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昭和14年中国地方調査ノート その5 焼畑
資料紹介|2025年5月13日|板垣優河
焼畑の記録
宮本は晩年、「日本文化形成史」と題する仮説の構築に取り組むなかで、縄文文化を起点として日本文化の形成過程を見定めようとしていた。そのなかで彼が考える縄文文化とは、ある面においては農耕文化、それも畑作文化と呼べるものであり、縄文時代にはすでに農地を移動する形式での焼畑が行なわれていたと考えていた(板垣2025)。
宮本は戦前、宮崎県児湯郡東米良村、同県東臼杵郡椎葉村、高知県土佐郡本川村(現吾川郡いの町)、石川県石川郡白峰村(現白山市)、同県鳳至郡門前町(現輪島市)、山梨県北都留郡棡原村(現上野原市)などで焼畑について詳細な聞き取りを行ったと述べている(宮本1981:111)。だが残念なことに、それら記録の大半は昭和20(1945)年7月の大阪堺の空襲で焼失してしまい、検討することができない。しかし、戦災をまぬがれた記録もある。昭和14年の中国地方調査ノートはその一つである。
島根県鹿足郡蔵木村金山谷(現吉賀町)のところでは、「ハタ」として次のように記録している。「土地ノヨイヤマヲミテ、夏土用ニ刈ル。[/]小サイ木ヤ草ノトコロヲヤク。ジブンデイルダケヤク。[/]ホトリヲ[ノ]草ヲアケテオク。[/]カハイタラ、スグ火ヲイレテヤク。五日、六日目ニハヤケル。[/]ハジメノトシハソバ、ダイコ。シンバタヲ刈ツタ。[/]アヅキヲ主ニウエル。アハヲウエルコトモアル。[/]二年、三年フルハタ。[/]次ハトコロニヨツテ杉ヲウエルコトモアリ。[/]コーゾヲウエル。大抵十年クライツクル」(板垣編2025:93、写真1)。
ここでまず注目したいのは、焼畑のことを「ハタ」と書いていることである。周防大島でも焼畑のことを「ハタ」と称し、「畑」の字をあてることが多かった。「キリハタ」と称することもあった。これに対し、その当初から段々畑としてひらかれたものは「シラバタケ」と称し、「畠」の字をあてることが多かった(宮本・岡本1982:52)。周防大島には地家室や久賀、屋代の奥に「畑」という在所があり、いずれも「ハタケ」とはいわないで「ハタ」と呼んでいる。そうした所では焼畑が行われていたと推定できる。
現に宮本は久賀で焼畑のことを記録していた。久賀町調査メモ(文書3-5/0035/01/00)には、昭和55(1980)年11月21日の聞書きとして、「畑デ山ヲヤイタノヲ、ダイコンヲマクタメニ、山ヲヤイテイタ。70年以上ニナル。[/]山ヘ火ヲツケルト、山火事ニナルコトアリ。ダケ、カノーガミナヤケタコトアリ。[/]2度ヤケタノヲオボエテイル」と記している(写真2)。焼畑に際して山火事になり、嵩山や嘉納山まで延焼することがあったようだ。
また、周防大島の南岸には佐連(され)という在所もあるが、この地名も焼畑を連想させる。飛騨や美濃では、焼畑をやめて山に返したところを「ゾウレ」や「ゾウリ」と呼んだが、そこからの転訛と考えられる「ソリ」という言葉が周防南部でも使われていた。「森反」と書いて「モリゾリ」と呼んでいるところが室津半島にある。佐連では島北岸の人びとが焼畑をするために山を越えて来ており、その山路を「焼山越え」と呼んでいた(以上、宮本1959:51-52)。
さて先の金山谷では、夏土用に草を刈り火を入れた後、1年目は「シンバタ」と称してソバやダイコンを作った。続く2年目と3年目は「フルハタ」と称してアズキやアワを植えた。そして4年目はコウゾを植えて10年ほど作った。所によってはスギを植えたという。
