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昭和14年中国地方調査ノート その3 灌漑用水路の管理
資料紹介|2025年5月2日|板垣優河
灌漑用水路の管理慣行
調査ノートには、灌漑用水路の管理慣行に関する記録がしばしば出てくる。宮本は戦前からこれに興味を持って調べていたようで、『大阪民俗談話会記録』には、昭和11(1936)年7月12日に開催された第22回談話会の項に「河泉の灌漑用水(宮本)」と記されている(田村編2012:571)。また、『大阪史談会報』第4巻第2号には「和泉を中心とせる用水文化と民俗」という論考を書いている(宮本1937)。これは宮本常一著作集第19巻に再録されており、その「あとがき」には、「これをきっかけにして各地でいろいろの話をきくことができた。と同時に灌漑のあり方を通して、水田開拓の歴史をかなりはっきりと知ることができるようになるのではないかと思って、少しずつではあったが、聞書きを蓄積していった」と書いている(宮本1975:354)。当然のことではあるが、調査ノートの記録には宮本の興味関心が如実に表れている。
山口県高根村向垰(現岩国市錦町)のところでは、灌漑用水路の管理について、「水ノ多イトキハヘシ、少イトキハオゴメル。[/]総代ハ、イデニカンスル一切ノサイニウサイ出ヲケイサンスル。[/]ソノ他イデニカンスル事故ノシヨリ。[/]総代、イデモリハ区民ノセンキヨ。[/]イデモリ二人アリ。[/]総代4人。[/]井手カラ水ガオチテクルト、小イデニツイテハ各自ノカツテ。[/]水ハ素通シニ来ル。[/]井手ニツイテハ、シウゼン其他ノヒヨーヲ田ニワリツケテ出ス」と記されている(板垣編2025:75)。井手の管理は区民から選出された「総代」と「イデモリ」によって行われていたことがうかがえる。
また、調査ノートには「向垰自彊会記録」の部分筆写があり、その大正10年5月31日の項に、「モト田持中ガシウゼンスルコトニナツテイタガ、小作人モ出テモラフヨーニスル。[/]ミゾテモリ、ミゾ手総代アリ。[/]二百十日前後ニ水ヲオトシタモノデアル。[/]トコロガ耕地整理ガ出来テカラ、ツネニ水ヲトリ、水車ヲ動カシ、且火災ノジユンビノタメニ水ヲトルコトニシタ。ソレデ水番ガ一年中ツクコトニナツタ」とある(同前:107)。灌漑用水路は動力源として、また防災の観点からも重要だったことがうかがえる。
島根県邑智郡田所村(現邑南町)では、灌漑用水路について次のように記録している。長くなるが、この後の比較検討に備え、関連箇所を全て引用する。
「タクサンノイセキガアル。イセキカライデヲヒイテイル。[/]フクロシリイデ[/]下亀谷ノ下ニアル。之ガイヅハマデカカツテイル。[/]之ガ一バン大イデ。[/]所有者デクンデイル。[/]イデカカリ[/]地主ノキノキイタノガ二人イル。[/]ソレガイデヲナホシニ出ネバナラヌトキハ、フレヲシテイデセキニ出サセル。[/]シゴトガシマフト、誰何分ノシゴトトツケテオイテ、年末大キイ地主ヲタチアヒニヨンデ、一年中ノカンジヨーシテ、反別ワリヲシテ、出タブニハチンヲハライ、イデ入費ヲワリアテル。[/]イデカカリノ年数ハキマラナイ。[/]水ハ上ノ田カライレル。[/]春、ハツイデトテ所有者ハミナ出テ、ジブン田ノマハリノミゾヲミナサラヘル。[/]ソシテイデグチニアガリ、バンマデニミゾノソージヲシテ、イデグチヲナホシテ、ミズヲアテル。ソコデ水ヲアテルト、下マデ水ヲヤル。[/]ソレカラナハシロゴシラヘヲシテ、入用ナダケ水ヲトル。[/]エダミゾガアルカラ、ソレカラ田ヘヒク。[/]ハツイデノシゴトガスンダトキ、サケヲカウテ、一パイノンデワカレル。[/]小作人ハ出ナイ。地主ガ遠イトコロノ人ハ、小作人ガ出ル。[/]ジブンノ田ニ水ガヘツテクルト、カツテニイレル。[/]川ノ水ガヘルト、上ノイゼキノ水ヲ少シモラフ。カツテニ...[/]今年[昭和14年]ハ水ガ少クテ、イヅハノ方ニハ水ガトドカヌカラ、水ヲ少シ下ヘヤツテクレト申出タ。ソコデ、上ノミグチヲトメテ、下ノ方ヘ一チユーヤホドヤツタ。[/]ヤガテマタヘツタ。ソコデ、今カラ水ヲバンマハシニシヨートテ、長イイデヲ三ツニワケ、今日ハイヅハ、次ハ中ノ区、次ハ上ノ区ニヤラウトイフコトニシテイタラ、大ユーダケガ来タ。[/]水ノ少イトコロハ、バンミズヲヤル。ミズバンハイナイ。[/]ミグチ[/]水ヲイレルトコロ。[/]ヨケリ[/]ミズノハイルトコロヲ二尺クライオイテ、小サイアゼヲツクル。小サイアゼノサカイニイネヲウエルガ、大キクハ出来ヌ。[/]ミグチニ出来タワルイイネヲ、ミズグチイネトイヒ、今年ハ水クチガ多カツタトカ、少カツタトカ云フ」(同前:15-17)。
