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昭和14年中国地方調査ノート その20 一人前の完成
資料紹介|2025年8月29日|板垣優河
一人前の完成
『風土記日本』(全7巻)という宮本常一・大藤時彦・鎌田久子を編集委員として無記名方式で執筆され、昭和32年~33年に平凡社から刊行されたシリーズがある。その第2巻になる中国・四国篇中の「庶民のめざめ」には「一人前の完成」という項があり、次のように書かれている。「生産エネルギーがほとんど人力のみにたよらねばならなかった明治以前にあっては、人間の価値の評価として一人前ということがやかましくいわれた。中国地方のように、農民の一人一人が小さいながらも独立した経営をおこない、人間の能力を尊重する気風のつよかったところにおいてはとくにそうであった」(平凡社1957:357)。同項ではまた、嘉永年間(1848~1854年)に書かれた周防大島の農家年中行事によって、当時の労働生産力がどの程度のものであったのかが示されている。その上で、「一人前の完成のために若者組や娘組の存在は大きな意味をもっていた。そしてそれはただ単に労働力の完成のみでなく、社会人としての訓練もなされたのであった」と述べている(同前:358)。
確たる証拠はないのだが、この部分は宮本による執筆ではないかと筆者は推察している。宮本は同じ頃『郷土研究講座』第5巻に「村の教育」という文章を書き、その中で「一人まえの完成」という項を設け同様の説明をしている(宮本1958a)。この文章は昭和36年刊行の『庶民の発見』にも収められている(宮本1961)。『風土記日本』第2巻の前身になった宮本の単著『中国風土記』にも「一人前」の項が見える(宮本1958b)。さらに、宮本が作成した中国地方の調査ノートを紐解くと、若者組や娘組に関する記録が散見し、宮本がこの年齢階梯的な組織に早くから注目していたことがうかがえる。
一人前ということ
前回の記事で紹介したように、広島県八幡村(現北広島町)には同行(講内とも)という地縁組織があり、人が亡くなった際の香典出しや葬儀の世話、屋根の葺替え、火災後の見舞い、新築建材の提供などを相互扶助的に行っていた。さらに同行による共同作業として、道路掃除があった。調査ノートには「ドーロノソージハ、一戸イクラノコトガキマツテイル。[/]一戸ノブハ2人。ソノ他ハザイサンニオージテ、トーキウヲキメ、一戸20人分位ノガアル。[/]村ノウチデユキガ多イトキハ、近隣ノモノデミチフミヲシテ、トナリ村マデイツタ。サウイフトキハ病人ガアルトキ」と書かれている(板垣編2025:49-50)。道路掃除をする際は1戸2人ずつ出ることにし、雪が降ると隣村までミチフミをした。その他の共同作業には財産に応じて割当があり、多いところでは20人分くらいを出す家もあったという。
ここで問題になるのは、一人前をどのように考えるか、ということである。調査ノートには一人前について「幼年ノ時ハ、タトヘ三ツデモ、ソレヲ一人マヘニ見テヤツタシ、又女ガ出テモ、一人マヘニミテヤツタ。[/]シカシ、フツーノ時ハ、女ハ一人マヘデハナカツタ」とあり(同前:49)、同行の作業に関しては年齢的な高低はあまり問題にされなかったようである。ただし、通常女性は男性よりも低く見られる傾向があった。前回の記事で紹介した山口県高根村向垰(現岩国市錦町)の自彊会記録でも昭和6年2月15日の協議事項に「農業仕事ハ賄ヒ付キ男米二升、女米一升ト定ム」とある(同前:108)。男性と女性では労働対価にも差があったことがうかがえる。
次回の記事で検討するが、テマガエと称する家同士の労働力の交換が成立するには、一人前の相場を定めて村内で共有し、それをもとにして作業人員を確保する必要があった。例えば筆者が調査した周防大島の東屋代の場合、田植えは基本的に半日で済むように調整した。午前中の田植えをアサダ(アサウチダとも)と呼び、午後からの田植えをヒルカラダと呼んだ。1人が半日で植えられる面積は平均3畝とされ、それを基準にして人を頼んだ。例えば1反の田を植えるなら3~4人の人手がいる。3反植えるなら10人くらいを頼む必要があった。半日という時間的な縛りがあるので、植付け面積に対して植える人数が少ないと、当然ながら一人あたりの負担が増大し、文句が出ることになる。それは、田植えにおける一人前が村内できちんと共有されていたからこそ起こる問題でもあった。
