂委員会1959:520)。これに対し、『東和町誌』によると、旧東和町では1955年でも町全体で動力耕耘機は僅か4台しか入っておらず、牛が300頭余りもいて、牛に犂を引かせて田を起こしていた(宮本・岡本1982:894)。宮本は1959年6月に自家の田を写真に撮っているが、そこでも牛に犂や馬鍬を牽引させている様子が見える。
一戸あたりの経営面積が狭く、小規模零細な経営であるため、農具の発達も遅れた。このことは、集められた民具にも露見していた。東和町では1976年頃から宮本の指導で、青年団が中心になって民具が収集されていたが、その民具に対し、宮本は『東和町誌』のなかで次のような観察をしている。
「農耕具なども精度の高いものが使用されることはほとんどなかったようである。民具を蒐集してみると集まった犂はほとんど短床犂であったが、それも初期の簡単なもので双用犂や二段耕犂などは一台も出てきていない。これは経営面積が少なくて、精度の高い農具を必要としなかったからであろう。そして犂の型の種類はきわめて少ないのである。脱穀機も廻転式の足踏み脱穀機がほとんどで、動力脱穀機は入手することができなかった。廃棄したものもあるだろうが、絶対数が少なかったものと思う」(宮本・岡本1982:894)。
宮本はまた、1980年3月に旧東和町で「郷土大学」を設立し、その第1回講義を行うなかで、収集された民具について次のように述べている。
「あれだけ集めてみると、東和町という町の性格が実にはっきりと出てくるわけです。驚くほどはっきりでてきています。そのはっきりでてきておるのが、今の我々の日常生活にそのままつながっているからびっくりするわけです。集めるまではわからなかった。集めてみまして、例えば短床鋤はでてくるのですが、長床式の二段鋤なんてのはでてこないのです。そこで、ピタッと止まっているのです。みんなワッとそこへゆく、その以前のもない、それだけなんです。古いものはみんなこわして、それ一色なんです。そういう一色になるような性格は、こんどは山を全部みかんにしてしまいました。それと同じことを今皆がしている。誰かそれを乗りこえて新しいものをつくるというのは、なかなか容易に生まれないんです。農具を見てみますと、東和町の農具はそのまま東和町の人間の性格を如実にものがたってくれているんです。それをこれから破らなくては、いい町はつくれないんだという感じが私はするのです」(宮本1989:37)。
民具を通してそこに住んでいた人びとの気風までを読み取ろうとしていたことがうかがえる。そして、東和町民の気風は「変わり身の早さ」であり、それが出稼ぎと相まって文化を進める力になった反面、現在では離村移住を促したと指摘している(宮本・岡本1982:927)。
旧東和町で動力農具が発達せず、農業の近代化が著しく遅れた要因として宮本が繰り返し指摘しているのは、農道の不備である。『東和町誌』では「大島郡中もっとも農道の発達のおくれているのは東和町であり、いまも自動車道の通じていない耕地を持つ谷がほとんどである。[中略]農道の発達のおくれが、町の農業の発達に大きな障碍となり、ひいて離農をうながし、さらに離村現象を大きく促すことになるのだが、昭和五五年現在ではまだそれらについての具体的対策はたてられていない。そしてそれが農業後継者を消していったのである」と述べている(宮本・岡本1982:770)。動力耕耘機が増えてくるのは1960年以降、ミカンの植栽が進んでからだが、農道が狭いため、それらは本来の耕耘用としてではなく、運搬用として用いられることが多かった(同前:894)。
もっとも、農道の改修がそれまで全く行われていなかったというわけではない。宮本の郷里では戦前からミカンの植栽が進められたが、それは農道の改修により、山奥の畑までリヤカーが通ずる道が敷設されたことが大きかった。宮本は『民間伝承』第13巻第3号に発表した「収穫日記」のなかで、1948年11月14日に行った農作業について次のように書いている。
「今日は稲こきをする。朝早くおきて一家総動員で堂免へ出かける。堂免は山奥の田、家から三十分近くかかる。三尺ほどの道がついて居るので小型の車は通る。この道の改修は十五年前の事であつた。それまでは細道でオイコで背負うか、オーコでかつぐか、たまにはネコグルマという一輪車による外なかつたのだが三尺幅の道が出来て見ると、車が通ずるようになり、運搬がらくになるとかなりの山奥まで蜜柑が植えられるようになつた。耕作風景がこんな事でかわつて来る」(宮本1949:23)。
戦前の農道改修の効果を身をもって知っているだけに、宮本の目には農道の不備が農業の発展を阻む一大要因として映ったのだった。農業が転換すべき時にスムーズに転換し得なかったのは、農道の改修が先行していなかったことに原因があると宮本はみていた。
以上、ここまで5回にわたって周防大島の農業のあゆみを振り返ってきた。かつては島の広い範囲で稲作が行われていたが1960年代からミカン栽培への転換が本格的に進み、現在は島の西部を中心に限られた地域でしか稲作は行われていない。島の東部では本来的に稲作よりもイモ・麦を主とする畑作が盛んで、山の上部まで段畑がひらかれていたが、現在は耕作放棄が進んでいる。
総じて周防大島の農業は、山がちな地形と狭い耕地、相対的な水不足を背景に、切実な自給自足の手段として、また外部経済につながるための現金獲得の手段として、柔軟にかたちを変えながら行われていた。そこには様々な技術伝承や体験を生み出す素地があったといえる。この点を筆者は聞書きというかたちで記録するために、現在島内の各地でフィールドワークを進めている。その成果は別の機会に報告することにしたい。(つづく)
引用参考文献
・大島町誌編纂委員会1959『周防大島町誌』、山口県大島町役場
・小澤白水・村上岳陽1920『大島郡大観』、大島新聞社
・久賀町誌編集委員会1954『山口県久賀町誌』、山口県大島郡久賀町役場
・宮本常一1949「収穫日記」『民間伝承』第13巻第3号、民間伝承の会、20-24頁
・宮本常一1989『郷土の歴史とは何か―東和町・郷土大学講義録―』、山口県大島郡東和町
・宮本常一2013『宮本常一短編集 見聞巷談』、八坂書房
・宮本常一・岡本定1982『東和町誌』、山口県大島郡東和町
