宮本常一記念館

学芸員ノート

037

宮本常一と農業 その9 家族とともに

宮本研究|2026年1月22日|板垣優河

市五郎とまちによる感化

幼少年期の宮本は郷里でいかなる農業を体験し、それをどのように受けとめていたのだろうか。当時の様子については19354月に書いた「我が半生の記録」(宮本常一著作集第42巻所収)、及び197812月に発表した『民俗学の旅』が参考になる。また、19437月に発表した『家郷の訓』も農業の実際を知るうえで貴重である。本書は「家郷」すなわち郷里の生活が、父祖伝来の教育との関係においていかにして営まれていたのかが論じられている。宮本は自身の体験を通じて民俗学的な事象を説明することが多い研究者だったが、この書では特にそれが強く表れている。以下ではこれら文献をもとに記述を進める。

宮本が生まれた1907年は、宮本家が経済的にも社会的にも「どん底」にあった時期で、前回述べたように宮本の父善十郎は養蚕によって一家を再興しようとし、山林を買い入れて開墾を始めた(宮本2002:107)。また、住家を二階建ての蚕室造りに改築した(宮本1978:31、写真1)。善十郎は経営をいかにして合理化し、実績を上げるか、ということに腐心していた。宮本はそんな父親について、「私は幼少のおり父の笑顔を見たことがなかった。いつも重大問題ととっくんでいたからである」と振り返っている(宮本1975:160)。

写真1 養蚕をするために改築した宮本家(1966年12月26日/宮本常一撮影)

 そのため、幼い頃の宮本は祖父市五郎に連れられて山へ行くことが多かった。村の人は宮本を「祖父のドウラン」と呼んでいた(宮本1978:23)。6歳の時には初めてオイコを作ってもらい、山から割木を負って帰った(宮本2002:107)。67歳の頃からは祖父の手伝いで畑の草をひくようになった(宮本1978:24)。89歳になるまでは祖父に抱かれて寝、多くの昔話を聞いた(宮本1960:168)。「我が半生の記録」には「私はこの祖父に愛せられ、また祖父に似ていると言われている。幼少の時より、父母に愛せられるというよりも、祖父に愛せられた。[/]祖父の肩を夜ごとたたくのが私の仕事で、その代として私は祖父から昔話や、うたをきいた。祖父はそういうものの宝庫であった。私をして民俗学徒たらしめた一大要因は実にここにあった」と書いている(宮本2002:96)。

また、母まちも市五郎に似た伝承型の人であり、市五郎に次いで多くの昔話を聞いた。先述のように市五郎は善十郎が手掛けた養蚕には手を出さず、桑畑にも行かなかった。そのため桑畑にはまちが行くことが多く、宮本もそれに付いて行った。その時に唱歌を教えられた。「母はどんなに辛いときも愚痴をこぼさず、また決して私を叱らなかった。私のねているとき決して頭の方を通ることがなかった」という(宮本1978:43)。

このように、幼い頃の宮本はまず市五郎やまちとともに仕事をするようになった。その頃は「仕事はどんなにつたなくてもよかつた、ただ一生懸命に倦かずにやる事が要求せられた」という(宮本1943:103)。市五郎やまちも、宮本が仕事に興味を持つように様々なはたらきかけをした。例えば市五郎の場合は次のようであった。

「山へ行くと祖父は仕事をする。私は一人で木や石を相手にあそぶ。山奥の方まで行つてあはてて畑の所まで来て祖父の働いているのを見てホッとする。気の向いた時は草ひきの手伝ひをする。「おまへがたとへ一本でも草をひいてくれるとわしの仕事がそれだけ助かるのだから...。」と言つて仕事をさせるのである。そのかはりエビ(野葡萄)やら野苺などよく見つけて食べさせてくれる。野山にある野草で食べられるものと、食べられないものと薬用になるかならぬか、又その名や言ひ伝へはかうして祖父に教へられた」(宮本1943:38-39)。

善十郎による教化

市五郎とまちから受けたものが心象的な「感化」だとすれば、父善十郎から受けたものは、現実的な「教化」というべきものだった。「我が半生の記録」では「公を外にして一個の父を見る時、父はまさに追随を許さざる篤農であった」と書いている(宮本2002:101)。また「篤農家の経営」という原稿(宮本常一著作集第19巻所収)では善十郎を優れた篤農家と評価したうえで、「私の農業に関する知識と態度の根本的なものは父の考えを一歩も出ていない」と述べている(宮本1975:156)。後述するが、宮本による戦後の旅は、自身の父親のような篤農家に接し、その意志を書きとめ、繋いでいくことを目的の一つとして行われていた(同前:170)。

 さて『家郷の訓』では幼少時における父親の役割は、仕事を主として教え込むことであったとし、次のように述べている。

 「私の場合には百姓仕事が父によつて教へられた。山へ行く事や草ひきの技は祖父や母によつて次第にならされて来、根気よくすることが教へ込まれたが、父によつて先づ教へられたことは仕事のシヨシヤであつた」(宮本1943:134-135)。

宮本がまず善十郎に教え込まれたのは仕事の所作であり、それは仕事に対する姿勢や態度というべきものだった。この点は19389月に『同志同行』76号に書いた「父祖の教うるところ」でも再説されている。そこでは父親による叱責の教育的側面を論じるなかで、自身の場合、叱責を受けた事柄は仕事に関することに集中していたとする。そして次のように述べている。

「すなわち父にとって仕事は決して事務ではなく、生活を規定するものであったのである。そのためには仕事に対する厳粛なる態度が要求され、すなわちショシャの善悪が問題とされたのである。しかしてこのショシャを納得させるためには、先ず型を教え込むことが何よりも手近な方法であり、確実な教育法であった」(宮本2002:43)。

 幼い頃の宮本は、市五郎やまちによって懸命に仕事をすることの大切さを教えられ、続いて善十郎によって仕事の基本的な型を教えられた。自らを「百姓の子」と称する宮本は、このような家風の中から育ってくるのである。
(つづく)

写真2 周防大島船越で農作業をする子ども(1960年1月8日/宮本常一撮影)

引用参考文献

・宮本常一1943『家郷の訓』、三國書房
・宮本常一1960『忘れられた日本人』、未来社
・宮本常一1975『農業技術と経営の史的側面』(宮本常一著作集第19巻)、未来社
・宮本常一1978『民俗学の旅』、文藝春秋
・宮本常一2002『父母の記/自伝抄』(宮本常一著作集第42巻)、未来社

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