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昭和14年中国地方調査ノート その6 様々な食べ物① リョウブ
資料紹介|2025年5月20日|板垣優河
中国各地の食生活
宮本の調査ノートには食生活に関する記録が頻出する。島根県八束郡恵曇村片句(現松江市鹿島町)では「一日三回。[/]田植ニハ、ハシマヲタベル。10時ゴロ。[/]リヨーシハ獣ニク、タマゴナドハ家ニモイレズ、タベモシナカツタ。[/]神サマニタイスルエンリヨ。[/]ミホノセキハ、ニハトリヲカハヌ。[/]アサ...ダンゴデ、ゾースイヲタク。オナカノスカヌタメ。[/]ヒル・バン...ゴハン。畑ガ多イノデ、イモヲフカシテ、夕ハンノ時タベル。オサイトテ、アトデゴハンヲ一ゼン位タベタ。[/]今カンシヨクニ子供ガタベル」とある(板垣編2024:72)。片句での食事回数は基本3回で、田植え時は「ハシマ」と称する間食が加わるが、それでも後述する山間部の村々に比べて多い数ではない。ただ、漁師は神に対する遠慮から獣肉や卵などは一切食べなかった。昼と晩はご飯を炊くが、晩は先にイモを食べてある程度腹を満たし、それから「オサイ」と称してご飯を食べた。
島根県邑智郡田所村鱒渕(現邑南町)では「シホハ浜田、ゴーツ[江津]カラ。[/]他ハヒロシマカラミナ来タ。[/]ヒロシマサカナハトシトリニ来ル。タコ、カキ、ハマグリ、カズノコカラ来ル。[/]北カラ、サバ、ブリ、サハラ、マンサクガ来タ。[/]昔ハオーシキ[大敷]ガ春5~6月サバヲトル。シホヲツケタ。[/]シホサバヲモツテ来タノデ、ソレヲタベタ。[/]カイヘンノモノヤ川越ノモノガカツイデ来タ。[/]アキニハ、マツリジブンカラマンサクガ来ル。シホヲ十分ニイレテモツテ来タ。コレガマツリザカナデアツタ。[/]イカガ北カラ来ル」とある(板垣編2024:110-111)。鱒渕では外から買わねばならないものが多く、魚や塩は日本海側から運ばれてくることが多かった。年取りの魚は広島から来ていた。日本海では春5~6月に大敷網が行なわれ、塩漬けにされたサバが運ばれてきた。秋祭りの頃にはマンサク(シイラ)がやはり塩漬けにされて運ばれてきた。海から離れた農村では、魚は通常塩漬けの状態で食べられていたのである。
広島県山県郡八幡村樽床(現北広島町)では「夏ハ5ヘンタベタ」という(板垣編2025:53)。またカテ飯について、「ナヲキザンデ、メシノ上ニムシテ、ナメシニシタ。[/]オコメノシラメシハ、シアゲニタベル。[/]ダイコ[ン]トヒエノコヲマゼ、メシノ上ニノセテタキ、マゼテタベル」とある(同前:53)。葉物が飯の増量材として多用されていたことがうかがえる。
稗は宮本が調査した時点ではあまり食べられていなかったが、調査ノートには、「キキンヨーイトテ、クサヤネノウエニヒエヲツルシタモノ」と記されている(同前:40)。実際に、宮本は昭和14年11月28日に立ち寄った八幡の宿「蓬屋」で、稗俵を実見している。『村里を行く』には「この宿屋は大きい草葺で天井が高い。その天井に煙で黒くなつた俵が六七俵も吊つてある。稗や蕎麦が入つているといふ事だが、その女さへ何時吊つたか記憶にない程古くからのもので飢饉への用意である」と書いている(宮本1943:236-237)。
