宮本常一記念館

学芸員ノート

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昭和14年中国地方調査ノート その9 様々な食べ物④ クリ・ワラビ

資料紹介|2025年6月13日|板垣優河

クリの実

クリはブナ科クリ属に属する落葉高木で、北海道の石狩・日高以南、本州、四国、九州の温帯から暖温帯にかけて分布する。タンバグリと通称される大粒の栽培種に対し、小粒の自生種はヤマグリ・ササグリ・シバグリなどと呼ばれる。果実は13個集まって棘のある総苞(いが)に包まれ、秋に落果する。樹木は水や湿気に強く、屋根材や枕木、薪炭材として伐出されてきた。

宮本は山口県高根村向垰(現岩国市錦町)で、クリについて次のように記録している。「クリヲヒロツテモチニイレタ。クリモ多カツタ。女ガヒロヒニイツタ。[/]クリハコゲルホドイツテ、ソレヲウスデハタクト、キレイニナル。[/]之ヲカチグリトイフ。ソレヲモチヤゴハンニイレテタイタ。[/]ハルサキマデオイタ」(板垣編2025:76)。

 前後の文脈から判断して、ここでの採集対象は栽培種ではなく、自生種のクリであったと推測する。向垰ではその果実を焦げるまで炒ってから臼で搗いて皮を除去し、それを「カチグリ」と称して餅や飯に入れて食べていた。「カチグリ」の語源は、乾燥させた果実を搗くという所作・擬音に由来すると考えてよい。カチグリは九州山地でも盛んに行われていた(写真1)。なお、東北地方では「カチグリ」と同様の加工法及び加工食品のことを「オシグリ」と呼ぶことが多かった。

写真1 カチグリ(宮崎県椎葉村向山日当)

 クリの実の採集については吉野西奥地方の調査ノートにも記録があり、昭和141939)年10910日に訪れた奈良県吉野郡天川村中越では、「クリノ実ヲアサガケニヒロイニイクト、二斗、三斗アツタ。[/]10月ゴロカラオチハジメタ。アサクライウチニイク。[/]ホソトクリトヨクニテイル。[/]ヨクヒロウウチハ5石、10石。ムシテホシ、ツシニアゲ、ユルリヲタクトムシケハイラズ。[/]之ヲハルカラヒズカシニ子供ニヤル」と書かれている(田村・徳毛2019:43-44)。また、同年1011日に訪れた奈良県吉野郡大塔村篠原(現五條市大塔町)では、「クリノ皮ヲヨルムイタ。ソシテタイタモノデアル。[/]食物代用ニシタ。一日ニ二斗モ三斗モヒロツタ。[/]洞川ハ、モトクリノ多イトコロデアル。ホカノモノニハキラセヌトイツタモノデアル。[/]クリ一本ヲ四十銭ノワリデ、杉ヲカハリニウエタ。[/]ドロ川ノクリハ、エンヘブチアケテオイテヒロイニイツタモノデ、10石モヒロツテキタ」と書かれている(同前:133-134)。

吉野西奥地方ではクリを1日で23斗、年間で5石も10石も採集していたという。筆者が調査したところでも、例えば和歌山県田辺市龍神村でもクリを2斗入りの袋にいっぱい集めて帰ったという。また宮崎県東臼杵郡椎葉村では、牛に負わせて帰るほどクリを大量に採集していた。さらに、島根県田所村鱒渕(現邑南町)の田中梅治が著した『粒々辛苦・流汗一滴』には「栗ノ多ク生ツタ年ニハ女中連ハ毎日デモ拾ヒニ行ク。山間部ノ栗ノ木ノ多イ所ニハ一家内総出ニテ栗拾ヒヲナシ、数石ヲ拾フノデアル」との記述がある(田中1941:110)。また別に「栗拾ヒ」の項を設け、「能ク生ル年ニハ、稲刈ハ後廻シニシテモ大ニ拾フ。山間部ニハ一家数石拾フテ之ヲ都会ニ出ス。普通ニハ毎朝栗粥ヲ炊キ、又栗飯栗煮染トシ、小栗ヤ虫食栗ヲ乾シテ勝チ栗ヲ製ス」とも記している(同前:115)。

