宮本常一記念館

学芸員ノート

038

宮本常一と農業 その10 幼少期に体験した農業

宮本研究|2026年3月5日|板垣優河

農作業の実際

宮本が幼少期に体験した農業は、具体的にどのようなものだったのか。『家郷の訓』では郷里での農作業について次のように書いている。長くなるが、当時の農作業の実際を知るうえで重要な文章なので、一通り引用する。

「子供の仕事を覚えて行く順序は田の耕作について見ると、先づ田植の苗運びが最初であつた。植えている人たちの後へ運んで行つて丁度よい位の間隔をとつて置くのであるが、之が一仕事ある。少し力が出来ると苗を一々運ばないで投げる。田植がすむと草とりが初まる。田の草はタスリといふもので稲の株間を押して行く。他の地方では之を八反どりとも言つている。大して力が要らないので十歳にもなれば之を使用することが出来る。秋の稲刈には稲運びが子供の仕事である。稲扱きの藁運び、麦蒔の畝起しの時は株切りをする。カブキリといふ先がやや扇形にひらいた鍬があつて、之で稲株の根をきるのであるが、かうすると畝起しが楽である。畝起しがすんで二三日たつと土塊はかはいて来る。すると之をクレ打で打つ。クレ打といふのは柄の長い木槌で、之で大きな土塊をくだくのである。株切にもクレ打にも手にマメが出来てヒリヒリする。手がいたくて手ばかりながめていると、「烏のオドシ(案山子)ではないぞ」と言つてよく父から叱られた。疲れて仕事がいやになつて姿勢が崩れて来ると、腰が曲りすぎているとか、柄の持ち方が根元すぎるとか言つて叱られる。物には必ず持つべきところがあり、腰の曲げ方にも基準があつた。腰をまげている時膝をまげる事もきらはれた。それは野糞する時の姿勢だといふのである。かういふ事が一々やかましく言はれるのは、結局よい姿勢が最も能率的であり、又仕事も楽であつたからである。[/]鍬についている土を手でとつているのを見つけられると必ず叱られた。「手が荒れるに...分らんのか。」という。土は已むを得ない場合の外木の片か何かでおとすべきものであつた」(宮本1943:135-137)。

 「麦蒔の時など野に働いているものには、それぞれにチヤンと秩序があつてそれは美しいものである。土塊を打つのは子供、之をこぎつて行くのは大人。蒔くすぢを切るのは男、種子をまくのは女、肥水をかけるのは男、その上に堆肥をおくのは子供、溝さらへをするのは老人と、どの田でも之は一様と言つてよかつた。その分に応じてその適した仕事をそれぞれにつとめて行く。之が本当の共同といふものであろう。[/]麦蒔がすんで中耕が初まる。この時今度は八寸に一尺位の長方形の板の上側の真中に斜に柄をつけたクレ叩きで麦の根の所をばたツばたツと叩いて行くのが子供の仕事である。かうすると土が粉のやうに小さくなる。それを鍬で耕つのである」(同前1943:140)。

 これら文章からは、夏は水田で稲を作り、冬はその水田に高畝を立てて麦を作ったが、麦蒔きやその後の中耕にはきちんとした体系があったことが分かる。また、郷里での農業が全くの家族経営として行われていたことも読み取れる。郷里において小規模な農地を家族で耕作するいう経験が、宮本の農業観の一つになっていると思う。

肥料へのこだわり

善十郎は大正頃から大豆粕や硫安等の金肥が入ってからも草肥をはじめとする自給肥の使用をやめなかった。養蚕が盛んになり金銭収入が増えると、それによって金肥を購入できるが、その結果出費が増えて借銭を作る農家もあった。農業経営の合理化に取り組んでいた善十郎にとって、それは極めて矛盾したことのように思えてならなかった。そこで昔からの草肥を重視し、幼い宮本にも草刈りの手法と意義を徹底的に叩き込んだ。そこにもまた一つの型というべきものがあった。『家郷の訓』には次のように書いている。

