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昭和14年中国地方調査ノート その25 山棲みの人びと④
資料紹介|2025年10月10日|板垣優河
サンナイモノ
前回の記事では、宮本が作成した中国地方の調査ノートによって、当地方の砂鉄産業の操業形態について見た。今回の記事では少し視点を変え、その操業に携わった人びと、即ち経営者と従業員について見ることにしたい。
宮本は広島県大朝町(現北広島町)でタタラに携わった者について次のように聞いている。「ムラギノ姓ハ、タタラノタイシヨーデアツタ。[/]家ノ名ガカジヤトイフ[モノ]アリ。モトカジヤヲヤツテイタ。[/]ズクヲタイテ、マタノベガネニシテイタモノ。[/]カジヤモノトテヒゲシテイタ。テンテントアルイテイルカラ。タタラモノモオナジ」(板垣編2025:19)。
大朝周辺は中国山地でも有数の砂鉄地帯で、砂鉄の採掘と精錬が盛んに行われていた。タタラの経営者を「ムラギ」といったが、それを姓にしている者がおり、また鍛冶屋をしていたことから「カジヤ」を屋号にする者もいた。しかし、そうした者を村では「タタラモノ」や「カジヤモノ」と称して軽蔑する風があったという。
また、広島県八幡村(現北広島町)では次のように聞いている。「モトタタラフキヲシタ。[/]キツカハラ[木束原]ノヒノキダニ[桧木谷]ニ、タタラバアリ。[/]コーツナギニモアリ。トノサマノケイエイデアツタ。[/]カケノスミヤガオトノサマノノチヲウケタ。[/]元文二年、凶作デハンマイナクテ、山県ノ庄原ノ香川ヘシチニイレタ。[/]ソノ時、ヒジリ山ノカジヤノスミガタラヌトキハ横川ノ山ヲキツテ、スミヲヤクカモシレヌトイフ。[/]村人ハズクヲハコブノガフクギョー。[/]バダイトイツテ金ヲクレテ、ソレデ馬デハコンダ。[/]ソレガウンパンノ大フクギヨーデアツタ」(同前:41)。
タタラバはかつて広島の殿様の経営だったが、元文2(1737)年の凶作で経営が成り立たなくなり、都谷村庄原(現北広島町)の者へ質入れした。地元の者はズクの運搬を副業にしていたという。また、「タタラ、カジヤハヨソノモノデ、サンナイノモノトイツタ」とも聞いており(同前:42)、ここでもやはり砂鉄産業に携わる者を軽蔑する風があったことが分かる。
八幡村では炭焼きも盛んに行われていた。宮本は「コノオクノ中ノ甲山デハ今300人ノ人ガハイ[ツ]テ木ヲキツテ、スミヲヤイテイル。コノスミハ加計ヘ出シテ製テツニツカフ。[/]中ノ甲デハムカシタタラヲ吹イタ。ソノカナクソヲ、今又フキナオシテイル」と聞いている(同前:34)。樽床周辺ではタタラの操業が止まって久しかったが、戦争が始まると復活した。今度は山中にタタラバを設けるのではなく、加計町(現安芸太田町)に製鉄所を設けた。中ノ甲山には300人も入って木を伐り炭を焼き、またかつての鉄滓を吹き直したという。
島根県匹見上村三葛(現益田市匹見町)は、村内婚によって村を維持していたところだった。宮本は同村の婚姻関係について次のように聞いている。「三葛ハ村内婚デアツタ。[/]イトコ同士ノケツコン多イ。イトコハ、ケツコンシナケレバナラヌヨーニオモツテイタ。全部トイツテヨイ位デアツタ。[/]ヒノキ谷ノタタラ師ハ、ヒノキ谷ト姓ヲツケタガ、コノ仲間トケツコンシナイ。タタラニハ、ヒノキ谷ガ多イ。[/]木地屋ニシテ平家ノ末孫トイフ。キジヤ血統トイツテイル。[/]結婚ハ一般ニキラハレル」(同前:63)。
三葛での婚姻はもっぱら村内で完結し、他所から来た者と結婚することはほとんどなかったという。また、木束原の桧谷(現北広島町)には桧谷の姓を持つタタラ師が多かったが、彼らとの結婚も嫌われていた。そのほか、「広島カラロクロシガ来ル。モトハイツクシマカラ来タモノ。[/]ロクロシハ、ライビヨーヤミデアツタトイハレテイル」とあり(同前:60)、彼らも嫌われていたようである。
山棲みの人びと
