宮本常一記念館

学芸員ノート

014

昭和14年中国地方調査ノート その13 アサの栽培と加工処理

資料紹介|2025年7月18日|板垣優河

調査ノートと『中国山地民俗採訪録』

宮本が昭和14年に中国山地で行った調査の報告は、昭和5110月刊行の『中国山地民俗採訪録』(宮本常一著作集第23巻)においてなされている。その「あとがき」には、「見聞をまとめたものはそのまま発表の機会もなく、今日にいたった。当時の原稿の多くは戦災の厄にあって焼失したのだが、この原稿はその厄をまぬかれた。書きあげてもう三六年になる」と記されている(宮本1976:337)。実際に、第4冊目の調査ノートの表紙には「15.10.20整理スミ」等とあり、まだ記憶の新しい昭和15年の秋頃に整理し、原稿化したものと推測できる(写真1)。

写真1 「整理スミ」と記された調査ノートの表紙

 調査ノートと『中国山地民俗採訪録』を読み比べると、宮本が前者の記録を元にして後者の稿を起こしていたことが分かる。調査ノートの記録の大半には、左側に青色鉛筆で線が引かれている。これに使用した鉛筆は、前掲の「15.10.20整理スミ」等と書くのに使用した鉛筆とおそらく同じものであり、この線引きは、原稿に反映させたことを意味するものと考えてよい。例えば、前回の記事で紹介した田植組に関する記録にも、左側に青色鉛筆で線が引かれている(写真2)。そして、その記録と同様の記述が『中国山地民俗採訪録』にも見える。裏を返せば、記録に線引きがない場合、同書で報告されていない可能性が高い。今回の記事で問題にしたいのは、この未報告部分である。

写真2 青色鉛筆で線が引かれた記録(田植組等)

報告されなかったアサの栽培と加工処理

 『中国山地民俗採訪録』で大きく省略された記録の一つに、アサの栽培と加工処理がある。実際に写真3にみるように、調査ノートの該当部分(一部)には青色鉛筆による線引きがほとんどみられない。これは前回の記事でも述べたように、『粒々辛苦・流汗一滴』(以下、『粒々辛苦』と略す)との重複を避けるための省略である。確かに同書をひらくと、アサのことが複数頁にわたって記されている(田中1941:104-109132-135)。アサの生産について同書には次のようにある。「麻ハ本村ノ特産物ニテ、殊ニ鱒淵麻トテ此部落ハ生産高モ一番多ク、質モ他ヨリハ数等上位ニ居テ、当部落ノ麻作ハ夏期農業ノ大主位トモ云フギモノニテ、女子ガ十二三歳ニナレバ皆麻扱キヲ習得シ、他ヨリ荒苧ヲ仕入レテ専業ニ苧扱業ヲナシ、女子ハ夏秋ノ大副業デアリ、其扱キ方モ他村人ニ優リテ扱キ上ゲテ扱苧ガ一層光沢ノ良キモノニテ、他村ヘモ雇ハレ行クノ有様デアツタ」(同前:134)。このことから、田所村ではアサの生産が村の主幹産業の一つとして行われていたことが分かる。

写真3 線引きのない記録(アサ栽培等)

もっとも、アサの生産が盛んだったのは大正頃までで、宮本が訪れた昭和14年にはほとんど生産されていなかった(宮本1976:24)。その理由として、再び『粒々辛苦』には「近来麻ノ価格モ下落シテ途モ之ヲ作ツテモ不利益ダト云フコトニナリ、一ツニハ又余リニモ夏期ノ困難仕事ヲ厭フト云フ風モ起ツテ来テ、麻作ヲヤメテ麦ヲ蒔キ、蔬菜ヲ作リ又田ニ変換スル等ヲナシ、各戸共皆一戸一畝乃至二畝位大根蒔用ト紡苧用ト位シカ作ラヌ様ニナツタ」と記されている(同前:135)。