一人が発揮できる能力の平均が分かっていれば、頼む方も「この作業をこれくらいの時間で済ますには何人来てもらえばよい」といった計算をすることができた。また、そのためには各人の能力が一人前に達していなければならず、かつ周囲からそれが認められている必要があった。実際に、そうした行事も各地に存在した。石川県河北郡英田村(現津幡町)では、5斗の米を単独で担えるようになると若者たちを招いて一樽の酒を出した。若者たちも2、3升の酒を贈って喜びの心を表した。これを「力酒」と呼んでいた(宮本1950:108-109)。これは力における一人前を祝う行事だった。
一人前の基準は村により、また内容によっても異なるが、宮本はだいたい次のように考えていた。「まず農耕について見てゆくと、田をうちおこして畝たてができ、肥桶をかつぎ、牛馬をつかうことができるようになれば一人まえで、一六、七歳になればその能力を持つ。[/]漁撈ならば、船の櫓を十分に押すことができ、曳網ならば大曳網をみんなにまじって腰と肩をそろえてひくことができるようになれば一人まえである。[/]女ならば、糸つむぎ・機織ができるようになり、着物をぬえるまでになれば一人まえであった」(宮本1961:179)。
これはあくまでも職業能力上の一人前であることに注意しなければならない。その訓練は主として家々において、親から子へと教導的になされていた。子は親の職業をつぐものとされていた時代には、こうした家々における職業訓練は学校教育以上に意義のあるものだった(写真1)。一方で、社会人として一人前になるには、親元を離れ、家の外で訓練を積むことが求められた。先の記事で紹介した仮の親子関係の形成も、一つには有力者の庇護を受けてその生活を安定させることに目的があった。しかし別の側面として、他家に出入りして仕事の手伝いなどもし、その家風を学ぶことによって村人として調和のとれた生活を送れるようにするという狙いもあったのである(宮本1961:184-185)。社会人として一人前になるには、次に述べるように年齢を同じくする集団に属しての共同作業や共同生活を早くから経験しなければならなかった。

若者組と娘組
宮本による中国地方の調査ノートには、若者組や娘組に関する記録が頻繁に出てくる。
島根県恵曇村片句(現松江市鹿島町)では「若連中」について次のように聞いている。「13デハイル。正月5日頃、ワカレン中ノトンドヤドデハイル。[/]カナイヲモラフト、タイ会シタ。[/]カシラワカイモン...2人位アツタ。[/]18マデエビス。[/]19...ナカイトテ、オヤカタドリヲスル。[/]ミヤヤドニナル。[/]フダンワカレン中ニハイルト、ジブンノ家ニハネナイデ、ワカモンヤドニネタ。[/]ヤドハ何軒モアル。[/]盆正月ニカスリシマ[絣縞]ノキモノヲセイボニモツテイツタ。[/]ヒカワ[簸川郡]ノ海岸、キタハマアタリニハ、ムスメノヤドガアツタ」(板垣編2024:56)。
片句ではまた次のようにも聞いている。「[娘宿ハ]チクミ[千酌]アタリニアル。[/]ムスメガヤドデネトマリシタ。[/]男トマリヤドガアツタ。友団トイツテイル。[/]人ノ家ノナヤノ二カイ、ベツザシキヲカリル。[/]ヤドハココロヤスイ家ヲタノム。[/]ヤドイリニキマツタ風ハナイ。1ツノ家ニ10人クライモトマリニイクコトアリ。ヤドオヤニ対シテ、盆正月ニワタヲ持ツテイツタ。[/]反物ナドモツテイツタ。[/]ヤドオヤハ、盆正月ニゴチソーシタ」(同前:66)。
上の記録によると、片句では男性は13歳になると若連中に入り、正月5日のトンド行事に加わった。そして18歳まではエビス宿におり、19歳になると親方取りをして宮宿に入り、結婚すると脱退したという。若連中に入ると自分の家には寝ないで若者宿で寝た。その宿のことを友団とも称し、10人くらいで寝泊まりをすることもあったという。さらに、周辺の村には娘宿もあったことが分かる。