「父は「近頃の草刈は嘘の様に楽だ。」と言つたけれども遠山へ行つた事のない私には、その楽になつたといふ草刈が一番つらかつた。暑さで汗が吹き出て流れ、之が眼にはいる。それに草はチガヤ(篠ともいふ)が多くて之で手をきる。手が血みどろになることが多い。さういふ時父は「しつかりと草を握れ、恐る恐る握るからかえつて手をきるのだ。」と言つた。しつかりと握ると草で手をきる様に思へてならなかつたけれども、体験から出た言葉はいつも真理であつた。「手がきれてもかまはん気で握つて見い。」と言はれると、父が無情に思へてうらめしかつた。併し少し深い疵をすれば煙草をつけて手拭をさいてくくつてくれるのは父であつた。手も足も草疵で夜は風呂に入ると痛んで涙がおちる程であつたが、百姓は皆ここをこえて来なければならないのだと父の言葉はきびしかつた」(宮本1943:147-148)。

 なお、文中で「遠山」とあるのは、三ケ浦の背後にある白木山の、「サンノ」と称する村共有の草刈り場のことである。善十郎の少年時代には「土用刈」と称して朝早くから出掛け、山道を蟻の寺参りのように草を背負った人が続いたという(同前:146)。

写真1196112月に長崎の沖から白木山を撮影したものである。宮本によると、白木山には古い山林制度の面影を見ることができるという。山の中腹で帯のように木の茂ったところはコミヤマ(込山)と呼ばれる。1区画が大体1ヘクタールあり、本百姓に分け与えられた山である。コミヤマの下の松林はカッペキヤマ(合壁山)と称する私有林で、百姓が日常的に田畑の肥草や薪をとるための山だった。コミヤマの上の木のない草地はウケヤマ(請山)と呼ばれる共有地で、いくつかに区切り年期を定めて希望者に貸付けていた。その上の頂上付近はサンノ(山野)という入会地で、山を持たない者はそこへ薪などをとりに行った(宮本1971:21)。現在の様子と比較すると(写真2)、プロパンガスが普及する以前、白木山が燃料獲得の山として徹底的に管理されていたことが分かる。なお、斜面を横線状に見えるのは、1941年に高射砲隊の陣地をおくことになって新たに敷設された海軍道路である。

写真1 白木山(1961年12月撮影)
写真2 白木山(2024年3月撮影)

 周防大島のお年寄りに子どもの頃のお話を聞いていると、鎌を持って山に草刈りに行ったという話がよく出てくる。下田では、草木一本も生やさないくらいにきれいに管理している田畑を見て、「あそこは寺のカドのようだ」と言ったという。「カド」とは庭のことである。昭和30年代まで、周防大島では山も田も畑も人の手が行き届き、草木が循環的かつ徹底的に利用されていたのである。

また、網でひいたイワシもかつては肥料として重視されていた。『周防大島を中心としたる海の生活誌』によると、浮島ではクサラカシ桶と称してイワシを生のまま入れて蓋をし、腐敗させて肥料にしていたようだ。続けて同書には次のように書かれている。

「父はよく言つていた、地力を保つには、浜へ流れ上つた藻葉を田畑へ入れる事、山の草を刈り込むこと、鰯のクサリを入れる事だと。さういふ事をやめて、鰯をイリコにして売る様になつてから、何等かの金は這入る様になつたが、島の土地は次第に地力が衰へて来る様になつた」(宮本1936:48)。

 宮本家では自給肥の利用が徹底していたことがうかがえる。宮本は戦中戦後に独自の農業経営論を展開するが、その形成過程をみるうえで、父善十郎による経営は見逃すことができない。

辛苦に満ちた農業

宮本は19144月、西方尋常高等小学校に入学した。当時の小学校は尋常科6年と高等科2年だった。1919年の春には流行性感冒が流行し、「一家総臥」という有様となった。「我が半生の記録」では、「しかし蚕をかわねばならず、病後の身体で無理な働きをした。[/]最もこまったのは、蚕のできがよくて桑がなくなり、一里半もはなれている小積へ桑を買いに行かねばならないことであった。わるい山道を、ふるえる足に重い荷をおうて、日が暮れてからかえった思い出は侘しい」と振り返っている(宮本2002:114)。