 それでは、田所村ではアサの栽培と加工処理がいかにして行われ、宮本はそれをどのように記録していたのだろうか。その前に、わが国におけるアサの繊維利用の歴史、特にその始原性について整理しておきたい。

アサの繊維利用の歴史

 宮本は『民具学の提唱』のなかで「野生のフジ、シナノキ、カラムシ、コウゾなどの茎皮繊維が衣料として使われており、麻の栽培も八、九世紀頃にははじまっていた」と述べている(宮本1979:187-188)。しかし、近年の植物考古学の進展により、アサの栽培、及び編布としての利用は縄文時代から始まっていたことが判明している。

アサの繊維は遺りにくいが、果実は遺りやすく、縄文時代の遺跡からも少なからず出土している。年代測定が行われた最も古い出土例は、千葉県館山市の沖ノ島遺跡のもので、較正年代で約1万年前とされている(工藤ほか2009:30)。アサは中央アジアが原産とされるが、縄文早期前半にはすでに日本に渡来していたことになる。ただし、その繊維は腐りやすく、遺物としての残存率は極めて低いといわざるを得ない。そのなかでも確実にアサとみられる繊維製品の出土例としては、青森県西目屋村の川原平(1)遺跡出土の晩期の漆漉し布が知られる(鈴木2020:93)。同遺跡では「イラクサ科」と報告された漆漉し布も出土しており、双方の靭皮繊維を用いた編布が存在したようだ(同前:126)。

また、福井県若狭町鳥浜貝塚の縄文草創期と前期の層準で出土した縄、及び縄文前期の層準で出土した編物の糸が、それぞれ「大麻」と報告されている(布目1984:4)。近年の分析では同貝塚から出土した縄文前期の縄にはリョウメンシダを中心とするシダ類の葉柄が多用されていたことが明らかになったが(鈴木2017:186)、アサの繊維利用についてはまだよく分かっていない。ただし、同貝塚ではアサの花粉が縄文早期中葉から前期にかけてほぼ連続的に出現するほか、前期の層準からは果実も検出されている(吉川ほか2016:80)。よって、同貝塚でも縄文時代のかなり早い段階からアサの栽培が始まっていた可能性がある。アサの花粉は東京都東村山市の下宅部遺跡でも縄文中期中葉と後期前葉の層準で少量検出されている。アサの花粉は風媒であるが、背丈が比較的低く華奢であることから、風が弱いところで栽培されていたと考えられる。実際の花粉散布調査でも、アサの花粉の大半は畑から100m以内に落下することが分かっている。このことから、下宅部遺跡の付近にはアサ栽培用の畑があったと考えられる(以上、吉川2014)。

 木綿が登場するまで、アサをはじめとする靭皮繊維の利用度は高かった。特に木綿の生産に適さない東北地方や中部地方の山間部では、戦前までアサを自給し、衣類や漁網、綱などに利用していた。宮本は平安中期に成立した『和名類聚抄』にみえる「麻績郷」名を調べ、その分布が東に偏ることから、そこがアサの大きな産地になっていたと推定する。一方で、広島県山中や球磨地方でもアサは多く作られていたと述べている(宮本1971:14-15)。アサの需要は海岸部において高く、筆者が調査した山口県沖家室島は一本釣りによって発展した島だが、そこでは昭和25年頃でも釣糸やタモ網にアサの繊維を利用していた。しかし、戦後は麻薬性のある植物という理由から大麻取締法によって栽培が制限され、また化学繊維の普及によって需要が激減する。現在は栃木県鹿沼市などのごく限られた地域でしか生産されていない(篠﨑2014:406)。

 いずれにせよ、アサの利用は従来考えられていたよりも早くから開始されていたことは確かであり、木綿以前・以後に関わらず、わが国の生活文化を考えるうえで重要な要素であることは間違いない。