島根県田所村鱒渕(現邑南町)では若者が「ネゴヤ」に泊まりに行く風があった。調査ノートには次のように書かれている。「家ノナヤノ二カイトカ、アイタコヤガアルトカリタ(ハイゴヤナドニ)。[/]モトハコトサラニツクツタモノモアツタ。[/]ソノコヤヘキマツテネタモノデナイ。[/]ダヤ[駄屋]ノ二カイヲアマダトイフ。スノコデフイテアルガ、ネゴヤニスルニハ板ヲヒイテアル。[/]ソノ家ニ若イモノガアルト、ジブンガソコヘ友ヲサソツテ来テネタ。[/]ワカイモノハ、ジブンノ家ニハネナイ風ガアツタ。[/]寺ノミドーヘイツテネタリシタ」(板垣編2024:93-94)。
鱒渕でも若者は自分の家では寝ずに、誘い合わせて家の納屋の2階や田に作った灰小屋、さらには寺の御堂などで寝たという。
広島県八幡村樽床(現北広島町)では「若連中」について、「キソクラシイモノハナカツタ。ワカレンチウハ、ケツコンノ時ハ松ヲウエルトテ、ニハサキヘカザツテ、オドリヲオドリ、ゴチソーニナツタ。[/]カグラヲアゲルトキニハ、若レンチウガセワヲシタ。[中略]オナイドシハ、ナカヨシニスルコト、シンルイ以上ニヤツテイル。[/]別ニギシキ的ニハナイ。アソビトギトイフ」と聞いている(板垣編2025:51)。樽床では若者同士で結婚を祝い合い、また村の祭事には若者が主体的に関わっていた。若者同士の親密さは親類以上であったという。村における年齢階梯制の強さをうかがうことができる。
山口県高根村向垰では「若連中」について次のように聞いている。「後セイネン会トアラタメル。今モセイネン会トイフモノアリ。[/]ワカレン中ハ17、8才デハイツタ。出ルノハ女房ヲ迎ヘル。[/]18才ノ正月ニハイツタ。[/]ワカイモノハ之トイフシゴトモシナカツタ。[/]品行方正ニスルトカ、手ノ足ラヌモノニテスケヲスルトイフヨーナコトヲナシタ。後道ノユキノケヲシタリ、夜マハリヲヤルヨウニナツタ。[/]サイシヨ、ワカレン中ハリンジニマヒヲヤリ、オドリヲヤルテイドノモノデアツタ。[/]若連中ハケツソクシテ、マツリゲンカヲヨクシタ。隣村ヘマツリヲ見ニイツテハ、ケンカヲシタモノデアル。[/]トシヨリモ若連中ノワルイコトハミノガシタモノデアル」(同前:108)。
向垰では18歳になると若連中に入り、嫁をもらうと脱退した。当初は品行方正にして人手不足の家を手伝うくらいだったが、後には道の雪かきや夜まわりをするようになり、青年会と改称した。このことからすると、若連中は若者たちの親睦・修養をはかる組織であるとともに、社会奉仕的な側面の強い組織だったと考えられる。村には若者が必要であり、実際に若者ならではの仕事が村には多かったのである。
さらに、『日本の民俗 山口』によると、周防大島の安下浦では若者宿と娘宿が一緒になったものがあり、男女の寝る部屋は別々だったが、早くから夫婦同様の関係になる例もあったようだ。「この浦の漁師がよく結束して内海屈指の漁村として活動したのは、若者宿を中心にし、若者組の結合が固く、また盆や祭りになると旅稼ぎの者が必ず帰ってきたのは、待っていてくれる娘があったからだといわれる」と書かれている(宮本・財前1974:183)。筆者も周防大島の安下庄周辺で「ワカイシベヤ」のことを昭和7年生まれの女性から聞いたことがある。外縁続きの離れの部屋があり、そこに夜若者が集まり、遊んだり泊まったりしたということである。
中国地方では均分相続制が濃厚で、同族結合が弱く、「血」のつながりよりも「地」のつながり、身分よりも能力の高さが早くから重視されていた。そのため、当地方では若者組や娘組などの年齢階梯的な組織が発達しやすかったといえる。この組織は、村の結合を強めていくためのものであるとともに、各人が一人前の完成を目指すためのものでもあった。(つづく)
引用参考文献
・板垣優河編2024『宮本常一農漁村採訪録26 昭和14年中国地方調査ノート(1)』、宮本常一記念館
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・平凡社1957『風土記日本』第2巻
・宮本常一1950『ふるさとの生活』、朝日新聞社
・宮本常一1958a「村の教育」『郷土研究講座』第5巻、角川書店、93-120頁
・宮本常一1958b『中国風土記』、広島農村人文協会
・宮本常一1961『庶民の発見』、未來社
・宮本常一・財前司一1974『日本の民俗 山口』、第一法規出版