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宮本常一と農業 その8 宮本家の経営
宮本研究|2025年12月22日|板垣優河
市五郎による農業経営
次に宮本常一の家ではその父祖の代においていかなる農業経営が行われていたのかを検討する。その際に参考にするのは『日本残酷物語』第4部所収の「家のうつりかわり」である。本書は無記名方式で執筆されているが、「家のうつりかわり」の末尾には「以上は宮本常一氏の家の曽祖父、祖父、父三代にわたる歴史であるが、名もなき農民たちにとってはまったくあえぎつづけだった明治がそのあいだに大正にかわったのである」と書かれている(平凡社1960:330)。このことから、本節は宮本の執筆原稿をリライトしたものであることが分かる。以下、これを軸にして宮本家の経営を振り返る。
宮本の祖父市五郎(1846~1927年)は次男だったが、兄と弟は大工になり、自身は大工が肌に合わなかったので生涯農業をして通す気になり、宮本家の後を継いだ。実際に村の中でも最も円満な家の一つだったというが、幕末の長州征伐の頃に伊予から戻ってきた弟が赤痢を患い周囲に伝染し、まず父を失った。また兄がつくった借銭を引き受けることになり、さらに追い打ちをかけるように近所の子どもの不始末で自家だけでなく隣家2軒を焼いてしまい、村での社会的地位を失った。「家のうつりかわり」には次のように書かれている。
「借銭を払うために小作もはじめた。十俵とれる田であったが、里田だというので年貢は六俵であった。それをよく稼いで十二俵とれるまでの田にした。山を伐って畑もひらいた。昼は他家に稼ぐので、夜の仕事であった。石の多い山をくずして、大きい石は石垣に用いて段畑にし、小石は篩でふるってとりのぞいた。松明のあかりで作業したのである。そんなにしても借銭の利子を払うのがやっとの事で、借銭はなかなか減らなかった」(平凡社1960:318)。
ただし、市五郎の妻かね(宮本の祖母)は、市五郎がどんなに忙しく働いていても、めったに田畑へ出ることがなかった。当時この地では麻糸紡ぎや機織りが盛んで、大工として男性が出稼ぎをしている家を除き、女性が田畑に出ることは少なかったという(宮本1960:164)。
いずれにせよ借銭は増える一方で、市五郎は60歳になる前に隠居し、借銭の方をその長男、つまり宮本の父につけてもらうことにした。
善十郎による農業経営
宮本の父善十郎(1873~1932年)は、米麦を作っているだけでは一生頭があがらないと考えた。そこで綿打ちを始めるが、外綿が入ってたちまち仕事に行き詰まり、ついで広島の染物屋へ奉公に出るが、それも成功しなかった。そこで、1894年に南洋のフィジー島に渡って甘蔗栽培に従うが、南洋の風土が合わず病死者が続出し、1年もせずに帰ってきた。
当初善十郎は市五郎が精魂を傾けていた農業を否定し、出稼ぎに活路を見出そうとした。しかしそれらが悉く失敗した後は、郷里を健全にしつつ、そこで農業を合理的に営むことを考えるようになった。
善十郎が農業に着手した頃、宮本家が経営していた田畑は6反余あり、それが4ヶ所に分散していた。最も遠い所で片道30分を要し、車が通じる所はなかったという(宮本1975:159)。米麦を作り、日雇稼ぎをしているだけでは破産するしかなかったので、思い切って養蚕に切り替えることにし、三田尻にあった養蚕講習所に入った。また頼母子によって資金を得、それで家を建て替えるとともに山林を買い入れ、桑園をひらくことにした。さらに白木山の共有林を借りて開墾に取り掛かり、ついに桑畑6反を得たのだった(同前:159)。
努力の甲斐があって養蚕は成功し始め、抱えていた借銭は次第に解消されていった。それを見て、周囲でも蚕を飼う者が現れた。善十郎は郷里で養蚕の指導にあたった。しかし、蚕ができすぎて桑が不足したり、病蚕を出して全滅したりすることもあった。そうした時、村人は善十郎を非難した。善十郎は責任を感じても、彼らを経済的に救うことはできなかった。
昭和に入り養蚕が不利になると、善十郎は隣の日良居村でミカンが成功していることに目をつけ、計画的にミカンの接ぎ木を始めた。毎年数千本を接ぎ、貧しい者には無代で分かち、わざわざその畑へ植えてやったりもした。村にミカンの出荷組合をつくったのも善十郎だった(宮本2002:100-101)。昭和初期の不況も、ミカンを作っているところでは打撃が少なかったという。その不況が落ち着きを見せ始めた頃に善十郎は亡くなった。
保守と進取の二面性
このように、宮本家では当初米・麦・芋を作る農家として生計を立てていたが、人間的な関係からひとたび借銭ができると急に生活が苦しくなった。ただ懸命に働いているだけでは借銭を払いきれないので、現金収入になる仕事を考えなければならない。そこで善十郎がまず起こしたのが養蚕であり、次にミカン栽培だった。善十郎による農業経営は時々の社会経済状況に応じて相貌を変えるものだったが、それは程度に差はあるものの、周防大島の農業を貫いている全体的な傾向でもあった。宮本家はその先鋒を務めた家の一つということができよう。
しかし、そうした進取的な側面がある一方で、保守的な側面も多分に見られた。善十郎が養蚕を始めた際、市五郎は蚕を飼うことには反対しなかったが、先祖からの畑を桑畑にすることには反対だった。そのため善十郎は桑畑を作るために開墾をしなければならなかった。『忘れられた日本人』に収められた「私の祖父」には次のように書かれている。
「この開墾事業に祖父が協力したのを見た記憶はない。父も祖父をそういう作業に連れ出そうとはしなかったようである。養蚕はまったく父と母の仕事であった。[/]しかし祖父はもとからの畑や田の管理をした。ムギをつくり、イモをうえ、アワをまき......そういう仕事をくりかえしたのである。そして藁仕事は一手にひきうけていた。つまり、もとからの生き方を生きぬいたのである。[/]「納得のいかぬことをしてはならぬ」というのが祖父の信条で、蚕をこうて金をもうけることは大切だが、そのために、米麦をつくる場所をせまくすることには賛成できなかった。だから自分は古いことをまもったが人には強いたわけではない。自分だけは自分の納得のいく生き方を生涯通したかったのである」(宮本1960:172-173)。
同書で宮本は、そうした市五郎の生き方を農業経営の合理性を抜きにして肯定的に書いているように見える。宮本が父祖から受け継いだ農業には、保守と進取の両面があり、宮本はその二面性を抱えながら農業の問題に取り組むようになる。(つづく)
引用参考文献
・平凡社1960『日本残酷物語』第4部
・宮本常一1960『忘れられた日本人』、未来社
・宮本常一1975『農業技術と経営の史的側面』(宮本常一著作集第19巻)、未来社
・宮本常一2002『父母の記/自伝抄』(宮本常一著作集第42巻)、未来社