ついでに、稗は牛の飼料としても利用されていた。調査ノートには、「ウシヲツカフノニ、アシヲイタガツテコマル。春カラアラオコシヲスルノニ、田植ゴロニハヨーアルカナクナル。モミガラヲタイテ、クハシテミタ。[/]ヒエヲツクツテ、ワラニマゼテクハスト、コエテ、アシヲイタガラナカツタ。[/]ソレデ、ウシヲヒエデカウタ」とある(板垣編2025:40)。この点については、稗がもつ力に目を向ける必要があるだろう。宮崎県東臼杵郡椎葉村では、精白した稗のことを「ヒエゴメ」と称したが、「ヒエゴメ一升アラ男十人」という口誦句が記録されている。稗1升で働きざかりの男性10人の腹を満たすことができたというのである。また、同村では「今村の娘は稗を食うけに足が早い」とも言われていた。稗作地帯では、稗は力のある食物とみなされていたのである(野本2024:427)。
山口県玖珂郡高根村向垰(現岩国市錦町)では食事の質が悪く、「山代ノ七度グイ」と言われるほど食事回数が多かった(板垣編2025:72)。また、灌漑用水路が開削されるまで、水田はなく畑ばかりのところで、米は明らかに不足していた。調査ノートには「米ハヨソカラカウテ来ネバナラナカツタ。[/]畑ヘアヅキ、ダイズナドヲウエ、ソノハヲコイデタベタ。[/]リヨーボノメヲモイデ、ミナタベタ。[/]ソバハ粉ニシテタベル。[/]ムギバカリヲタベタリシタ。[/]103年マヘ[天保7年ノ飢饉]ニ大イニ死ンダ。100年祭オトドシアツタ」と記されている(同前:73)。
また、向垰では「ツリナゾースイ」と称するカテ飯も食べられていた。調査ノートには「夕方ハアキ大根ノハヲトツテオイテ(之ヲツリナトイフ)、之ヲゾースイニイレ、ソバデツナヒデクフ。[/]ソノアトムギメシヲスコシクフ。[/]夕方ノゾースイハ、アサヘノコルヨーニタイテオク。[/]デツチガ二ハイ、クフホドノコシ、アサイモノカシラトゾースイヲ二ハイクヒ、チヤワンユスギトテ、ムギメシ二ハイヲタベタ。[/]カラダノヨハイノハ、ツリナゾースイヲクフノハキラツタ。[/]ナガカタクテノドヘトーラズ、茶デススギコンデタベタ。ハノ丈夫ナモノハソケヲ少クシテ、ゴボリゴボリカンデノンダ。[/]ハラガヘリサヘシナケレバヨカツタ」とある(同前:80)。大根の葉が飯の増量材として多用され、また麦飯の頻度も高かったことがうかがえる。普通イメージする飯とは外観・食感ともにかなり様相を異にするものが食べられていたのであろう。
そして、向垰でも飢饉が頻発していた。最も凄惨だったのは天保7(1836)年の飢饉だった。調査ノートには「キキンノ時ニハナンギシタ。ムシロヲサイテタベタラ、子供ノシヨーベンガシミテイテ、ウマカツタトイフ。[/]宇佐ヘオリルトコロニハカアリ。ウダオレトテ、ウエ死シタモノヲウズメタ。[/]ソコヲ通リカカルト、ツカレテハラガヘルトイハレタモノデアル。モト木ガタツテイテ、サミシイトコロデアツタ」とある(同前:95)。ムシロを裂いて食べたというのは、藁までもが食用にされていたことを意味する。調査ノートには、「甚シイモノハ、ワラモチヲタベタ。[/]ワラノフシトフシノアイダヲキツテ、ムシテ、シイラトイフ米ノヤクニタタヌモノヤソバノ粉ヲイレテ、ウスデツキ、モチニシタ」との記録がある(同前:81)。藁の節と節の間を切って蒸し、屑米や蕎麦の粉をつなぎとして臼で搗き、餅状に成形した「ワラモチ」を食べたという。これは極限に近い食である。
リョウブの葉