これらのことから、西日本の照葉樹林帯でも、東日本の落葉広葉樹林帯と同等、場合によってはそれ以上に、クリが盛んに食用にされていたことがうかがえる。

ついでに、先の篠原では「クリノ皮ヲヨルムイタ」とあるが、おそらくこれは採集したばかりの生果実をその夜のうちに皮を剥き、翌日の朝食に間に合わせたことをいうのだろう。クリへの依存度が相対的に高かった地域では、こうした「ナマグリ」(生栗)の食法が盛んだった。一方、中越では採集した果実を蒸して殺虫し、炉上の棚にあげて乾燥貯蔵していた。炉上の空間は、囲炉裏の火力と燻蒸効果を利用できるという点で、クリだけでなくトチやドングリなどの長期貯蔵場所としても適していた。

ワラビの根茎

ワラビはコバノイシカグマ科の多年生シダで、全国至る所の山野に見られる。葉は疎らに出て高さ1m以上に達し、冬枯れる。根茎は太く径約1cm、地中を長く横に這う。一般的には春の葉柄の食用で知られるが、かつてはその根茎を掘って澱粉を抽出し、いわゆる蕨粉を製していた地域が多かった。

 宮本は広島県戸河内町本横川(現安芸太田町)で「ワラビ根」について、「セントイフ。ミノ年ガシンカラホリ出シタ。[/]ネヲホツテ、アラツテ、ウスデツク。ツイタモノヲ大キナ五尺カクノフネヘイレテ、マツカトチデクツタモノ、ソレデアラフト白イシルガ出ル。カスヲ又ツク。[/]白イノガタマル。上ヘクロイノガタマル。[/]水ヲホシテ、上ノクロイノヲホーチヨーデトル。クロイノヲクロセン、下ノシロイノヲシロセントイフ。[/]白ガ上等。黒イノヲダンゴナドニシテタベル」と記している(板垣編2025:57-58)。島根県匹見上村三葛(現益田市匹見町)でも「ワラビノネ」について「ホツテキテ、デンプンヲトツテタベタ」と記録している(同前:62)。

 特に本横川の記録は山村の物質文化を考えるうえで非常に示唆に富むものである。本横川ではワラビの澱粉のことを「セン」と称していた。これを採取するには、まず掘った根茎を洗って臼で搗き砕く。それを松やトチの木を刳り抜いた大きな容器で洗って溶出する澱粉を分離し、容器の底に沈殿させる。その際に使われた容器は、東北地方や中部地方で使われていた容器と形態や製作技術を同じくするものではなかったかと思われる。

この点は宮本の著作からも推測することができる。宮本は『庶民の発見』所収の「芸北紀行」という紀行文のなかで、「ワラビのセン(澱粉)をとるフネなど大きな丸太をくってつくったもので、丸木舟そっくりだが、やはり地元の大工がつくったものである。こうした道具類も中部地方や東北地方の山中ならばそれほどめずらしくもないが、ここはそれらの地方のものとほぼ同じ様式のものがのこっている。[中略]これらの民具を通じての印象は、ここの文化の多くは日本海側から来て、ここへおちついたということである」と書いている(宮本1961:148)。

 それでは、宮本が東北地方や中部地方で見た澱粉採取用の容器はどのようなものだったのか。宮本は昭和211946)年8月に秋田県仙北郡檜木内村(現仙北市)を訪れ、その見聞を「農村調査 秋田県由利郡矢島町 秋田県仙北郡角館町」(文書1-1/0009/01/00)と題する調査ノートに記している。檜木内村はマタギによる狩猟で知られるが、宮本のノートにも山村の生活文化のことが克明に記録されている。そのなかで、ワラビ根茎の採集について次のような記録がある。「山ニ入リ来ル途中、山ノ草刈場ノ所々、土ノ赤クナツテイルノヲミル。ワラビノ根ヲホリタルナリトイフ。晩秋多クホリテ食料ニス。1200俵ノ米、之ニヨツテ節約出来シトイフ」。

