宮本常一記念館

学芸員ノート

018

昭和14年中国地方調査ノート その17 親方の役割①

資料紹介|2025年8月15日|板垣優河

高根村向垰の山田家

宮本は昭和14122日から3日にかけて、山口県玖珂郡高根村向垰(現岩国市錦町)の美島清一に話を聞いている。先の記事(「昭和14年中国地方調査ノートその2」)で紹介したように、美島は高根村の庄屋を務めた山田家の出で、村助役から自彊会長を務めた人である。山田利右衛門(美島の祖父)は三分一健作(山代宰判の大庄屋)とはかって金山谷(現島根県鹿足郡吉賀町)から灌漑用水路を開削する工事を起こし、それが明治初期、山田勝次郎(美島の父)の代に完成したことによって高燥な平坦地上にも水田が作られるようになった。勝次郎はまた、勤倹貯蓄組合を作って人々を加入させ、金は自らが預かって高利を付してやった(後述)。勝次郎の後を継いだ山田武作(美島の兄)も、税金が納まらない場合は立て替えたりしていたが、そのために借財を抱えてしまった。武作の後を継いだ美島は自らの財産を投じて兄の借財を整理し、結果無一物になったという。宮本は彼らについて、「いわば村民のために倒れたのである。これほど大いなる犠牲はなく、これほど大いなる貢献はないであろう。じつに三代に亘る村政尽酔は更めて考え直されてよいことであった。向垰の部落は山田氏を抜きにしては考えられぬ」と述べている(宮本1976:190-191)。

村長・親方・地主・指導者

 このように山田家が村に貢献したのは、彼らが単なる村の長ではなく、親方として、向垰の大半を子方に持っていたからである。ここでいう親方・子方の関係は、一般にイメージされるような隷属的なものではなかった。親方が子方を使役することもあれば、子方が親方に甘え、頼るような一面もあった。その点で、山田家は向垰という「家」のまさに「親」のような存在だった。

 調査ノートには、山田家と村人の関係が次のように記されている。「山田氏ハ庄ヤデ、子供ノコロニハ戸グチデゾーリヲヌギ、ニハハハダシデアルキ、ザシキニアガルトキ、アシヲテヌグヒデハラツテアガツタ。[/]ミチバタデ人ニアウテモ、ムコウハテヌグヒヲトリ、ハダシデアルイタ。[/]正月マヘニナルト、ジウバコヘ色々ナモノヲ...10日クライマヘカラモノヲツメル。正月ノアサ、村人ガアイサツニ来ル。スルト、ソノジウバコヲ出シテ、カンシヲシタ。[/]仕事モ夜ヤガクヲヒライテ、ベツソーデ人々ニ色々ノコトヲオシヘタタメモアルガ、学生ガコーゾヲ刈ツテクレタリ、又木ヲ出シテクレタモノデアル。[/]オヤジハ庄ヤカラ戸長、村長ニナツタモノデ、田ナンカハ多ク小作ニ附シテアツタ。旧クハ田モツクツタモノデアル」(板垣編2025:94)。

 村人が山田家を訪問する際は戸口で草履を脱いで土間を裸足で歩き、座敷に上がる時に足を手拭で払った。また道端で山田家の者に遭うと、手拭を取り、裸足になって挨拶をしたという。正月には村人が挨拶に来るので、山田家では重箱に色々なものを入れて準備した。また夜学をひらいて村人を勉強させていた。

勝次郎はもともと田を自作していたが、庄屋から戸長、村長に就任したことで田を作る余裕がなくなり、村人に小作させるようになった。この点について調査ノートには次のように書かれている。「モト小作料ハ20俵デ、134俵小作料ヲモツテ来タ。[/]ソレカラ四分六分、次ニナカオレニナリ、今コンノーハヨーセンカラ、イネデトツテクレニナリ、今ツクツテイレルダケニナツタ。[/]今田ガ多スギテコマル程。[中略]コノアタリ一タイノ土地ハミナ、山田氏ノモノデアツタ。[/]山田氏ノコサクガ大半デアツタ。[/]父ガ清一氏ヲツレテ、インキヨスルコトニナツタトキ、村中ガワシノ方ヘ来ルダラウカト云ヒアツタ。[/]大体今自作ニナツテイル。純小作ハ少イ」(板垣編2025:97)。

