宮本常一記念館

学芸員ノート

031

宮本常一と農業 その3 周防大島の農業②

宮本研究|2025年11月7日|板垣優河

畠と畑

近世初期の周防大島ではまだ人口が少なく、山地の所々で畑が作られる程度だった。それが海岸で製塩作業が活発化すると、薪をとるために山が伐りひらかれ、その跡地を畑として利用するようになる。そして18世紀初頭からは、山の斜面全体が段畑になっていったと考えられている(宮本・岡本1982:55)。

周防大島ではその初めから段畑として拓かれたものをシラバタケと称し、「畠」の字をあてることが多かった。これに対し、焼畑のことをハタやキリハタと称し、「畑」の字をあてることが多かった(同前:52)。島には地家室や久賀、西三蒲、東屋代の奥に畑という在所があり、いずれもハタケとはいわないでハタと呼んでいる。そうした所では焼畑が行われていた可能性がある。

実際に、宮本は久賀で焼畑のことを記録していた。久賀町調査メモ(文書3-5/0035/01/00)には、19801121日の聞書きとして、「畑デ山ヲヤイタノヲ、ダイコンヲマクタメニ、山ヲヤイテイタ。70年以上ニナル。[/]山ヘ火ヲツケルト、山火事ニナルコトアリ。ダケ、カノーガミナヤケタコトアリ。[/]2度ヤケタノヲオボエテイル」と記している。焼畑に際して山火事になり、嵩山や嘉納山まで延焼することもあったようだ。

また、島の南岸には佐連(され)という在所があるが、この地名も焼畑を連想させる。飛騨や美濃では、焼畑をやめて山に返したところをゾウレやゾウリと呼んだが、そこからの転訛と考えられるソリという言葉が周防南部でも使われていた。室津半島には森反と書いてモリゾリと呼んでいたところがある。佐連では島北岸の人々が焼畑をするために山を越えて来たと伝えられており、その山路のことを焼山越えと称していた(宮本1959:51-52)。

宮本は晩年、「日本文化形成史」と題する仮説の構築に取り組むなかで、縄文文化を起点として日本文化の形成過程を見定めるようになる。そのなかで彼が考える縄文文化とは、ある面においては農耕文化、それも畑作文化と呼べるものであり、縄文時代にはすでに焼畑が行われていたと考えていた(板垣2025)。周防大島でも、畠(定畑)が発達する以前に、農地を移動する形式での焼畑が行われていたと考えられる。

雑穀

周防大島の畠と畑(以下、一括して畑と表記する)では、当初は雑穀や麦が作られていた。なお、「雑穀」という言葉を『広辞苑』に引くと「米・麦以外の穀類」となっている。本稿でもその定義に従うものである。

油良村庄屋が嘉永41851)年に作成した「農家年中行事書出」には作物の種類とその蒔付・植付時期のことが詳細に記されている。その一部を抜き出すと次のようになる(宮本・岡本1955:30-32)。

3月 夏大豆小豆大角豆刀豆蒔付申候事
5
月 差入頃より粟稗小黍胡麻之類相応之地を見合蒔付申候事
7
月 二百十日前後蕎麦胡蘿蔔早蒔蘿蔔蒔付申候事
9
月 中之頃小麦空豆豌豆蒔付申候事
10月 中之頃より麦蒔付申候尤山奥陰地之儀者十一二日前ニ蒔付申候事

これによって近世後期にはアワ・キビ・ヒエ・ソバ・ムギ・マメ類が作られていたことが分かる。

『大島郡大観』によると、19111916年の5ヶ年平均の大島郡主要穀物の生産高は、米43,931石、麦26,756石、大豆1,544石、小豆657石、豌豆274石、蚕豆577石、粟677石、黍329石、蕎麦487石となっている(小澤・村上1920:200-201)。また『久賀町誌』によると、旧久賀町では1939年の時点でもアワを5.3町で39石、キビを9.7町で164石、ソバを0.4町で5石、それぞれ収穫している(久賀町誌編集委員会1954:295)。キビはダイズとともに田のアゼに作られることも多かったようで、同書には「殊に畑能庄に於ける耕作風景の一つの特色は階段をなす水田の畔に二三尺間隔に見事にならんだキビの穂の出た姿である。その下には大豆が青々として畔をうめている」と書かれている(同前:296)。