調査ノートにみるアサの栽培と加工処理

 宮本の調査ノートには複数頁にまたがってアサの栽培と加工処理のことが記されている。まず注目されるのは「クヨシ」と称する焼土作りのことである。『粒々辛苦』にも「三月上、中旬ニ雪ノ消ユルヲ待チテ畑ノ中ヘ、点々野クヨシヲ掛ケテ焼土ヲ製シ」とあり(田中1941:132)、「クヨシ」や「ノグヨシ」についても若干の語句説明はあるが(同前:164168)、断片的な説明に留まっている。これに対し、宮本の調査ノートには次のような詳細な記録がある。「春ニユキガキエテカラ、サイシヨニアサハタウチヲスル。[/]三月ニナルト、マダ10日ゴロマデユキガアル。ソノコロカラユキガキエル。[/]ソレヲマツテ、ヤキツチヲコシラヘル。クヨシトイフ。[/]ハイゴヤガ家マハリニ一ツアル。之デヤク。[/]ハイヤデハ、ヤキキレヌノデ、畑ノ中デノグヨシヲコシラヘル。[/]下ヘ土ヲ四、五寸ノアツミニマルニオイテ、ソノマンナカヘ、松ノワルノヲキツテ、クヨシノシンニシ、ツミカサネ、ソノ上ヘ松ノ枝ヲツミカサネ、ソノ上ニヨクモエサウナ雑木ヲウスクナラベ、ソノ上ニワラヲアゲ、ソノ上ニ土ヲモル。[/]土ハ畑ノアイダカラ、ツチオイコデニナウテクル。[/]スルトヤマガ出来ル。グルリニワラノコグチガ出ル。[/]グルリヘ火ヲツケル。モエハジメルト、土ガオチテ、口ガツブレテシマフ。[/]ソレデ中ヘ火ガマハル。ケブリ出シヲ、タケヲ一本フシヲヌイテ、マンナカニタテテオク。[/]四日サウシテオクト、土ガヨクヤケテ、マツマルタハスミニナツテイル。[/]コノスミハコタツノスミナドニスル。[/]火ヲツケテオイテ、畑ヲウツ。315[日]ゴロカラ20日マデノアイダニウツ。[/]天気ガワルイト、3月一パイノコトニナル」(板垣編2025:10)。

 クヨシは、広島県山県郡八幡村(現北広島町)で行われていた「クグシ」と同系の語であり、やはり「燻ぶらせる」という意味を持つものと思われる。これによってアサ畑の地力を増強していたのである。

 続いて調査ノートにはアサの播種のことが次のように記されている。「天気ヲエランデマク。ヤキツチガ出来テ来ルノデ、ウツタ畑ノ上ニフリマキ、畑ヲ平ニコナス。ガンギヲキル。ソノ上ニホシカヲコニシタノヲフツテアルキ、アサノタネヲマク。一畝ニ三合~五合マク。[/]ソレカラ昔ハタネヲマイテオイテ、人糞尿(ミズゴエ)ヲヒク。ソノ上ニタイヒヲヤル」(板垣編2025:10)。

 播種時の肥料について、調査ノートには「キリコエ」(切肥)と称するものが出てくる。「タイヒ(キリコエ)ハ、クヨシヲマヅツクリ、ナツカツタ草(ノダヤゴエ)トヤキツチヲツミカサネル。ソレニ人糞ヲイレル。之ヲ春アサヲマクトキ、コグチカラキツテフル。ソレデキリコエトイフ」とある(同前:11)。また、「ホシカ」(干鰯)について、「昔ハホシカヲヤルトキ、ホシカノナイコトガ多イノデ、ミズゴエダケヲマイテイタガ、5月末カライワシノアタラシイノヲクサラカシテ、水ゴエニシタノヲ川スジノヒリヨーヤガカツイデ来タ。[/]川越アタリカラウリニ来タ。[/]アサノコエニスルノニ、ソレノクルノヲ待ツタモノデアル。[/]ソレヲタカクウリツケタモノデアル。ソレヲカウテイレタ。今ホシカヲヤルヨーニナツタ。[/]トチウマデカタイモノヲカツイデキテ、イバラ[井原]アタリデ水ヲイレテ多クシタモノ。[/]又カミヲスイタカスヲイレテ、クサラカシタモノダトイツテダマシタ」とある(同前:11)。干鰯は肥料効果が高いことで知られる。田所村ではそれを商人から購入したが、その際、商人側であらかじめ「水増し」が行わることもあったという。