田所村では川の所々に井堰を設け、そこから井手をのばして各田に配水していた。井手は「イデカカリ」と呼ばれる者が管理し、井手を補修する時には触れを出した。また「ハツイデ」と称し、春には所有者が総出で自田の周りの水路を掃除した。自田の水が減ると勝手に入れることができたが、昭和14年の水不足に際しては協定になり、隣の出羽村の要望で、田の「ミグチ」(水を入れる口)を止め、下流に水が行くようにした。さらに、「バンマハシ」と称して長井手を三つに区切り、日を限って順番に水を入れるようにした。水が少ないところでは「バンミズ」が行なわれていた。なお、川水は冷たいので、「ヨケリ」と称する畔を経由させ、冷水が直接田に入らないようにしていた。
周防大島におけるイデの管理
宮本の調査ノートと対照させるべく、次に筆者が調査した周防大島自光寺周辺における灌漑用水路の管理慣行について記す。自光寺は周防大島西部の東屋代地区に所在する集落で、山の斜面には棚田をひらいて稲を作っていた。
一般に周防大島東部では、山が浅く水源に乏しいので、溜池を造って田に水を入れていたところが多かった。これに対し、自光寺を含む東屋代では、嘉納山に端を発する奥山川の水を「イデ」を介して利用することができた。なお、『日本国語大辞典』をひらくと、「いで(井手)」について、「川の水をせきとめた所。いせき」、また「おもに農耕用水の水路。用水路。小川」との説明がある(日本大辞典刊行会編1973:251)。自光寺では後者の意味で「イデ」という言葉を使っていた。具体的には、水田地帯をぐるぐるとめぐり、各田に水を落としていく幅・高さともに1尺程度の灌漑用水路のことを「イデ」と称した。そのニュアンスは、先にみた田所村の例とも符合する。

自光寺をめぐるイデは「ニノイデ」と呼ばれていた。このイデは長大で、自光寺14、15軒分の水田を潤していた。なお、より上方を流れる同一のイデは「イチノイデ」という。
奥山川からイデに水を引き込む口を「アテグチ」、イデから各田に水を落とす口を「オトシグチ」と呼ぶ。ニノイデのアテグチはオレンジロード(大島広域農道)の岡田橋付近にある。そこからイデに水を引き込むことを「ミズヲアテル」という。アテグチには木板で栓をしているので、それを引き上げ、川の水をイデに流し込むのである。田植えをするために水をあて、田に水を溜めて以降は、基本的に水はあて放しにする。ただし、大雨になるとイデに流入する水量が著しく増えるので、そうなる前にアテグチやオトシグチに栓をし、田に水が入らないようにした。なお、川のそばにある田では、イデを介さずに川から直接水を引き込んでいた。このような取水法を「テカケ」と称した。テカケができる家は水不足に際しても「バンミズ」(後述)には参加しなかった。
戦前のイデは溝を掘り切った程度のものだったので、途中で水が流出し、下の田まで水が届かないこともあった。イデに穴があくと、赤土を塗って塞いだという。すでに戦前からイデを護岸する工事が始まっていたが、陣頭に立って作業にあたっていた者が出征し、この工事は一時中断になる。その後、昭和17、18年頃に工事を再開し、またイデの延伸にも取り組んだ。戦時中のことで補助を得るのも難しく、セメントを10俵要求しても8俵くらいしか割当がなかった。それで途中からセメントが尽きたので、土管を半截し、それを継ぎ足しながら1kmほどイデを延伸させたという。とにかく、この工事により水はアテグチからあてた分だけ、最下流部の田まで届くようになった。
その頃は自光寺に所在する14、15軒がみんな田を作っていた。自田付近のイデは普段から水が円滑に流れるようにきれいにしていたが、昭和30年代後半から徐々に田を潰してミカンを植えるようになると、イデが荒れ始めた。現在、自光寺で田を作っている家は1、2軒で、それもニノイデの最下流付近の田を作っている。アテグチからその田まで、イデはあちこちを経由して総延長で3kmほどになる。イデに沿い何とか歩けるくらいの小道が続いており、水をあてる際はその道をアテグチまで歩きながらイデの詰りを解消していく。イデには落枝落葉が詰っていることがある。またイノシシが掘ったりモグラが潜ったりすることで移動した泥土がイデを塞いでいることもある。そのためイデの詰まりを解消しながらアテグチまで往復すると、3時間ほどかかる。近年では担い手の高齢化により、そうした作業をすること自体も難しくなってきている。