中国山地の脊梁筋に位置する村々は、そもそも稲作に不適な自然地理的条件下におかれていた。その対策として、先の記事で紹介した「クグシ」や灌漑用水路の開削工事が行なわれていたが、それでも条件は悪く、凶作や飢饉の影響を受けやすかった。そこで、米麦等の穀類の代用食が盛んに食べられていた。その一つにリョウブがあげられる。
リョウブは、北海道南部から九州にかけての尾根筋や林内に生える落葉小高木で、初夏に房状の白色花序をつける。春に出る軟らかな若葉が食用にされた。
宮本の調査ノートには、リョウブの食法に関する記録がしばしば出てくる。八幡村樽床では「ヤマノリヨーボノ木ヲクウタ。田ウエマヘニタベル。[/]之ヲコメニイレルト、マツクロニナツタガ、ツージガヨカツタ。[/]リヨーボヲタベンカラ、カラダガヨハイトイツテイル」と記している(板垣編2025:40)。広島県山県郡戸河内町本横川(現安芸太田町)では「ジヨーボ」として「ハヲトツテキテ、ユデテ、ヒヨリニホシ、タタキメイデ、粉ニシテ、ゴハント一シヨニタイテタベル。[/]サルスベリニ似タ木デアル」とある(同前:56)。また高根村向垰では「リヨーブハ春四月ニ芽ガ出ル。之ヲタベル。[/]ツンデユガイテ、ホシテ、メシニマゼル。[/]之ハヤマシロ一タイドコデモタベタ。[/]秋大根メシ。ダイコンヲ小サクキリ、之ヲニテ、ソレニ米ヲ大根五升ニ米一升クライイレテタイタ。之モ山代全体ガタベタ。[/]夏ハムギヲ多クタベタ。リヨーブノハヲイレタリナドシテタベタ。[/]20年マヘマデハ之ヲタベタ」と記している(同前:75)。
上の記録によると、リョウブはその葉を飯に混ぜて炊いたり(樽床)、干しておそらく保存した葉を飯に混ぜて炊いた(向垰)。さらに、干して叩き、粉にした葉を飯に入れて炊いたようだ(本横川)。そうした食法は先にみた大根飯に近いものであり、リョウブには大根葉と同様に、穀類の増量材としての役割が期待されていたことがうかがえる。
ついでに、享保13(1728)年から飛騨国代官を務めた長谷川忠崇の『飛州志』には、「栗飯」「令法飯」「栃粥」「栗粥」「葛餤餅」「蕨餤餅」「楢餤餅」「土老餤餅」「百合草子餤餅」「カタコ餤餅」「窶藪餤餅」「ジネンゴ餤餅」といった食品が登場する(岡村編1909:196-197)。近世中期の飛騨山村ではクリや令法(リョウブ)を入れた飯、トチやクリの粥、クズやワラビ、ナラ、トコロ、ユリ、カタクリ、さらには窶藪(ヤドリギ)やジネンゴ(ササの実)で作る団子系の食品があったことがうかがえる。同書では「令法(リヨウブ)」について、「春三月ノ末四月ノ始メ若葉ヲ摘採テ温湯ヲカケテ日ニ干乾カシテ後是ヲ蔵メリ則米殻ニ和テ食フヲ糧飯或ハ夫食ト云ヘリ」との説明がある(同前:195)。
さらに蛇足になるが、同書では「自然粳(ジネンカウ)」について、「ジネンコ竹実也諸州トモニ名同ジ本土ニ於テ正徳ヨリ享保ノ初メ山笹ト云ヘル竹ニ実ヲ生ゼリ[中略]今世見ルニ麦粒ノ如シ則麦ノ如クニ搗テ皮ヲ去リ挽テ粉トナシ餤餅トスルニ潤ナクシテ食ヒ悪シ仍テ米ノ粉ヲ和テ餤餅トセシカバ味ヒハナカリシカドモ食ヒ安カリキ」とある(同前:198)。岐阜県大野郡朝日村(現高山市)に伝わる『宝蓮寺文書』には、天保3(1832)年に山笹の実が結実し、家によっては50俵も100俵もこれを貯え、餅や飯にして命をつないだことが記されている(朝日村1998:242)。実は、宮本の調査ノートにも、向垰のところで「ササニ穂ガ出来ル。ソノホヲコイデ、コニシタモノデアル。ソノアジハオボエテイナイ」と記されている(同前:81)。向垰でも稀に結実する山笹の実を食べていたようだ。
