宮本常一記念館

学芸員ノート

035

宮本常一と農業 その7 郷里からの出発

宮本研究|2025年12月11日|板垣優河

郷里三ケ浦

三ケ浦とは、周防大島東部北岸の西方・長崎・下田という三つの集落の総称である(写真1)。このうち長崎は宮本の郷里であり、彼が生涯最もかたく結び付いていた地だった。宮本は『民俗学の旅』のなかで「私にとってのふるさと」という章を設け、次のように書いている。

写真1 三ケ浦 2023年12月13日 筆者撮影

「郷里から広い世界を見る。動く世界を見る。いろいろの問題を考える。私のように生れ育って来た者にとっては、それ以外に自分に納得のいく物の見方はできないのである。足が地についていないと物の見方考え方に定まるところがない。戦後のひととき転向ということが問題にされた。しかし転向を必要としないような物の見方もあっていいのではないかと思う。ふるさとは私に物の見方、考え方、そして行動の仕方を教えてくれた。ふるさとがすぐれているからというのではない。人それぞれ生きてゆく道があるが、自分を育て自分の深くかかわりあっている世界を、きめこまかに見ることによって、いろいろの未解決の問題も見つけ、それを拡大して考えることもできるようになるのではないかと思う」(宮本1978:59-60)。

宮本の学問は、自らの生活体験と客体としての研究対象を分離するのではなく、自らの生活体験の延長上に客体としての研究対象を設定する現実拡大的なものだった(岩田2013:11)。そのため、研究対象は自己を取り巻く生活環境から提起されなければならず、その設定範囲の拡大は、自己の活動範囲の拡大と軌を一にしていた。その同心円的拡大の起点となったのが、農家としての生活体験であり、三ケ浦、特に長崎という郷里の生活環境だった。

宮本は『私の日本地図9』の冒頭で、自身のふるさとについて次のように書いている。

「周防大島の私の生れた家の南に白木山という四〇〇メートルたらずの山がある。その山の麓までは低い丘や谷がつづく。白木山は安山岩でできているが、その下の丘は花崗岩から成っており、そこをひらいて段々畑が重なっており、谷間には田が帯のようにつづいている。海岸近くにはやや平らなところがあって、そこには田がひらけていた。その畑や田を耕作して人びとは暮らしをたててきたが、それだけでは食うのに困る家が多かった。すぐ前に海があるのだから、漁業にでも精出せばよいようなものの、私の生れた長崎という一〇〇戸ほどの在所では漁業にしたがっている者はほとんどなく、西どなりの下田という所に漁家が二〇軒ほどもあろうか。あとは百姓を主にしていた。[/]ただ下田にはイワシ網が四条ほどあって、漁期になると、百姓たちは網ひきにゆくことが多かった。海にのぞんでいても漁村とは言えないほど、海とのかかわりあいは少なかった」(宮本1971:5-6)。

 ここで自身の生活環境について、「海とのかかわりあいは少なかった」と敢えて強調している点は重要である。四周を海に囲まれた周防大島では、一般に漁業を主幹産業とする漁村が多かったと考えられがちだが、中心をなしていたのは農村であり、宮本自身も農村の、農家の生まれであるといっているのである。

三ケ浦の人文景観

宮本は古文書等の文献資料や口碑等による伝承資料だけでなく、現在集落における家屋敷や社寺の分布、田畑の形、水路や道路のひき方、周辺植生などの景観、また住居や民具、石造物、そのほか造形物の中からも、人々の意志や暮らしの重層性を見出すことができると考えていた。そうした諸資料の複合的利用により、三ケ浦を含む旧東和町(周防大島東部)の歴史的展開を書いたのが『東和町誌』である。以下、その第2章第12節からの再説による(宮本・岡本1982:37-62)。

島には海にのぞんだ集落が多いが、海岸に面していても山手に「郷」と呼ぶ集落をもつものが少なくない。三ケ浦では、西方がその「郷」にあたる集落で、古くは「本郷」と呼ばれていた。海岸集落では家々が密集し、屋敷割りもきちんとしているところが多いのに対し、「郷」での屋敷の取り方はまちまちになる。それは、開発当初の家が耕作に適したところに思い思いに屋敷を構えたことによる。一方海岸では早くから製塩作業が行われていた。多くは揚浜式だが、現在東和小学校がある平地には干潟を利用した入浜式の塩田もあったという。近世初期まで人口はまだ少なく、山地の所々に畑が作られ、海岸には塩浜と作業小屋がある程度だったが、製塩が盛んになると大量の薪を確保する必要から山林が伐採され、その跡地には畑が作られた。18世紀前半には山の斜面全体が段畑になるが、ちょうどその頃島にサツマイモが伝わった。さらに、海岸低地では干拓事業によって水田がひらかれ、徐々に海岸にも家が建つようになる。三ケ浦ではそのようにして山手から海岸へと集落の形成が進んでいったと考えられている。

