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宮本常一と農業 その4 周防大島の農業③
宮本研究|2025年11月14日|板垣優河
農地改良事業
周防大島の稲作の歴史的変遷については、すでに土井彌太郎が「大島郡学術調査報告5」として詳細に書いている。以下のレビューも土井の仕事によるところが大きい。土井は島の稲作の全体的傾向として、「小面積に多数の人口を包容し、経営規模甚だ小さく、さながら日本の縮図をなしている」と指摘している(土井1955:220)。
近世の農業の技術的・経済的側面については別の機会にふれる予定なので、ここでは詳述しない。ただし古文献を参照すると、近世の農業技術は、筆者が聞取り調査の対象にしている昭和30年代のそれと大きな差がなく、むしろ忠実に伝承されていると思える部分が多いこと、また米麦以外に藍や棉などの換金作物はほとんど栽培されておらず、農業技術を高度に専門化させるよりも、その余力を副業や出稼ぎに注ぎ込む傾向が強かったことは指摘しておきたい。
さて周防大島では、農作業の効率化と米麦二作の増産を目的として、明治30年代後半から水田の耕地整理や暗渠排水工事が行われるようになる。これにより、湿田が乾田に改良され、牛馬を使っての犂耕や裏作が可能になったところが多い。宮本家が小作していた田でも1923年に暗渠排水工事を行っている。
農地改良事業にまず着手したのは、蒲野村三蒲である(写真1)。その経緯と結果については『周防大島町誌』に詳述されている(大島町誌編纂委員会1959:630-633)。三蒲には屋代に次ぐ広い平坦可耕地があったが、水田の大部分は湿田で、しかも各田は狭く畦畔は屈曲し、不整形だった。そこで1902年からの耕地整理によって60町余りの農地を改良した。その結果、従来米の反収平均が1.3石に過ぎなかったのが、整理後は2.6石と倍増し、また裏での麦作が大々的に可能になったことで、麦の反収が0.3石から1.4石まで増えた。かつては湿害のため米麦の品質が悪かったが、整理後は品質が向上し、市価が1~2割上昇した。さらに、灌漑排水が可能になったことで肥料の分解効率が上がり、緑肥の栽培をする者が増え、金肥の節約になったという。

この三蒲の耕地整理を嚆矢とし、大島郡の各地では明治後期から大正前期にかけて耕地整理が推進される。1922年までに行われた郡内耕地整理の面積は373町、そのうち屋代・小松連合による小田・和田・中田・手崎の整理は91町余りに及ぶ広大なものだった。いま小田口には「耕地整理竣功記念碑」が立っている(写真2)。そこには次のように刻まれている。
「大島郡屋代村小松町一帯ノ地ハ郡中唯一ノ平坦地ナルモ概ネ湿潤ニシテ田疇錯雑シ道路水路ノ配置モ亦其ノ当ヲ欠キ耕耘実ニ困難ナリ茲ニ明治四十五年三月関係地主耕地整理組合ヲ設ケ同年十二月工ヲ起シ爾来幾多ノ困難ヲ経テ大正六年一月遂ニ工ヲ竣ム整理面積九一町余歩工費二万四千七百余円ナリ今整理ノ現状ヲ見ルニ道路水路完備シ田疇整然先ノ湿田ハ肥沃ノ乾田ト化シ労力ヲ減省シテ収益増加真ニ利益ノ顕著ナルハ讃嘆ニ堪エザルナリ是啻ニ一郷富力ノ発展ノミナラズ洵ニ邦家永遠ノ慶福ナリ今次本組合ハ碑ヲ建テ以テ之ヲ後ニ伝ヘントス因テ文ヲ予ニ求ム世欣然其ノ概要ヲ記スト云爾[/]大正七年七月 農商務技師正七位柳井忠夫撰」(大島町誌編纂委員会1959:634)。
このような耕地整理によって、湿田が乾田になり、それまで鍬を使って人力で土を起していたところが、牛に犂を引かせて耕起できるようになったものが多い。なお、耕地整理に際していま一つ重要な要件は、土畔を石垣畔にすることである。久賀の石工はこの時期最も活躍し、郡内に留まらず、県下県外の各地で仕事をしたという(宮本・岡本1982:779)。
農業技術改良
次に農業技術改良として、1903年10月に農商務省諭達として農会に実行させる14項目が示された。これを受け、山口県知事は翌年12月に、①米麦種子の塩水選、②麦黒穂病の予防、③集合又は共同苗代の設置、④稲正画植、⑤堆肥の改良及び緑肥の栽培、を県の必行事項として極力その貫徹を図るよう各郡市長宛に訓令し、県吏員を派遣して指導督励した。これにより、1912年には大島郡では種籾塩水選が97.4%(山口県91.4%)、正条植が100%(山口県99.6%)で実施され、共同及集合苗代も34.4%(山口県9.7%)で実施されるようになった(土井1955:198-199)。