『郷土食慣行調査報告書』との比較
ところで戦時中、中央食糧協力会の主宰により全国各地で郷土食の慣行や食糧事情が調査され、その成果が昭和19年12月に『郷土食慣行調査報告書』として発行されている(中央食糧協力会1944)。500部限定の報告書ではあるが、宮本は昭和27年3月にこの書を入手している。宮本常一記念館で保管しているその宮本蔵書をひらくと、「ジヨウボ食」のところに線引きが見られる(写真1)。中国地方の調査報告を担当した者は「この度私の歩いた山県郡奥地に於ては明治年代中期頃迄用ひられていたリヨウブの葉、栃の実、どんぐり、蓬等が主食の一部として既に食膳に上つて居り、[中略]以上広島県下郷土食慣行の中、主食物の補食として他の山間部に奨励して然るべきはリヨウブの葉の食用化であらう」と、リョウブ食の実用性を高く評価している(同前:378)。
宮本の調査記録とこの報告文は、だいたい同じ時期に作成されており、相互に補完関係にある。リョウブについて、報告文には「古くは広く県下山間部地帯一円にこの食慣行が行はれていたことを推定出来る」とあるが(同前:392)、この点は宮本の調査記録からも首肯することができる。ついでに、報告文ではリョウブの加工処理法について、「五月上旬この木の若葉を摘み、その日の内に茹でる。葉柄が指でつまんで潰れる程度の軟かさに茹つたら絞り上げて筵又は茣蓙の上に拡げて天日に乾す。一時間乾したら寄せ集めて葉がシンナリとなる迄揉む。この操作を二三回繰り返しよく乾燥したら、再び寄せ進めて木槌で叩き粉末にし、篩にかけて精選し、落ちた粉を食用に供する時迄保存する」とある(同前:391)。また食法については、「以前はリヨウブ葉は主食として毎食必ず米飯に混じて、又は米飯と共に摂取されていたものであるがその後暫く廃絶し、最近又毎食といふ程ではなくとも米麦食の不足分を補ふものとして相当量消費されるに至つている」と書かれている(同前:392)。こうした説明も宮本の記録と概ね合致する。なお、粉状食品の貯蔵上の有利性、及びそれを目的とするところの粉砕加工の意義については、柳田國男が『木綿以前の事』のなかで早くから指摘しているところである(柳田1939:112)。
このほか、『郷土食慣行調査報告書』には「くずだんご」「とちだんご」「どんぐり」「きからすうり」「蕨の粉」といった興味深い食品が報告されており、宮本はその随所に線引きをしている。おそらく、自身の調査記録と対照させながら読んでいたのであろう。次回以降もしばらくは調査ノートに記録された様々な食べ物について検討を進めることにしたい。(つづく)
引用参考文献
・朝日村1998『朝日村誌』第2巻
・板垣優河編2024『宮本常一農漁村採訪録26 昭和14年中国地方調査ノート(1)』、宮本常一記念館
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・岡村利平編1909『飛州志』、住伊書店
・中央食糧協力会編1944『郷土食慣行調査報告書』
・野本寛一2024『新修民俗語彙』、柊風舎
・宮本常一1943『村里を行く』、三國書房
・柳田國男1939『木綿以前の事』、創元社