040
宮本常一と農業 その12 戦時下の学問
宮本研究|2026年3月26日|板垣優河
帰阪
宮本は1939年10月以来、東京市芝区三田綱町(現東京都港区)で渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアムに入って全国各地で民俗調査を行っていた。しかし、戦争が激しさを増すなかで調査旅行を続けることが難しくなり、1943年12月には戦禍を逃れるために妻子のいる大阪府泉北郡鳳町(現堺市)に戻る。そして1944年1月から1945年4月まで、奈良県立郡山中学校で嘱託教員を勤めていた。教員赴任の話は、宮本がまだアチックにいた頃、大阪民俗談話会で旧知の仲だった岸田定雄から持ち込まれたもののようである(岸田1981:69)。自身では「この学校に勤めた一年四カ月ほどの間が私の生涯にとってはじめて教員生活をした頃と共に一番たのしい時ではなかったか」と述べている(宮本1978:124)。
宮本は郡山中学校でどのような教員だったのだろうか。1944年当時、郡山中学校に1年生として在学していた岩井宏實は次のように振り返っている。
「一年生のときは、ずっと先生に東洋史を習った。[中略]しかし、東洋史よりも、むしろ日々の国勢のニュースを話題とされ、「このままでは日本が負ける」ということを、絶えず話された。このことが憲兵や特高の耳にでも入れば大変だと、聞いている生徒の方が気が気でなかったが、いつもみな真剣に聞き入ったものである。[中略]この絶えず語られた「日本は負ける」という話も、実は日本の前途を案じる先生の憂国の至心からであった。だからその話のあとには、かならず戦が終ったらわれわれはどうせねばならないかを語られた。そこでは、村むらの暮らしの歴史と、苦難を生き抜いてきた名もない人びとの話、村人の暮らしを豊かにする事例などを滔々と語られ教えられた」(岩井1981:71)。
この点は宮本自身が『庶民の発見』の冒頭で述べていたこととも合致する(宮本1961:11-12)。戦況が悪化するなかで宮本は敗戦を想定し、戦後に備えた活動が必要であると考えていた。その活動として当初宮本が重視していたのは「教育」だったが、後には「農業」に重心が移ることになる。
この間、余暇を利用して奈良県下を精力的に歩くとともに、西宮史談会の幹事をしていた田岡香逸を通して小林行雄や水野清一、梅原末治ら京都大学関係者と知り合い(宮本1967:65)、その縁で戦後も京都大学にはたびたび足を運ぶようになる。
1945年以降の宮本の日記を確認すると、1月19日~26日は学徒動員の引率教員として、名古屋市守山区で工場勤務をする学徒の見回り等をしている。1月23日の日記には「今日は四年生の1、2組。明治外交史についてはなす。午后折坂氏の部屋ではなし込んでいておそくなり、岸田君と工場へ出かける途中ケイホウ出る。工場へかけつける。直ちに3年生について白山裏に待避。敵機来ること59機、市内にバクダンをおとす。4.20解除。工場にも一名死者を出す。市三女は41名死者を出した由。夜、3回クウシウあり」と書かれている(毎日新聞社2005:92)。この時期になると、名古屋などの大都市を狙った空襲が多かったことがうかがえる。
また、3月4日の日記には「西宮へゆく。田岡氏をとひ、辰馬氏の酒蔵見学。芸香社の人々集る。古い習慣をのこしている蔵であつて色々おしへられることがある」とある(毎日新聞社2005:94)。西宮での酒蔵の調査には3月以降7回ほど通っていたが、空襲のために交通が途絶えがちで、結局中断してしまう(宮本1968:241)。なお、酒蔵の調査は小林行雄や水野清一ら京都大学のメンバーによって戦後も引き続き行われている。
大阪府庁入り
1945年4月、宮本は大阪府から辞令を受け、5月から12月まで府下農村を中心に歩くこととなる。農村に出ていた日数は、この8ヶ月で実に155日に及んだという。その目的は、「戦時下の農村実情調査」をすることだった(宮本1968:243)。
大阪府の嘱託になった経緯について、『民俗学の旅』には次のように書かれている。
「篤農協会の米山九蔵氏(京大米山俊直助教授の父君)が学校へ見えて、大阪府へ勤めてくれないかという。突然のことで一応おことわりしたが、とにかく大阪府庁まで一度顔を出してほしいとのことで、四月五日に大阪府庁へいった。そこには同じ篤農協会の渡辺敏夫氏も見えており、いっしょに池田清知事に逢った」(宮本1978:125-126)。
篤農協会を介して大阪府に勤める話が出たようだが、やや説明不足の感がある。そこで1945年の宮本の日記を確認すると、次のような記事が目に留まる(毎日新聞社2005:92-96)。