 小作料(いわゆる加徴米)は、昔は20俵の収穫に対して1314俵、つまり6割半から7割だったが、これが後には6割になり、さらには5割になった。それも以前は脱穀調整した米を納めたが、後には稲を作るだけになったという。

ついでに、親方という呼称は田地の所有面積とも関係があったようである。広島県大朝町(現北広島町)では「デンヂヲ一町モツテイルノヲフツーヒヤクシヨー、三町以上ヲチユービヤクシヨー、之クライヲオイカツアントイフ。[中略]ハジメハ、アルキキンドシニ、ヒンミンニ米ヲ5合クライヤルカラ、オヤカタトヨンデクレトイツタノデ、オヤカタトイフヨーニナツタ。[/]メシツカヒニ米ヲ一俵ヤツテ、オヤカタトヨバスヨーナムキモアル。5町以上モツテ三代コセバ、ダンナトイフ」と書いている(同前:19)。「オイカッツァン」は「親方さん」が転訛したものだろう。一方、庄屋や名主のことは「ダンナサン」と呼んでいた(同前:19)。

また、調査ノートには次のように書かれている。「十ノウチ、六ツ位ハ[山田氏ノ]コブンデアツタ。[/]モトハ、テイスイガイニカゾクガシンガイナドヲモツテキテアヅケテオイタ。[/]一分半ノリシヲツケテ、セツキニソノタカヲイツテヤリ、イルモノハ手ニワタシテヤツタ。[/]田舎ノギンコーデアツタ。ソノ金ニ手ヲツケテ家ガタフレタ。[中略]山サカイノモメゴトヤ、不義ガアルト、コノ家ヘイツテ来タ。[/]サイバンヘモチダスコトナク、山田一家ガミナカタヲツケタ」(同前:96)。

 勝次郎は勤倹貯蓄組合を作って人々を加入させ、金は自らが預かって一分半(15%)という高利を付した。節季にはその高を述べ、金の要る者には渡してやった。まさに田舎の銀行だったが、大半はただ利子をつけてやるだけで、植林をする以外にその預金で事業を起こすことはなかったという(宮本1976:190)。さらに、村に揉め事や不義があると、山田家が一々さばいてやり、ある種の裁判所のような役割も担っていた。

以上でみたように、山田家はまず村の長として大きな勢力を持っていたが、同時に親方であり、地主でもあり、村の指導者的な存在でもあった。宮本は昭和54年に『読売新聞』に連載された「自伝抄―二ノ橋界隈―」で山田家のことに言及し、次のように述べている。「どのような僻地にも自分たちの住む世界を理想郷にしようと懸命になって努力し工夫している人がかならずいたもので、そういう人がまたすぐれた伝承者だったのである。民俗学という学問は単に過去の消えゆきつつある習俗を調査し記録していくものではなく、過去の生活エネルギーを現在を経て将来へどのようにつないでゆくかについてしらべる学問ではないかと思った」(宮本2002:181)。

 宮本が中国地方の旅で「感銘」を受けたのは、山田家のように村長・親方・地主・指導者を兼ねて村を良くしていった人びとだった。宮本はそうした人びとを民俗学の対象として重視するようになる。次回の記事では、村を一つの「家」とした場合に生じる仮の親子関係について、調査ノートに拠って分析していく。(つづく)

引用参考文献

・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・宮本常一1976『中国山地民俗採訪録』(宮本常一著作集第23巻)、未來社
・宮本常一2002『父母の記/自伝抄』(宮本常一著作集第42巻)、未來社

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