また、年に1回、「イデソージ」と称し、イデの泥土をさらえ、掃除をする日を設けている。宮本の調査ノートの「ハツイデ」に相当する行事である。その日取りは昔から決まっており、イチノイデの掃除は八十八夜(5月2日頃)、ニノイデの掃除はその翌日であることが多かった。現在は5月3日をイデソージの日として固定している。その日は憲法記念日で必ず祝日にあたり、その日に合わせて島外に移住している者も帰省するため、一家総出で作業にあたることができる。なお、イデソージには、現在田を作っていない家も参加する。田を作っていなくてもイデの水利権は保持しているからである。水利権を持っていれば、夏の日照りに際し、イデの水を使ってミカン等に潅水することができる。
旱魃になると、田に水が十分に行きわたらなくなる。昔は山の陰に隠れ、こっそり自田にだけ水を入れる者もおり、喧嘩になった。その後、田の所有者同士で協定し、時間を限ってイデの水を自田に入れることにした。これを「バンミズ」と称した。順番に水を入れるので、「番水」という字をあてるのだろう。宮本の調査ノートにも「バンミズ」という言葉が出てくる。しかし、その具体的な手法までは書かれていない。
自光寺の場合、イデの上流にある田から時間を限って順に水を入れていった。その時間単位を「ヒトミズ」と称した。乾いた田では水を1時間入れるくらいでは田の端から端まで水が行きわたらず、したがって下の田にも水が落ちない。そこで、1反につき2時間ずつ水をあてることが多かった。その場合、田を2反作っている家は4時間、3反作っている家は6時間、それぞれ水を入れることができた。
例えば、田を3反作っている者が昼の12時から水を入れるように協定すると、夕方6時までは水を入れる権利がある。その際、下流の田の所有者に、「うちでは12時から6時まであてさせてもらうので、お宅は6時からあててくださんせ」と申し伝えておく。そして自田より下流のイデを土嚢袋などでせき止め、自田のオトシグチを開いて水を入れる。もっとも、イデよりもオトシグチの方が低い位置にあるので、多少の水流であればオトシグチの方へ自然に水が入った。夕方6時になると、下流の田の所有者に順番がまわってくる。その田が2反あれば4時間、夜10時まで水を入れることができる。「お宅は10時になったら水をとってくださんせ」と、さらに下流の田の所有者に申し伝える。最後の田が水を入れ終わったら、また最初の田に水を入れる権利がかえってくる。そうして2回りも3回りもして水を入れることがあった。
このように、時間を限ってバンミズを実施すると、当然夜中に順番が回ってくることもある。その時はカンテラを灯して水を入れに行かねばならず、次の家に申し伝えに行くのも一苦労だった。ニノイデは長大で多くの田を潤していたので、なかなか順番がまわってこなかった。なお、与えられた時間よりも前に水を入れ終わったら、そのまま下流の田の所有者に順番を回せばよい。場所によっては年中水がはけない湿田もあり、そうした田では普通2時間を要するところが1時間で済んだ。その場合、隣の田では余分に1時間水を入れることができた。
もっとも、このようなバンミズをやっていたのは戦後でも2、3年である。というのも、先述のように昭和30年代後半になると田を潰してミカン畑に転換する者が増え、そもそも田に水を入れる必要がなくなったからである。そのためバンミズの記憶も忘却されつつある。
ついでに、先にみた田所村では「ヨケリ」と称する装置を設け、水温の低い水が直接田に入るのを防いでいた。これと同様の装置は自光寺でも見られ、それを当地では「ヒヤリ」と呼んでいた。山間の田では冷たい水が直接田に入らないよう、田の周囲に掘り切った溝を経由させてから水を入れるようにした。この溝は、棚田において上の田から浸出する水をはかせるという役割も担っていた。なお、周防大島の秋で聞いたところでは、このヒヤリの部分でワサビを作っていたという。先の田所村ではヒヤリに作る稲は生育が悪く、そうした稲のことを「ミズグチイネ」と称していた。
灌漑用水路の歴史を調べることは、水田の開発、ひいてはその村の成立過程を知ることにもつながる。また灌漑用水路の管理慣行には村の社会組織や制度が組み込まれており、少しでも多く米を作ろうとした人びとの意志も反映されている。宮本はそのことに早くから気付いていたが、周防大島では十分な調査ができていなかった。特に島随一の米どころである屋代地区の調査は不足している。詳細な伝承記録の作成は、今後の課題である。(つづく)
引用参考文献
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・田村善次郎編2012『宮本常一日記 青春篇』、毎日新聞社
・日本大辞典刊行会編1973『日本国語大辞典』第2巻、小学館
・宮本常一1937「和泉を中心とせる用水文化と民俗」『大阪史談会報』第4巻第2号、大阪史談会
・宮本常一1975『農業技術と経営の史的側面』(宮本常一著作集第19巻)、未來社