筆者が周防大島の80代後半から90代にかけての高齢者に聞いたところでも、特に戦前戦中はアワやキビを糯米と混ぜて粟餅や黍餅と称して食べ、またソバを粉にひいて団子にして食べたということだった。

 戦後も一部地域では雑穀が栽培されていたようで、宮本は196410月に浮島の江ノ浦でアワの写真を撮っている(写真1)。『私の日本地図9』に掲載されたこの写真には「アワを乾す」というキャプションが付されている(宮本1971:122)。

写真1 浮島で収穫されたアワ 1964年10月5日 宮本常一撮影

サツマイモ

雑穀以上に重要な畑作物として、サツマイモがある。先の「農家年中行事書出」の5月の項には「中より半夏迄之間湿気有之日を見合唐芋之蔓延候分三節懸位ニ切候て植付申候事」と書かれている(宮本・岡本1955:31)。

唐芋(カライモ)というのは、胴が張り、中身が黄色を帯びたサツマイモのことである。これは琉球から薩摩を経由し、正徳元(1711)年頃には伊予大三島にもたらされ、それが周囲に広がっていったと考えられている。周防大島に伝わり、大島郡全体に広がったのは18世紀半ばの宝暦年間(17511764年)と推定されるが、その根拠として宮本が『東和町誌』であげていることは主に二つある(宮本・岡本1982:399-401)。

一つ目は、18世紀中頃に豊後姫島の者がサツマイモを周防大島に求めたとする『遊姫島記』の記述である。周防大島からイモを持ち帰ったのだから、すでに周防大島ではイモが作られていたことになる。

二つ目は、19498月に宮本自身が周防大島和田で平原翁という高齢者から聞いた口碑である。聞取りをしていた当時作成したと思われる「周防大島民俗聞書稿」には次のように書かれている。

「このあたりは、昔は土地[水田]を自分で作っても年貢のためにとりあげられて半作ものこらなかったので、力を入れて作るものも少なく、麦を主として食べた。米と麦を半々にたべる家はよほどよい家であった。[/]芋[甘藷]には年貢がなくて、作りほうだい食いほうだいであった。芋をこの地で作るようになったのは古いことでない。[/]その言いつたえによると、ある百姓家へ博労が来てとまった。その人が、イモというものがあり、味もいいと話したので、種をもらうことにした。それを植えてみると、蔓がのびて垣にはいあがった。そして蔓ばかりのびてイモはつかなかった。そこで困っていると博労が来たので、今度は作り方をならった。イモを植え、その蔓をとって植えるとよいとのことであった。それからこのあたりで作るようになったといわれている。[/]平原翁の祖父の曽祖父の子供の頃には、子供がないていると「泣くな泣くな大根をやいてやるぞ」と言っていたと、祖父なる人が話した。しかし、祖父の子供の頃にはイモはあったという。だいたい二〇〇年あまりまえにはやり出したものではなかろうかといわれる。[/]それ以前には夏作には稗を多く作った。しかし平原翁の若い頃には、もうなくなっていた」(宮本2021:99-100)。

 周防大島におけるサツマイモの普及時期とその前後の食生活を知るうえで示唆に富む聞書きである。また、サツマイモが藩政府の奨励によってではなく、あくまでも民衆の手を介して伝播していたことも注目される。

