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昭和14年中国地方調査ノート その4 肥料と草刈り
資料紹介|2025年5月5日|板垣優河
水田肥料
大正時代に金肥が入るまで、水田稲作では草肥や堆肥に依存するところが大きかった。宮本は山口県高根村向垰(現岩国市錦町)で「ネセゴエ」という言葉を記録している。調査ノートには「シバクサハ、9月ニイルト刈ハジメル。個人個人デカル。[/]刈リスマスト、イネゴンノーヲスル。ソレガスムト、ソレヲ山カラ下ヘサゲテ、今ゴロカラオヒ出シテ、ユキガフツテシゴトガ出来ナクナルマデニ田ヘオロシ、コギツテ、タイヒヲマゼテネカセル。ネセゴエトイフ。[/]ソレヲ田ヲ、アラオコシヲシテ、ソレ[ネセゴエ]ヲフル人モアリ。[/]ナカヅクリヲシテフルモノモアリ」とある(板垣編2025:98)。向垰では夏に刈った草に堆肥を混ぜたものを「ネセゴエ」と称し、田にすき込んでいた。
また、広島県八幡村樽床(現北広島町)では「スシ」について、「クサヲ8月15日カラ山デ刈ツテ積ム。[/]牛ニフマセルノデアル。1疋ノ牛デ千把要ルトイフ。[/]一スシ150把カラ200把デアル」と記録している(同前:34)。また草刈りについて、「クサハ盆ガスンデカラ、ホンクサヲカル。[/]田ウエノドロオトシヤスミガスムト、コエクサ、ダヤゴエヲ刈リニイツタ。[/]クミニカルトテ、テマガエデ馬ヲオウテ山ヘ刈リニイツタ。[/]マゴウタヲウタツテ、ノンキナモノデアツタ」と記している(同前:39)。樽床では草をそのまま田に入れるのではなく、夏のうちに刈った草を「スシ」と称して積んでおき、それを牛に踏ませてから田に入れていた。
さらに、島根県匹見上村三葛(現益田市匹見町)では「ダヤゴエ」と「アオシバ」いう言葉を記録している。調査ノートには「草刈場ハ田ノウシロニアリ。二ツニ分ケテ隔年ニ刈ル。[/]8月下旬カラ刈ル。[/]モトハ手ツダヒアヒデ刈リ、近頃人ヲヤトウテ刈ル。[/]クサノートカ、クサツクロートカ云フテイル。[/]ツンデアルノハ牛ニフマセル。ダヤヘヒロゲル。[/]ダヤゴエト云フ。[/]5月ニ田ヘササヲ刈ツテイレル。アオシバトイフ」とある(同前:58)。三葛では田に付属する草刈り場を「クサノー」や「クサツクロー」と呼んで二分し、隔年で刈っていた。草刈りは5月と8月下旬に行い、5月に刈った笹は「アオシバ」と称して田に入れ、8月下旬に刈った草は「ダヤゴエ」と称して牛に踏ませてから田に入れていた。
田所村のササカリ事件
島根県田所村鱒渕(現邑南町)の調査ノートには、「夏中クサヲカツテ、牛ニフマセテ、ツンデオイテ、冬中ワラヲフマセタモノヲ春アラカキヲシテ、田ヘオヒコム。ツライシゴトデアル。ソノ時ニハ、テマガエヲスル。4、5軒ノ人ガクンデオコナフ」とある(板垣編2024:117)。ここでも堆肥化した草や藁を田に入れていたことがうかがえる。
また、調査ノートには、「共有山ハ、イリアヒヤマトイヒ、タキギヲトリニユキ、又草ヲカル。[/]ヨイ草ヲ刈リ取ルノデ、山ガアレタ。[/]明治12年ニ所有ケンヲタシカメタノデ、田地ノ反別ニオージテ反別ワリニシタリ、戸別割ニシタリシタ。ソレカラ山ヲ大切ニシタノデ、木ガタツテ来タ。[/]所ニヨツテハ、所有者以外ハイレナイトイフ地モアルガ、タケガリ[茸狩り]、フジナトリ、コーランナドハ、ドノ山ヘハイツテモヨイコトニナツテイル」とも記されている(同前:117-118)。共有山は「イリアヒヤマ」(入会山)と称して草を刈り木を伐ることができたが、明治12(1879)年の地租改正に際して所有田地に応じて反別割にし、また戸別割にして各自所有にした。ただし、キノコ等は引き続きどこでも採取できたという。これは入会山時代の名残ということができる。