写真2は宮本が19683月に三ケ浦を撮影したものである。手前の山手側が西方、海岸右側(東側)が長崎、海岸左側(西側)が下田の集落である。なお、19693月末の住民基本台帳による戸数及び人口は、西方3499人、長崎105331人、下田159472人である。これが202312月末では、西方3370人、長崎66137人、下田203293人となる。周防大島では全島的に人口の流出が深刻だが、そのなかにあって三ケ浦の推移は緩やかである。これは島外からの移住者が比較的多いことによる。

写真2 三ケ浦 1968年3月22~23日 宮本常一撮影

写真の真ん中にはお宮の森と称される下田八幡宮の社叢が見える。198410月に行われた植生調査では、スダジイ・ホルトノキ・クスノキ・ヒメユズリハ・モッコク・ウラジロガシ・ヤブニッケイ・イスノキ・タイミンタチバナ・ヤブツバキ等の高木ないし亜高木が確認されている(南1994:58)。海岸低地で干拓が進むのは近世以降だが、それ以前は照葉樹を主とする林があったと推定され、この社叢にはその面影がよく保存されていたといえる。宮本も付近の海岸低地の掘削中に、大きなクスノキが埋没しているのを2度ほど実見している(宮本・岡本1982:61)。その右に見えるのはシンイケと呼ばれる溜池である。白木山に端を発し、タテダと通称される立田川は西方集落の最上部に位置する眷龍寺周辺の田を潤した後、寺の下方で東西に分水され、東流する水はこのシンイケに注いで長崎周辺の田を潤し、西流する水はオオイケに注いで下田の田を潤した。なお、眷龍寺の上方には山内池という溜池があり、渇水期には池の栓を抜いて水を分配したが、その恩恵を受ける家は池石(イケゴク)と称する水の使用料を眷龍寺に納めねばならなかったという(須藤1986:96)。このことから、眷龍寺は信仰面だけでなく農業生産面においても三ケ浦の中心的な存在であったと考えられている。

耕地には水田とミカン園が混在・拮抗している。宮本はほぼ同じ位置から19561月と19623月に写真を撮っているが、それら写真にはまだミカン畑は見えない。この辺りでは1960年代後半からミカンを植え始めたようである。

写真3は宮本が196410月に西方の集落を撮影したものである。先述のように西方は古くは「本郷」と呼ばれていた。ここには鎌倉時代の創建と伝えられる眷龍寺や、近世初期に定住し、幕末に萩藩士の株を買って士族になった服部家などがある。眷龍寺も服部家も灌漑用水や生活用水を得やすい谷の上流部に立地する。こうした「谷筋占拠」の例は、「古い開拓定住様式の残存の一形態」であることが指摘されている(香月1986:69)。

写真3 西方の集落 1964年10月6日 宮本常一撮影

右に見える山は城山である。標高143mの山頂からは安芸灘と伊予灘の双方を眼下に望むことができる。ここには『山口県遺跡地図』に「藤田城跡」として登載された遺跡がある(山口県埋蔵文化財センター編1991:48)。『吾妻鏡』には平知盛が「大島の最中」に城を構えたことが記されており、この遺跡は源平合戦とも関わりのある中世城館跡の可能性を指摘できる。現在、城山の中腹は竹藪になっているが、所々でテラス状地形が見られ、かつては段畑としてひらかれていたことが分かる。

左手に見えるのは神宮寺である。もとは下田八幡宮の別当寺だった。ここでは毎年221日に弘法市がひらかれる。「弘法市が過ぎなければ春が来ない」ともいわれ、境内にある弘法堂の法要は春の訪れを知る節目にもなっていた。島外からも植木や苗物、茶碗、金物、農機具などを売りに来ており、ここで一年間の暮らしの道具を揃えることができた。先の記事でも紹介したように、三ケ浦でのミカン栽培は、この弘法市で売られていたミカンの苗木に端を発するといわれている。手前には稲刈りをひかえた水田が見える。夏は稲を作り、冬は麦を作る二毛作田だった。西方は白木山南麓のなだらかな斜面上に立地し、立田川という比較的水量の多い川が流れている。そのため、稲作に不適とされる島東部のなかでも比較的条件の良いところだった。(つづく)

引用参考文献

・岩田重則2013『宮本常一 逸脱の民俗学者』、河出書房新社
・香月洋一郎1986『むらの成立』(東和町誌各論編第1巻)、山口県大島郡東和町
・須藤護1986『集落と住居』(東和町誌各論編第2巻)、山口県大島郡東和町
・南敦1994『東和町の植物』(東和町誌資料編2)、山口県大島郡東和町
・宮本常一1971『私の日本地図9・瀬戸内海 周防大島』、同友館
・宮本常一1978『民俗学の旅』、文藝春秋
・宮本常一・岡本定1982『東和町誌』、山口県大島郡東和町
・山口県埋蔵文化財センター編1991『山口県遺跡地図』第1次改訂版、山口県教育委員会

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