宮本は山口県玖珂郡高根村向垰(現岩国市錦町)でも焼畑のことを聞いている。調査ノートには「ハジメニ木ヲキリツケテ、土用ヲマツテ火ヲイレタ。[/]各自デヤク。ヤイタアトヘソバ、カブラ、マメヲマク。[/]次ニソノ翌年コーゾ、ミツマタヲウエタ。[/]コーゾ、ミツマタガナクナツタノデ、ヤラナクナツタ。[/]ヤキハタハ共有山ガ主デアツタ。[/]サイシヨ、キヨユー山ヲキルニモ、別ニ何ノコトワリモナシニヤツタモノデアル」と記している(板垣編2025:99-100)。
向垰の場合は1年目にソバやカブ、マメ類を作り、2年目は紙の原料であるコウゾやミツマタを植えていた。なお、調査ノートには、「カミニシナイデムシテ、ヘイデ、ウリ出シタ。[/]カミヲスクコトヲシラナカツタ。[/]ウサゴー[宇佐郷]デ少シスイタ。[/]コーゾハ六日市ヤラフカス[深須]、岩国ノ方ヘ出シタモノ」とある(同前:71)。向垰では紙にしないで皮を剥いだものを島根県の六日市や山口県の深須・岩国の方へ出していたようだ。
金山谷でも向垰でも、焼畑の前半は自給目的で穀類や根菜類を作ったが、後半では換金目的でコウゾやミツマタを作った。こうした輪作パターンは、宮本が昭和14年8・10月に作成した奈良県吉野西奥地方の調査ノートでも確認することができる。
吉野西奥調査ノートにみる焼畑
宮本は中国地方を調査した同じ年(昭和14年)に、吉野西奥地方も調査していた。両地方の調査ノートを比較すると、総じて吉野西奥の方が焼畑に関する記録が厚い。このことは、吉野西奥の方が遅くまで焼畑を行い、その体験伝承も比較的濃厚に分布していたことをうかがわせる。中国地方の記録と対照させるために、しばらく吉野西奥地方の焼畑に関する記録を検討する。
宮本は昭和14年10月に訪れた奈良県吉野郡天川村中越で、まず「野山ヤキ」として次のように記録している。「観音山ハ三月十八日ニマイルマヘニ、百町歩ノトコロニ火ヲツケル。[/]十八日ハ山ハマツクロニナル。[/]ワラビ、ゼンマイガタクサン出ル。ウドモ多クナツタ。[/](ヤケヌコトニナツタノガ明治40年ゴロ)[/]火ヲツケテ三日位ホツテオク。[/]モチマヘノトコロヲヤイテオクト、ヨイカヤガハエル。[/]之ヲカル。シタキカリトイフ。[/]下カラ火ヲツケルト、シカガマルヤケニナツテトンデイツタトイフ」(田村・徳毛2019:46-47、原資料との照合により一部改変、以下同様)。「野山ヤキ」と称する営みとその結果は、狩猟・採集から焼畑への移行を想起させるものである。後に宮本は「日本文化形成史」のなかで、「焼畑は、狩猟・採取の延長として発生したものではないか」と推測するようになる(宮本1981:111)。
天川村中越では焼畑のことを「キリハタ」と称していた。調査ノートには次のように記している。「キリハタハ、夏エンテンニキリ、8月ニヤイタ。[/]正月スルトイツテキル。ササノトコロ。[/]4月、5月ニヤイテ、ヒエ、アハヲマイタ。[/]第1年ヒエ。[/]第2年アハ。[/]第三年目タダイモヲツクル(サトイモ)。[/]一所三年マデツクリ、ソレカラシヨクリンシタリ、カリバニシタリシタ。[/]ササノナイ所ハ、夏キツテ8月ニヤイタ。[/]ソバナドヲマイタ。[/]8月ニヤクモノ、第1年ソバ。野菜モツクル。マナトイフ菜ガ多カツタ。[/]カブラナモアツタ。[/]第2年アハ。[/]第3年タダイモ」(同前:47-48、写真3)。焼畑には4、5月に焼く場合と8月に焼く場合があり、それぞれで年次作物が異なっていたことが分かる。そして後者の作物には、中国地方と共通するものが見られる。
さらに中越では「ヤブイリ」という言葉も記録している。「盆正月ノ16日ニヤブイリスル。[/]家ニヨレバ、正月三ケ日ガスンデカラヤブイリスル風アリ」とある(同前:52)。「ヤブイリ」とは興味深い言葉である。