そうした入会山において、明治16(1883)年に「ササカリ事件」という事件が起こった。これについて『中国山地民俗採訪録』では「『粒々辛苦』に見えていると思うから略す」として報告が省略されている(宮本1976:33)。ただし、その『粒々辛苦』には「笹刈」についての記述はあるものの(田中1941:10)、事件の詳細については書かれていない。宮本の調査ノートには、この事件のことが次のように記されている。「マスブチ[鱒渕]、山田、ヨドハラ[淀原]、イヅハ[出羽]ガ、マノハラ[馬野原]ノ山ヘササカリニイク。田地ノコヤシニスル草ガナイタメデアル。[/]ソレガムカシカラノシウカンデアツタ。[/]明治16ゴロマデ、若イ男女ガ大ヘンナ人数デカリニイツタモノ。[/]之ヲマノハラノモノガ申シアワセテトメルコトニシタ。[/]ササヲカルニハ、ササヘ樹木ノエダヲ少シデモカリソヘテオレバ、刈ツタニモツヲトリアゲルトイフオキテアリ。[/]ソコデササノニヲ、マノハラノモノガアラタメタ。[/]ニヲアラタメルトイフコトハ、今マデナカツタノデ、木ノ枝グライミナソヘテイル。ソレデササノ荷ヲミナトツタ。[/]ソレヲ二日ツヅケタ。[/]ソノタメ、マスブチヲノゾイタ他ハ戸長ニウツタヘタ。[/]一方馬ノハラハ、ササカリニハクルナトイフコトニナツタ。ソノタメ、ウツタヘタ。[/]マスブチハ少シササカリ料ヲ出スコトニシタ」(同前:118)。
馬野原の入会山では笹の刈り出しは認められていたが、樹木の枝の切り出しは認められていなかった。その協定が破られたことから起こった事件のようだが、それにしても、そもそも田に入れる笹を刈るために、大勢の男女が山に上がっていたということに驚く。田を肥やすには、笹でも入れなければならなかったのである。
周防大島の草肥使用
周防大島でも、かつては草肥が多量に使用されていた。以下、筆者が東屋代で聞いたことを記す。
現在は肥料が充実しているが、戦前は肥料といえば山や野原で刈った草をすき込む程度だった。その頃は1反につき米4、5俵の収穫しかなかった。夏のうちに山で草を多量に刈り、それを干しておく。これを「カリボシ」という。草はカサカサに乾くと腐らないものである。それを山小屋や屋敷の付近で束にし、積み上げておく。これを「カリボシグロ」という。野積みする場合は上に「ボータン」と呼んでいる雨除けを被せた。グロに積んだ草は翌年5月にショイコで負い出し、オシギリで短く刻んで水を溜めた田に撒き散らす。草が水を吸い、やわらかくなったところを足で踏み込んでいく。水になじんでいない草はつっぱっており、また草には小枝等も混じっているので、それを踏むと痛かった。
野草のほかにレンゲも田にすき込んでいた。東屋代では、夏は稲を作り、冬は麦を作る二毛作田が多かったが、山の上の方にあり、麦作に不適な田では麦ではなくレンゲを作っていた。これを「レンゲダ」と称した。秋に稲刈りをする前にレンゲの種を蒔いておくと、春にはレンゲが横向きに長く匍匐し、田一面に花を咲かせた。その頃に鎌で刈り取り、数日干して嵩を減らす。レンゲは長いまま田に入れると、犂や馬鍬を通した際に絡むので、オシギリで短く切ってから田に撒くようにした。水を入れる前の田に撒き散らし、すき込んでおくと、田植え前には田の中で腐り、それが良い肥料になった。
東屋代では草を干して田に入れることが多く、先にみた向垰や樽床のように、草を牛に踏ませることはあまりなかった。牛に踏ませて堆肥化するのは稲藁であり、これは畑の肥料にした。まず脱穀した稲藁を牛小屋の中に敷き、「シキワラ」と称して牛に踏ませる。稲藁のなかでも根に近い側はシキワラにし、穂に近い側は刻んで牛の餌にした。シキワラには次第に牛の糞尿が溜まってくるので、定期的に交換する。糞尿の付着したシキワラを外に出し、糞尿の浸みていない藁と混ぜ、「タイヒグロ」と称して積み上げておく。タイヒグロは堆肥小屋に積むほか、野積みにし、上を藁などで覆って雨水が入らないようにすることもあった。そうしてしばらく放置すると発熱し、夏でも湯気が上がるのが見えるほどだった。何度か切り返しているうちに堆肥はポロポロになり、嵩も半分くらいに減る。それを麦や野菜、ミカンを作るための肥料にした。
このように、東屋代では草肥は田に入れ、堆肥は畑に入れることが多く、筆者が聞いた限りでは田に堆肥を入れることはあまりなかったようである。いずれにせよ、草は金肥が普及して以降も肥料として利用されていた。
草刈り場の景観
農家にとって草刈りは、田を肥やすために不可欠な作業だった。宮本は『民衆の知恵を訪ねて』のなかで、「中国地方の山間では水田一反について刈草五〇〇貫を使用するのが通例であり、五〇〇貫の採草をするためには、かなり土のよいところで一反の地積を必要とした」と書いている(宮本1963:135)。