 アサの収穫については次のように記されている。「7月ノ178日ゴロカラアサトリヲスル。7月ノ20日ゴロニアサヲトツテ、ソノアトヘアハ、キビヲマク。アハ、キビハハヤクマカヌトシウカクガナイカラ、アサヲトリ、アハヲマクガ、アサハ畑ニオクトヨクノビルガ、アトサクノタメニ、20日ヲアサトリキセツトシテヤル。[/]トルト、ソノシゴヲスルノヲオイテ、スグアハヲマク。[/]アサハタ全体ノ半分ハアハヲマキ、半分ハダイコンヲマク。[/]大根ヲマクノハ823日ゴロデ、アサハソレマデノアイダニトル」(同前:12)。アサの収穫は夏土用の入りに短期集中的に行われたが、これは後作にアワ・キビ・ダイコンを蒔くためだった。特にアワ・キビはすぐに蒔かねば栽培適期を逸するので、720日頃までにはアサの収穫を終えていなければならなかった。アサの栽培用の畑が高度かつ循環的に管理されていたことが分かる。

ところで、アサの栽培には繊維採取を目的としたものと果実採取を目的としたものがある。両者では栽培適地が異なり、前者は風害が少なく、砂礫地で腐食物質の乏しい土壌、後者は肥沃な土壌が適しており、それらを考慮してアサの播種を行う必要があるとされる(篠﨑2014:407)。しかし、従来の民俗学研究ではアサの収穫以降の処理に関する報告はあるが、収穫以前に関する報告は少なかった。その点で宮本の記録は貴重である。先述したように近年ではアサの栽培が縄文時代から始まっていたことが判明しており、具体的な栽培形態を捉えるためにも、アサ畑についてはさらなる調査が必要である。

以降、調査ノートにはアサの処理のことが次のように記されている。「アサヲウムスカマニハコブ。[/]タテガマ、ヨコガマ二通アリ。[/]カマハ外ヘコシラヘル。大キナナベヲオキ、下コシキヲオキ、コシキノ長サハ1丈ホドノオケデ、ソレヲカマノ上ニノセ、ソレニアサヲツメテウムス。45時間デウミル。[/]ウミタモノヲタメイケニツケテ、2時間ツケルト、カワガヨクハゲルヨーニナルノデ、ミナデハグ。[/]ソレヲホス。...アラソトイフ。[/]コノブラクデハ、アサヲタクサンツクルノデ、アラソヲトツテオイテニル。[/]昔ハソーダガナカツタカラ、木灰デアクヲタレテニル。[/]ニルト川ヘイツテコグ。...コギソ。[/]ソレカラ広島ノ古市ヘウル。[/]コノブラクニハ、ムスメ123ニナルト、コソトイフクズノアサデ、アサコギノケイコヲスル。オヤガ川ヘツレテイツテコガセル。[/]下ノ川バタデ女ガ出テアサコギヲシタモノデアル。[/]アサコギシヨーバイヲヤルモノアリ。[/]アラソヲコーテ、コイデウルノヲ、ニコギトイツタガ、隣村マデカイニイツテ、ニコギヲシタ。[/]秋ノシゴトデアツタ。イネヲカルマヘデアツタ」(同前:12-13)。