同じく昭和14年10月に訪れた奈良県吉野郡十津川村玉置川では「スギ山ヲキツタアトヲヤイテ、アハ、ヒエ、ソバヲツクリ、又スギヲウエタ。ツクツタノハ2年。[/]イモ(タダイモ)。[/]ヒイレハ、ナツカレタトキニ、グルリヲアケテ(ホソキアケ)、ユイデヤイタ。[/]ヨメニイツタムスメガ、ムコトテツダイニモドル。[/]之ヲヤブイリトイツタ」と記録している(同前:182)。また、昭和14年8月に訪れた奈良県吉野郡大塔村篠原(現五條市大塔町)では、「ヤブイリ」について「キリハタスルトキ、ヨメノウチヘボタモチト酒一升モツテ、夫婦デテツダヒニイク。スルトフジノキモノ一枚、シウトノウチカラクレタ。今ハカマ一枚ヲクレル。春秋二回イツタ。[/]仕事ハタネヲマクナリ、ヤマヲヤクナリシテクル。[/]春四月、秋八月ニ行フ」と記している(同前:122-123)。
焼畑をするには、まず木を伐り、山を焼く必要がある。これには相当の人手を要する。たいていは隣近所や親戚同士が組んで「ユイ」の方式で行っていた。その際、嫁に行った娘がその婿とともに手伝いに戻ってきた。このことを吉野西奥では「ヤブイリ」と呼んでいたのである。宮本は『民俗のふるさと』のなかで、焼畑地帯におけるこうした風習・言葉が、後に「盆正月の里帰り」に転用されたのではないかと述べている(宮本1975:28)。これは外に出ている者と郷里をつなぎとめるイベントという見方もできる。先の記事で紹介した周防大島自光寺における5月3日の「イデソージ」なども、そうした観点から捉えることができるのではないかと思われる。
焼畑の意義
宮本は焼畑について、「むしろ本業というよりは余業的なものであった場合が多い」と指摘している(宮本1959:52)。調査ノートにみるように、吉野西奥では杉を伐った後に火を入れ、ヒエ・アワ・ソバ等をしばらく作ることがあった。また焼畑後に植林をすることもあったが、このような輪作パターンは中国地方においても見出されていた。高知県山中でも焼畑はコウゾ栽培と密接な関係にあり、山中で焼畑をしばらく行い、土が痩せて耕作に適さなくなるとコウゾを植え、10年ほど作って再び山に返したという。天竜川中流の村々でも焼畑跡を利用してコウゾを栽培していた。それが最大の収入源になったという。熊本県の五家荘や五木村では焼畑をした後に生えてくる茶が重要産物の一つになっていた(以上、宮本1963:180)。
中国地方や吉野西奥地方の調査ノートから言えることは、焼畑は食料獲得手段としてのみならず、人工造林や換金作物育成の効果的手段として行われる場合があったということだ。焼畑には自給的な要素とともに、換金的な要素もあり、山間の人々はそれら要素を複雑に絡ませながら山を焼いていたのではないかと思われる。
なお、宮本は食料自給を主目的とした焼畑について、福井県大野郡石徹白村(現岐阜県郡上市白鳥町)や青森県下北地方で詳細な記録を作成している。これらについては別の機会に検討することにしたい。(つづく)
引用参考文献
・板垣優河2025「宮本常一と縄文文化―食の問題を中心に―」『京都府立大学考古学論集―考古学研究室30周年記念―』(京都府立大学文化遺産叢書第34集)、京都府立大学文学部歴史学科
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・田村善次郎・徳毛敦洋2019『宮本常一農漁村採訪録21 吉野西奥調査ノート』、宮本常一記念館
・宮本常一1959「畑作」『日本民俗学大系』第5巻、平凡社
・宮本常一1963『開拓の歴史』(双書・日本民衆史1)、未来社
・宮本常一1975『民俗のふるさと』(日本の民俗第1巻)、河出書房新社
・宮本常一1981『日本文化の形成』遺稿、そしえて
・宮本常一・岡本定1982『東和町誌』、山口県大島郡東和町