昭和21年前後は終戦後のいわゆる「欠配当時」にあたり、食料が供出される一方で配給が滞ったため、ワラビ根茎の採集が積極的に行われていた。檜木内村では1200俵分の米を蕨粉によって節約できたとする。筆者による東北地方の調査でも、欠配当時の蕨粉に対する評価が総じて高かったことを確認している。岩手県遠野市附馬牛町大出ではワラビ掘りの季節には蕨粉を毎日食べたとし、同県宮古市夏屋大畑や下閉伊郡岩泉町下有芸では「欠配当時の最高の食べ物」とまで言われていた。稲作に不適な寒冷地では、米に代わるものとして蕨粉が重視されてきたのである。

また、同ノートには「阿部芳五郎氏宅ノウチノワラビネツキ」として、図1のような蕨粉生産関連道具が示されている。檜木内村で使われていた道具は、奥羽山脈を東へ越えた岩手県和賀郡西和賀町や、岐阜県飛騨地方で筆者が見たものと形がよく似ている。写真2は西和賀町碧祥寺博物館で見た「ネブネ」と称する澱粉採取用の容器である。同館には刳り抜き式のネブネが15点、組み合わせ式のネブネが4点保管されている。刳り抜き式のネブネの下面は凸曲面をなし、容器を揺すって澱粉とともに沈んでいる不純物を浮かしたり、傾けて水を流したりするのに都合が良い。組み合わせ式のネブネは断面が下に向かって窄まる逆三角形をなすが、これも傾けて水を流す際の利便性を考慮したものだろう。写真3は岐阜県高山市朝日町の秋神小学校跡地に残置されていた長さ4mを超える刳り抜き式の容器である。秋神では蕨粉の生産が主幹産業の一つとして行なわれていた。容器の大きさからも、当時の蕨粉生産の盛行ぶりがうかがえる。

図1 「農村調査 秋田県由利郡矢島町 秋田県仙北郡角館町」より(原図をトレース・翻刻)
写真2 ネブネ(碧祥寺博物館蔵)
写真3 フネ(岐阜県高山市朝日町)

なお、宮本の記録にみる「ネイタ」については少し疑問がある。宮本の記録では槽状に作業面を刳ったものが描かれている。しかし、奥羽山脈や北上山地では、根茎の粉砕に厚さ10cmほどの作業面が平坦な板を多用していた。写真4は碧祥寺博物館にある「ネイタ」で、長さ102cm、幅83cm、厚さ12cmを測る。作業面は槌との頻繁な接触により、広い範囲で摩滅していた。宮本が記録したものは、あるいは「ネイタ」ではなく、粉砕した根茎を揉み洗い、澱粉を溶かし出すための容器の類ではなかったかと推察する。

写真4 ネイタ(碧祥寺博物館蔵)

しかし、そうした疑問点はあるものの、宮本の記録は貴重である。民具に関する情報は今や製作者や使用者の手を離れ、断片化しているからである。宮本とその後の筆者の調査からは、かつて日本では広い範囲で大木を刳り抜いた容器が山野に自生する根茎類、特にワラビの澱粉採取に使用されていたことが分かる。さらに、先に引用した『庶民の発見』のなかで、宮本がその容器のことを「丸木舟そっくり」と表現していることも示唆的である。現在確認されている日本最古の丸木舟は、放射性炭素年代測定によって約7,500年前と測定された千葉県市川市雷下遺跡のものである(千葉県教育振興財団2019)。このことから、丸木船は縄文時代の早期後半にはすでに製作され、使用されていたと考えられる。したがって丸木舟と製作技術を同じくする大型容器の製作も、かなり早い段階から可能だったはずだ。蕨粉の生産は、縄文時代にすでに行われていた可能性がある。

蕨粉にみる近代山村の二面性

 先の本横川ではワラビの澱粉を水中に揉み出した後、それを二層に分けて沈殿させていた。その際、上層に沈殿する黒色の澱粉を「クロセン」、下層に沈殿する白色の澱粉を「シロセン」と称し、前者は「ダンゴナドニシテタベル」、後者は「上等」であったとする。なお、『中国山地民俗採訪録』には、「黒い部分をクロモノ、下の白い部分をシロモノという。白は上等で売り出し、黒は団子などにして食べる」と書かれている(宮本1976:146)。どういうわけか上層澱粉と下層澱粉の呼称が変更されているが、調査ノートの方がより実態を捉えていると思われる。