先にみたように、匹見上村三葛周辺では田と草刈り場がセットで管理されていた。このことは、人文景観の上にもよく表れていた(写真1・2)。宮本は『中国山地民俗採訪録』のなかで、「この谷で見かけて美しいと思ったのは、田のすぐ上の草刈場である。[中略]ちょうど秋のことだったので霜枯れて赤くなった草山が、一条は濃く一条はうすく、しかも縞のように交互に縦にならんでいるのはじつに美しかった。こうした山のすぐ下にある田はよいとして、平地のなかほどにある田圃の草山はどこにあるものか、とにかく田には草山が一枚ずつあるというのだからどこかにあるのであろう。田の売買にはこの草山がついているとのことである」と書いている(宮本1976:154)。草刈り場は田とともに管理されるだけでなく、田とともに売買もされていたことがうかがえる。


さらに、少しでも良い草が生えるよう、大正頃までは各地で山焼きが行なわれていた。宮本もこれを郷里から目撃している。「私は瀬戸内海のなかの島に生まれたが、春二月から三月にかけて、島の山の上にのぼって見ると、中国・四国地方の山々の方々に煙の立ち上っているのがのぞまれた」と述べている(宮本1963:137-138)。調査ノートには、広島県戸河内町本横川(現安芸太田町)のところで、「山ヲヤイテヒラキ、ソレヲ田ニシタ。[/]マグサヤマヲヤイタコトガアツタ。牛ヲソコデハナシガヒニシタ」とある(板垣編2025:57)。農家にとって、草は牛の飼料としても大切で、山焼きは牧野改良の手段としても行なわれていた。
宮本が幼少時に体験した草刈り
調査ノートには草刈りに関する記録が頻出するが、これは宮本が草肥の必要性を痛いほどよく知っていたことと関係がある。宮本自身も農家の子として幼少時から草を刈っていたが、それは父善十郎の指導を受けてのことだった。
善十郎は大正頃から大豆粕や硫安等の金肥が使用されるようになっても草肥の使用をやめようとしなかった。養蚕が盛んになり金銭収入が増えると、それによって金肥を購入できるが、その結果出費が増えて借銭を作る農家もあった。農業経営の合理化に腐心していた善十郎にとって、それは極めて矛盾したことのように思えてならなかった。そこで昔からの草肥を重視し、幼い宮本にも草刈りの手法と意義を徹底的に叩き込んだのである。宮本は『家郷の訓』で次のように振り返っている。
「父は「近頃の草刈は嘘の様に楽だ。」と言つたけれども遠山へ行つた事のない私には、その楽になつたといふ草刈が一番つらかつた。暑さで汗が吹き出て流れ、之が眼にはいる。それに草はチガヤ(篠ともいふ)が多くてこれで手をきる。手が血みどろになることが多い。さういふ時父は「しつかりと草を握れ、恐る恐る握るからかえつて手をきるのだ。」と言つた。しつかりと握ると草で手をきる様に思へてならなかつたけれども、体験から出た言葉はいつも真理であつた。「手がきれてもかまはん気で握つて見い。」と言はれると、父が無情に思へてうらめしかつた。併し少し深い疵をすれば煙草をつけて手拭をさいてくくつてくれるのは父であつた。手も足も草疵で夜は風呂に入ると痛んで涙がおちる程であつたが、百姓は皆ここをこえて来なければならないのだと父の言葉はきびしかつた」(宮本1943:147-148)。
なお、文中で「遠山」とあるのは、郷里長崎の背後にあった白木山の上、「サンノ」と称する村共有の草刈り場のことである。善十郎の少年時代には「土用刈」と称して朝早くから出掛け、山道を蟻の寺参りのごとく草を背負った人が続いたという(同前:146)。

周防大島のお年寄りに子どもの頃のお話を聞いていると、鎌を持って山に草刈りに行ったという話がよく出てくる。下田では、草木一本も生やさないくらいにきれいに管理している田畑を見て、「あそこは寺のカドのようだ」と言ったという。「カド」とは庭のことである。昭和30年代まで、周防大島では山も田も畑も人の手が行き届き、草木が循環的かつ徹底的に利用されていたのである。(つづく)
引用参考文献
・板垣優河編2024『宮本常一農漁村採訪録26 昭和14年中国地方調査ノート(1)』、宮本常一記念館
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・田中梅治1941『粒々辛苦・流汗一滴』(アチックミューゼアム彙報第48)、アチックミューゼアム
・宮本常一1943『家郷の訓』、三國書房
・宮本常一1963『民衆の知恵を訪ねて』、未來社
・宮本常一1976『中国山地民俗採訪録』(宮本常一著作集第23巻)、未來社