アサの処理には「アラソ」(荒苧)と「コギソ」(扱苧)の2段階があり、また前者を後者にするために「ニコギ」(煮扱ぎ)と称する作業が行われていたことがうかがえる。具体的には、まずアサの茎を蒸し、水に浸け、靭皮繊維を含む木部外側の皮を剥いで干す。これが「アラソ」である。続いてその皮を灰で煮て軟らかくし、川で付着する不要な滓を除去し、靭皮繊維だけにする。これが「コギソ」である。これを広島県の古市(広島市安佐南区)に出荷していた。なお、古市には煮扱屋があり、そこで「アラソ」を「コギソ」にし、西日本各地に出荷したとの報告もある(篠﨑2014:413)。しかし、田所村ではアサの生産が盛んだったので、「コギソ」の状態で出荷したようだ。

なお、アサの煮汁は衣類洗剤に利用されることもあった。調査ノートには次のような記録がある。「アサヲニテ、カマカラアサヲアゲルト、ハジメイレタ水ノ1/3ノシルガノコル。ソレヲ火ヲヒイテサマスト、アメノヨーニナル。[/]之ヲハンドニトツテオキ、ワラヲワニシタノヲアメノアツイ中ニイレテオク。ソレヲサメテカラアゲ、サホニトーシテホシテオク。[/]ソノワヲタラヒニ一ツイレテ、センタクスル」(板垣編2024:93)。アサの煮汁を加熱し、飴のようになったところに藁の輪を浸けて引き上げ、乾燥させる。洗濯をする際にその輪を一緒に入れたとする。

 アサの栽培と加工処理は田所村の主たる生業であるとともに、今となっては再調査がほぼ不可能なものでもある。そのため、『中国山地民俗採訪録』でも重複を気にせずに報告してもよかったのではないかと思う。宮本常一と地域の生活文化の研究を深めるには、すでに刊行されている著作だけでなく、その元になった調査ノートにまで遡って分析する必要があるということである。(つづく)

引用参考文献

・板垣優河編2024『宮本常一農漁村採訪録26 昭和14年中国地方調査ノート(1)』、宮本常一記念館
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・工藤雄一郎・小林真生子・百原新・能城修一・中村俊夫・沖津進・柳澤清一・岡本東三2009「千葉県沖ノ島遺跡から出土した縄文時代早期のアサ果実の14C年代」『植生史研究』第17巻第1号、日本植生史学会、27-31
・篠﨑茂雄2014「アサ利用の民俗学的研究 縄文時代のアサ利用を考えるために」『国立歴史民俗博物館研究報告』第187集、国立歴史民俗博物館、405-424
・鈴木三男2017「鳥浜貝塚から半世紀―さらにわかった! 縄文人の植物利用―」『さらにわかった! 縄文人の植物利用』、新泉社、182-201
・鈴木三男2020『びっくり!! 縄文植物誌』、同成社
・田中梅治1941『粒々辛苦・流汗一滴』(アチックミューゼアム彙報第48)、アチックミューゼアム
・布目順郎1984「縄類と編物の材質について」『鳥浜貝塚 1983年度調査概報・研究の成果―縄文前期を主とする低湿地遺跡の調査4―』、福井県教育委員会・福井県立若狭歴史民俗資料館、1-8
・宮本常一1971「民具とその素材―民具試論(三)―」『民具論集』3(常民文化叢書7)、慶友社
・宮本常一1976『中国山地民俗採訪録』(宮本常一著作集第23巻)、未來社
・宮本常一1979『民具学の提唱』(民族文化双書1)、未来社
・吉川昌伸2014「縄文人と植物との関わり―花粉からわかったこと―」『ここまでわかった! 縄文人の植物利用』、新泉社、162-181
・吉川昌伸・吉川純子・能代修一・工藤雄一郎・佐々木由香・鈴木三男・網谷克彦・鯵本眞友美2016「福井県鳥浜貝塚周辺における縄文時代草創期から前期の植生史と植物利用」『植生史研究』第24巻第2号、日本植生史学会、69-82

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