2月1日
「午后、授業がないので帯解まで行つて見る。土井氏から電話があつたので―。いつて見ると、地主調査を篤農協会からたのまれたのでよろしくとのことである。3時半まではなしてかへる」。
2月14日
「5時寺へ。すでに人々集つて居る。意外に年をとつた人々。今西、池田、山川、菊田氏等。この人々にては採集調査(地主の)はむづかしい。併し色々と計画をたてて話しあつて見る。地主の位置を民俗学的に且計画的に調査しようとしているのである。8時まではなしあつて葛城、治道、北倭などの候補地をあげる」。
3月24日
「午后、作業からかへつて(学校へ)見ると、土井、池田、米山の3氏来ている。地主調査について色々はなす」。
4月1日
「三輪の池田さんの家へ行くと、土井、米山氏共に居る。米山氏、大阪府廳へつとめては如何との事...」。
4月5日
「朝、大阪府庁へ出かける。行つて見ると池田さんすでに来て待つてゐる。米山さんは間もなく来る。そこへ岐阜の梅村さん来る。大阪の焼跡をどうするかといふことについてやつて来たのである。カボチヤをつくるのがよいといふ。経済部長の部屋でそのはなしをきき、次に知事の次室でまたはなしをきく。知事は四條畷に行つて2時すぎにかへつて来る。3時、お目にかかる。今研究などしている時ではないといふ。とに角履歴書あづけてかへる」。
4月14日
「今日は耳成村新賀の森村氏をとふことにする。[中略]土井氏、米山氏を待ち、先づ耳成村役場に村長をとひ、更に森村氏をたづねて行つて家のことを色々きき、見せてもらふ。いかにも旧家らしい家である」。
以上によると、宮本は郡山中学校で同僚だった土井実を介して篤農協会の池田栄三郎や米山九蔵らと知り合い、地主調査の準備を進めていた。4月14日に行った奈良県磯城郡耳成村新賀(現橿原市)が、その第1回調査地ということになる。そうしたなかで、米山から「大阪府へ勤めてくれないか」という話が出たようである。それ以前、宮本は全国各地で民俗調査を行い、農業の技術や経営について多くの見聞を得ていた。また幼少の頃から篤農家である父善十郎に仕込まれ、善十郎が持つ農業の理論と技術をかなり身につけていた。そのことから大阪府に勤めるよう要請があったのではないかと自身では述べている(宮本1977:309)。もちろん、それも事実だろうが、より直接的には、篤農協会という強力なパイプがあったことが見逃せない。
篤農協会とは、1933年に安岡正篤によって設立された、農村における指導者の育成を目指す教化団体である(さなだ2002:227)。戦時体制を農村社会の基底から支えるために、その中心的な農家、中農以上の篤農を組織した半官半民の団体で、敗戦後1945年11月3日には新自治協会として再編されている(岩田2013:167)。さなだゆきたかは、宮本は1942年頃から篤農協会内部にあった農村文化研究会の一員となり、1943年以降は嘱託として活動していたと推測している(さなだ2002:233)。また、佐野眞一は、大阪府知事の池田清が安岡正篤を生涯の師と仰ぎ、金鶏学院の設立にも関わった人物であることから、そうした人間関係が宮本の大阪府庁入りの伏線になったのではないかと推察している(佐野1996:199)。
宮本の手による1945年の日記帳の巻末住所録人名欄には、奈良県磯城郡三輪町(現田原本町)にあった「篤農協会関西本部」や東京市小石川区林町(現東京都文京区)にあった「篤農協会」の名を見出せる(毎日新聞社2005:106)。やはり、大阪府農務課に勤めるきっかけは、篤農協会からもたらされたものだったと思われる。戦後宮本は篤農協会を再編した新自治協会を足掛かりにして全国各地で農業に関する視察と指導を行うが、その活動の基盤は、戦時中から既に形成されつつあったと見ていいのではなかろうか。(つづく)
引用参考文献
・岩井宏實1981「郡山中学教員時代の宮本先生」『同時代の証言』、日本観光文化研究所、70-72頁
・岩田重則2013『宮本常一 逸脱の民俗学者』、河出書房新社
・岸田定雄1981「宮本常一兄追想」『同時代の証言』、日本観光文化研究所、68-70頁
・さなだゆきたか2002『宮本常一の伝説』、阿吽社
・佐野眞一1996『旅する巨人』、文藝春秋
・毎日新聞社2005『宮本常一写真・日記集成』別巻
・宮本常一1961『庶民の発見』、未来社
・宮本常一1967「私の学んだ人3 田岡香逸」『武蔵野美術』63号、武蔵野美術大学、64-70頁
・宮本常一1968『民俗学への道』(宮本常一著作集第1巻)、未来社
・宮本常一1977『食生活雑考』(宮本常一著作集第24巻)、未来社
・宮本常一1978『民俗学の旅』、文藝春秋