尋常科を卒業すると中学へ進学する者もいたが、宮本は家の事情で行けなかった。そこで1920年に高等科へ進み、国民中学会の講義録をとって勉強した。『あるくみるきく』174号(宮本常一追悼特集号)に掲載された高等科同級生の談話には、「高等科の始めのころ、先生が「何になるか?」と聞かれた時、宮本さんは「私は文学博士になります」と、きっぱり言われた」との証言がある(宮本紀子1981:57)。中学への進学は断念しても、学問への情熱は失っていなかったようだ。

19223月に高等科を卒業してから翌年4月に大阪に出るまでの1年余りは、家にいて農業に従事した。「我が半生の記録」には「友だちはそれぞれの仕事に従事したが、私だけは家にいて百姓しなければならなかった。それがたまらなくさびしかった」と書いている(宮本2002:116)。

 その頃、宮本家が他所から借りて小作していた田は湿田で、宮本の父はそれを誰に頼まれたわけでもなく、暗渠排水工事によって乾田にしようとしていた。「篤農家の経営」には次のように書かれている。

「私の家である湿田を小作していたことがある。そうした田は作り手の少ないものである。その田を誰にでも作りやすくしておかねば、と言って排水工事をしたことがある。深さ三尺に幅一尺五寸ばかりの溝をほって、底に一尺ほど小石を入れ、その上に砂をしき、そこにシダをおいて埋めたのである。[中略]出来上ると、もう誰でも喜んで作るだろうからと言って地主にかえした。田をよくするために小作していたようなものである」(宮本1975:164-165)。

この点は宮本の日記によっても確認できる。1923120日に書いた日記には、「米安の半田の排水工事遂行の為、グリ石を隅田の浜に拾ひ、潮が満ちたので浜井の伝馬船をかりて新宮へ(グリを)拾ひに行く。午後、之を半田に運ぶ。俺と父とが大八で半分を...車の引けぬ向ふを、母と姉が運ぶ。夕方までに全部のグリを運ぶ。非常に労れた。夜、母と姉は炬燵の中へ寝込んだが、俺は一人姉のかつて来た『婦女界』を読む。激しい労働の下に不平をこぼしながら働く母と姉を見ると、気毒でたまらぬ。小作人が斯くまで地主の田を愛する父を見ては又感謝の念が湧く」とある(田村編2012:17)。また同年128日の日記には、「親父が半田へ行かぬかと云ふので止むなく行く。午後も同じくだ。土管を十本入れたのだが、奥ほど深くなるから水が思ふ様に口の方へ出ぬ。[中略]毎日いやな仕事ばかりで心の中は不平だらだらだ」と書かれている(同前:18)。

 宮本と同郷の米安晟は「宮本先生と農業」という追悼文のなかで、「宮本先生が学問をしたいと考えた動機の一つに農業のつらさがあるようである。篤農家を父に持つ先生は小さい頃、水田の暗渠排水工事を手伝わされた。冬の寒い時期、深い溝を掘り、底に礫や木の枝を入れて水排けを良くするようにして土を埋める作業である。海岸で礫を集める作業は寒くてつらく、こんな仕事をするよりは、本を読んで学者になろうと考えたという」と述べている(米安1981:518)。

以上の自序や日記、証言等より、宮本が少年時代に経験した農業は、紛れもなく辛苦に満ちたものだったということができる。(つづく)

引用参考文献

・田村善次郎編2012『宮本常一日記 青春篇』、毎日新聞社
・宮本常一1936『周防大島を中心としたる海の生活誌』(アチックミューゼアム彙報第11)、アチックミューゼアム
・宮本常一1943『家郷の訓』、三國書房
・宮本常一1971『私の日本地図9・瀬戸内海 周防大島』、同友館
・宮本常一1975『農業技術と経営の史的側面』(宮本常一著作集第19巻)、未來社
・宮本常一2002『父母の記/自伝抄』(宮本常一著作集第42巻)、未來社
・宮本紀子1981「ふるさとの海辺の村で」『あるくみるきく』174号、日本観光文化研究所、50-59
・米安晟1981「宮本先生と農業」『宮本常一 同時代の証言』、日本観光文化研究所、518-520

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