島にサツマイモ栽培が伝わったことで夏作の中心はアワ・キビ・ヒエ等の雑穀類からサツマイモにかわった。その結果、島の人口は18世紀中頃から19世紀中頃にかけて、25000人余りから6万人を超えるまで膨れ上がる。宮本は『甘藷の歴史』のなかでこの人口増加について、「しかも水田もひろく、生活条件もずっとよい西部の方が二倍、畑ばかりで水田もろくにない生活レベルのひくい方で三倍になっている。甘藷の効用としか考えられない」と述べている(宮本1962:170)。

 夏作のサツマイモに対し、冬作の中心は麦だった。その麦にはオオムギ・ハダカムギ・コムギの3種があり、田と畑の双方で栽培していた。下表は『久賀町誌』によって旧久賀町における麦の作付面積と収穫高を示したものである(久賀町誌編集員会1954:294-295)。もとはオオムギの生産が主であったが、明治30年代にはほとんど作られなくなり、田を中心にハダカムギが100町余で作られるようになる。コムギは熟期が遅れるため、田よりも畑で作られることが多く、大正121923)年には畑だけで64町作られ、ハダカムギを上回る。昭和131938)年にはコムギがハダカムギに完全に取ってかわり、主座についている。これは「米食の普及から麦飯をたべるものがへり、利用度の多い小麦にかわつた」ためと説明されている(久賀町誌編集委員会1954:295)。

耕地
種別
作付面積 収穫高
大麦 小麦 裸麦 大麦 小麦 裸麦
明治34
(1901)
0.5町 15.7町 104.5町 120.7町 8.1石 188.4石 1515.2石 1711.7石
0.1町 40町 4.3町 44.4町 1.2石 320石 43石 364.2石
大正2
(1913)
  14.2町 113.9町 128.1町   170石 1879石 2049石
  37町 12町 49町   370石 72石 442石
大正12
(1923)
0.41町 17.8町 55.2町 77.1町 50石 194石 584石 828石
0.6町 64町 3町 67.6町 6石 640石 26石 672石
昭和13
(1938)
2.2町 98.5町 25.6町 126.3町 21石 1513石 378石 1912石

ただし、この傾向は全島的なものではなかった。旧東和町を中心に水田の少ないところでは、依然としてハダカムギの栽培が主であり、その混合比率の高い麦飯が食べられていた。筆者が聞いたところでは、特に水田がほぼ皆無だった佐連と対岸の沖家室島の場合、米よりも麦の比率が高い麦飯が日常的に食べられていた。戦後でも子どもは学校に持参した弁当を食べるのに、麦がしっかり入った麦飯を見られるのが恥ずかしく、弁当の蓋で隠しもって食べたという。

筆者が周防大島東部でお話を聞かせてもらっている8090代の高齢者は、口々に「わしらはイモと麦で育った」と話される。それが、もう少し若い世代になると、「ミカンで育った」と話される。周防大島の農業は比較的短い時間スケールのなかでも、めまぐるしく変化しているのである。(つづく)

引用参考文献

・板垣優河2025「宮本常一と縄文文化食の問題を中心に」『京都府立大学考古学論集考古学研究室30周年記念』(京都府立大学文化遺産叢書第34集)、京都府立大学文学部歴史学科、1-12
・小澤白水・村上岳陽1920『大島郡大観』、大島新聞社
・久賀町誌編集委員会1954『山口県久賀町誌』、山口県大島郡久賀町役場
・宮本常一1959「畑作」『日本民俗学大系』第5巻、平凡社、49-74
・宮本常一1962『甘藷の歴史』(双書・日本民衆史7)、未來社
・宮本常一1971『私の日本地図9・瀬戸内海 周防大島』、同友館
・宮本常一2021『周防大島民俗誌 続篇』(宮本常一著作集第52巻)、未來社
・宮本常一・岡本定1955『周防大島 天保度農業問答・嘉永度年中行事』、日本常民文化研究所
・宮本常一・岡本定1982『東和町誌』、山口県大島郡東和町

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