砂鉄産業では、砂鉄を採取するためのカンナ掘りやカンナ流し、砂鉄を銑鉄にするためのタタラ、銑鉄を鋼鉄にする鍛冶、炭焼き、さらには荷運びなど多岐にわたる作業があり、それだけに多数の人びとが関わっていた。このうちタタラや鍛冶は特別な技術を要するため、専門化する傾向があった。これを行う者は「サンナイモノ」などと呼ばれ、農地を持たず、燃料にする木があるところを求めて山から山を渡り歩くため、農地を持って自活していた農家からは特別な目で見られ、歓迎されることが少なかった。
ところで、昭和34~37年に宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代巴を監修者として無記名方式で執筆されたシリーズに、『日本残酷物語』(全7巻)がある。その第2部「忘れられた土地」に収められた「消えてゆく山民」では、広島県比婆郡高野町(現庄原市)の奥三沢という鍛冶屋が定住したとされる集落の話が出てくる(平凡社1960:177)。宮本は『山に生きる人びと』のなかで奥三沢を調査した時のことを書いている(宮本1964:137)。また砂鉄の採取と精錬のことが書かれているが、その内容は前回の記事で紹介した調査ノートの記録とも概ね符合する。したがって、「消えてゆく山民」は宮本による執筆と推定することができる。
さて、その一節には次のような記述がある。「一般にどこでも鍛冶屋、タタラの仲間は百姓の中へは吸収されにくかった。かりに百姓になっても小作をするのがオチで、耕地をもつ力のある者はなにほどもなく、まして山林はもってなかったから、村の中でも最下層にいるよりほかない。所詮はまたいついたところを捨てねばならぬことが多かった。[/]かりに定住したとしても百姓だけでは食えず、他人から炭材を買って炭焼をするか、または焼子にやとわれるかであった。また群をなして定住したようなところでは、箕をつくり、蓑をあみ、藁細工などして生活のたしにした。こうした村の人々が、農家のものをぬすんだり、農家へつけ火をしたりした話は多かったが、それはこのような生活が背後にあったためである。ぬすみやつけ火は、サンカといわれる人々にも多かったようである」(平凡社1960:180)。
砂鉄掘りの旦那家には敗戦の落人と称する者が多く、彼らは集落がある盆地から谷を奥深く入り込んだところに孤立的に、しかし堂々たるカヤ葺きの家を構えて暮らしていた。彼らは山林が減少して水田が増大すると農業に転じ、地主として成長することができたが、その下にいてタタラに従い、炭焼きをしていた者は、タタラが止んでもその土地に留まらざるを得なかった。それでも農業のみでは生計を立てることができないので、箕や蓑、箒を作り、春先になると里の村々に売り歩いていた。
そのような人びとはしばしば特殊視されたが、漂泊する方にも漂白しなければならない背景と理由があったのである。
宮本は、定住的な稲作農耕民に対し、その外縁にいて狩猟や漁撈、畑作などを営む人びとを流動的な存在とみなしていた。そして前者が生産の主座につくことによって統一ある文化が生まれ、国家が形成されてくると理解しつつ、後者が日本文化の形成に果たした役割も見逃してはいなかった(板垣2025:2)。『山に生きる人びと』(宮本1964)は、そうした存在に焦点を当てた著作として読むことができる。さらに、昭和14年の中国地方の調査ノートは、宮本の山村文化論のもととなった記録として読むことができる。(つづく)
引用参考文献
・板垣優河2025「宮本常一と縄文文化―食の問題を中心に―」『京都府立大学考古学論集―考古学研究室30周年記念―』(京都府立大学文化遺産叢書第34集)、京都府立大学文学部歴史学科、1-12頁
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・平凡社1960『日本残酷物語』第2部
・宮本常一1964『海に生きる人びと』(双書・日本民衆史3)、未來社