筆者が調査した岐阜県飛騨地方や高知県四万十地方でも、ワラビの澱粉を意図的に二層に分けて沈殿させていた。飛騨地方では上層澱粉を「クロバナ」、下層澱粉を「シロバナ」と称した。四万十地方では上層澱粉を「アカ」、下層澱粉を「カネ」などと称していた。そして、両地方とも下層澱粉はもっぱら換金目的で出荷し、病気をした時に食べる外はほとんど口にすることがなかったという。一方、上層澱粉はほぼ例外なく自家用に消費していた。こうした沈殿物の使い分けは、近代山村の二面性、すなわち自給自足を原則としつつも外部経済(貨幣経済)に依存せざるを得なかった山村のあり方を象徴しているように見える。

 このことがより浮き彫りになるのは南安曇地方の例である。宮本は昭和401965)年67月にスーパー林道建設に伴う経済効果予測調査の一環で長野県南安曇郡奈川村(現松本市)を調査している。その際に作成した調査記録「奈川村資料」(文書4-1/0002/01/00)には『南安曇郡誌』(大正12年発行)523頁の抄録として、次のような書き抜きがある。「ハナホリ、春ワラビノデルマヘ、秋ホデラノカレタアト。[/]日アタリノヨイトコロガハナガ多イ。ワラビカンガラ後ニハ、カツサビヲツカイ、11日ニ10坪前後ホツタ。女ナラ4ウス分、男ナラ56ウス分トル。1ウス2メ目クライデ、花1升クライトレタ。[/]ホツテ来タ根ハ、水タマリノ中デカキマワシテ、泥ヲオトシ、平ナタタキ石ノ上ニノセテ、横ツチデタタキ、次ニモミオケニイレテ、水ニヒタシ、カキマワシテ、コノ水「アラダレ」(アライダライ)ニコシキヲノセタ上カラ注ギコム。[/]アラダレニタマツタハナヲゴバン形ノ大キナハナオケニウツシテ、沈ンデンサセル。[/]ワラビノ根ハサラニ2回クライタタキ、ハナヲ沈デンサセル。[/]上ニタマルノヲ黒バナ。下ニタマルノヲ白バナ。白バナハ1300匁[/]。51俵。ハナ1升ハ米1升ニナル。クロバナハ自家用」。

これとよく似た記述は『私の日本地図2・上高地付近』にも見える(宮本1967:72-73)。出典は明記されていないが、おそらくは『南安曇郡誌』の記述を参照しつつ、自身の見聞を加えたものと思われる。「コシキ」を用いての澱粉の濾過沈殿、「白バナ」と「黒バナ」の分離などは、筆者が調査した飛騨地方の事例とよく似ている。飛騨山脈をまたいでの技術的な交流があったものと思われる。

宮本は前掲書のなかで、松本では蕨粉1升を米1升と交換できたとし、「山の中にあって、すべて自給自足であったように考え勝ちだけれども、実は山の中ほど交換経済が発達し、貨幣が動いていたことも忘れてはならない」と述べている(同前:74)。奈川村を含む飛騨山脈周辺の山村では、ワラビ掘りという本来は自給的性格の強い生業要素を商品経済の枠内で高度に体系化していたのである。

 宮本の一連の調査ノートは、蕨粉の生産が自給目的と換金目的で行われていたことをうかがわせるものである。と同時に、その生産技術が凡日本的に分布していたことを示す資料としても重要である。(つづく)

引用参考文献

・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・田中梅治1941『粒々辛苦・流汗一滴』(アチックミューゼアム彙報第48)、アチックミューゼアム
・田村善次郎・徳毛敦洋2019『宮本常一農漁村採訪録21 吉野西奥調査ノート』、宮本常一記念館
・千葉県教育振興財団2019『東京外かく環状道路埋蔵文化財調査報告書』14(千葉県教育振興財団調査報告書第780集)
・宮本常一1961『庶民の発見』、未來社
・宮本常一1967『私の日本地図2・上高地付近』、同友館
・宮本常一1976『中国山地民俗採訪録』(宮本常一著作集第23巻)、未來社

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