宮本は『東和町誌』のなかで、県が必行事項として定めた上記5項目について解説している(宮本・岡本1982:776-777)。再説すると、まず①は四斗樽の中に水とともに食塩を入れて水の比重を大きくし、その中へ種籾を入れる。すると実入りのよくない籾は浮くので、これを捨て、実入りのよい籾だけを蒔くというものである。②は麦の穂が出たときにすぐに抜き捨てる方法と、麦種を冷水に浸け、さらに風呂湯に一夜浸けておく冷水温湯浸法がある。③を奨励したのは、螟虫の蛾や卵の防除に効果があるからである。さらに苗床と苗床の間に溝をつくり短冊形の苗代にすることで、害虫の除去や水の管理が容易になった。④は正条植えともいう。これについては後述する。⑤のうち堆肥の改良は、牛の厩肥を堆肥小屋に積みなおしたり、刈り草をこれに混ぜたり、下肥を用いて発酵させたりしたもので、田のほとりに堆肥小屋を設け、そこに堆肥を積むようにした。緑肥の栽培というのは、稲刈り後の田で麦を作らない場合、稲の肥料にするためにレンゲを作ることである。
ところで、1960年代後半に慶友社では『民具辞典』の刊行が計画され、宮本は住用具と農具の項を埋めるべく執筆を進めていた。残念ながらこの計画は結局立ち消えになるが、宮本の執筆分は日本観光文化研究所の『研究紀要』4で「民具解説抄」として印刷に付されている(宮本1983)。宮本常一記念館で保管しているその原稿(文書3-3/0020/00/01/00)を確認すると、④の正条植えに使用する「ミズナワ=水縄」(写真3)については次のように書かれている。
「田植をするとき稲株をきちんと碁盤の目のようにそろえるために用いる縄である。日本の稲作は田植をおこなう方法をとっているが、明治□□年までは乱れ植といって縦横の植株をそろえることなく、適当に植えていったもので株間は広狭が一定していなかった。それでは中耕除草にも不便で、いわゆる正条植が奨励せられることになる。それにはまず縦縄を1本張り、それに沿うて横縄を直角に張る。横縄は一定の間隔にしるしがつけてあり、そのしるしのあるところへ稲を植える。しるしとしるしの間隔は広いものは35cmくらい。狭いものは20cmくらいある。これによって田打車や八反どりのような農具を用いることが可能になり、大いに能率があがった。しかし田植のときは一条植えると縄を移動させて次の条を植えねばならぬので時間がかかる。そればかりでなく水縄を移動させなければならないために仕事のリズムが断ちきられる。それがそれまで盛んにうたわれていた田植歌を歌えなくしてしまう。またミズナワも一回一回ひきかえるとき早乙女たちは植える手をとめなければならないので不便であるとして植定木や植枠が用いられるようになった」。
ミズナワの導入が田植えとその後の除草作業の能率をあげ、一方で伝統的な田植歌を消していったとする。民具を媒介にして、農業技術の変化が実に連鎖的に説明されている。
さて、以上のような農業技術改良によって、農作業の方では除草や害虫駆除に係る労力は大きく節約された。さらに大正に入ると、輪転式稲扱機(足踏み式脱穀機)が導入され、調整作業の能率も上がる(写真4)。久賀の場合、最初に輪転式稲扱機が導入されたのは1914年で、1916年には数十台に増えている。宮本は『山口県久賀町誌』のなかで次のように述べている。
「輪転式稲扱機の農耕に与えた影響は大きい。稲扱時間がうんと短縮せられたばかりではない。もと稲の一把は大きなものであり、稲扱の時又その束をといて一握宛とつて穂先をひろげ千歯にかけてこく。藁は再び束にする。そうでない場合は束にしないままに地干にして扱く。之は持ち運びに困難である。輪転式が出来てから、やや小束にして、そのまま機械にかけられる程度とした。之によつて束をとく必要がなくなつたばかりでなく乾燥にも便利で、地干が主であつたこの地帯に掛干が一般に行われるようになつて来た」(久賀町誌編集委員会1954:140)。
さらに、明治後期から大正にかけて、大豆粕・石灰・化学肥料の施用や品種改良等もあり、周防大島の稲作は顕著な高収量をあげ、全国平均及び山口県平均を優に凌ぐようになる。しかし昭和に入ると山口県平均と同程度になり、全国平均よりも下回る(土井1955:216)。その原因として土井は、「旱害、潮風害、虫害等の各種の災害の波状攻撃、戦争による労力資材の不足も勿論挙げられる。然し一歩深く反省するとき、化学肥料偏重による土壌有機物の不足や土壌の老朽化、裏作の発達に伴う養分の消耗等水田地力の低下を無視することはできない。更にまた兼業農家の増加でも窺知されるごとく、土にしがみついた懸命の奮闘努力が次第に弱体化しつつあることを憂慮するものである」と述べている(同前:220)。
兼業農家の増加、その背景としての小規模零細経営は、農業の近代化を阻害する大きな要因となっていた。
(つづく)
引用参考文献
・久賀町誌編集委員会1954『山口県久賀町誌』、山口県大島郡久賀町役場
・大島町誌編纂委員会1959『周防大島町誌』、山口県大島町役場
・土井彌太郎1955「山口県大島郡の稲作 第1報 稲作の変遷(大島郡学術調査報告5)」『山口大学農学部学術報告』第6号、山口大学農学部、191-228頁
・宮本常一1983「民具解説抄」『研究紀要』4、日本観光文化研究所、3-97頁
・宮本常一・岡本定1982『東和町誌』、山口県大島郡東和町
