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宮本常一と農業 その13 大阪府に提出した復命書①
宮本研究|2026年4月16日|板垣優河
大阪府農務課嘱託
宮本は1945年4月23日に辞令を受けて12月27日に依頼退職するまで、終戦の前後は大阪府農務課嘱託として勤務していた。4月24日の日記には、「いよいよ属僚生活のはじまり。併しそれでもいい。やれる丈やらう」と書いている(毎日新聞社2005:96)。なお、4月25日から4月29日にかけては周防大島に一度帰省しており、実際に府下農村を歩くようになるのは5月に入ってからである。府での働きについて、自身では次のように述べている。
「昭和二〇年に大阪府につとめたときは府庁へはほとんど顔を出さなかった。月曜日に役所へ出勤の判コを押しにいってあとはずっと府下の村々をあるいていたので、役所の中の人についてはほとんど知らなかった。私の仕事は篤農家たち、農業会の指導者たちをたずね、清鮮野菜の生産と供出に協力してもらい、大阪市民をどのようにして栄養失調から防ぐかという対策をたてることにあった」(宮本1975:352)。
この間も同年4月14日から着手していた地主調査を継続して行っていた。5月30日の日記には「朝食後津田から田辺まで汽車にのり、そこより大和蛇穴の野口氏をとふ。池田、米山、土井氏あり。地主の事情についてきく。夕方まで。古文書も相当にあり。この地は十分研究に値する地であることを知る」とある(毎日新聞社2005:98)。6月21日の日記には「朝から『篤農』のために「生涯稽古」を書く。大阪府下農村の視察記。18枚を書く。大阪府下篤農の瞥見ともいふべきものである」と書いている(同前:99)。なお、『篤農』は篤農協会が発行していた機関誌である。6月29日の日記には「朝のうちに少し地主調査の原稿を書き、午后芋づる不足についての供出の打合せあり」とある(同前:100)。
この時期の宮本は、府下の農村に出向いて食糧増産に向けての現状把握を進めるとともに、篤農協会主導の地主調査にも取り組み、全体として農村の問題に正面から取り組んでいたように見える。
春夏作付綜合割当実施状況視察
宮本が府下農村を視察した結果は、彼が農務課嘱託として大阪府知事に提出した復命書によって見ることができる。これら文書はすでに『新農村への提言Ⅰ』(宮本常一著作集第46巻)として印刷に付されているが、宮本常一記念館ではB5判の大阪府罫紙に黒ペンで手書きした都合5部、計63枚からなる原文書の束がある(文書3-2/0014/01/00、写真1)。以下、その記述内容を分析し、宮本がどのような視点で農村調査を進めていたのかを検討する。
まず1945年5月22日付けで提出した復命書(用件名「春夏作付綜合割当実施状況視察」)には、蔬菜の総合割当実施状況について、5月5日以降府下農村を査察した結果が記されている。宮本は5月18日の日記で「今日は水本へ出かける。四條畷まで電車でゆき、そこから歩く。田甫[圃]の百姓とはなすと仲々色々の事情で府の政策も実行出来ないことがわかる」と書いている(毎日新聞社2005:98)。復命書では、自らが現場で見聞したその「色々の事情」を踏まえた提言がなされている。
具体的には、府が計画している蔬菜作付を実行するにあたり、農家にその趣旨が十分に伝わっていないこと、農家は決して蔬菜を作りたがっているわけではなく、その不満を抑えるには実行組合長等を通じた趣旨の徹底が必要なこと、作付対象は農家の経験を重んじてその希望を申出させて割当てるようにすること、蔬菜栽培にとっては肥料不足が大きな障碍となっており、屎尿の需給体制の整備が急務であること、供出物資に対する補償または値上げが必要なこと、などを指摘する。そのうえで次のような所感を述べている。
「農村を歩いてみて、確かに皆真剣になっていると思う。不平は不平として持ちつつ、今百姓が食糧増産に懸命であることが、お国のためであるということは、よく分かってきているようである。しかし、肥料がない、資材がないというようなことが、その熱意をさましていることが少なくない。[中略]蔬菜栽培については危険率も多く、その損害の補償も計画されていない。米麦の供出についてはかなり徹底した政策もとられているが、蔬菜については農民をして安んじて増産に邁進させる対策は大してできていないようである」(宮本2006:25-26)。
府下農村を実際に歩いてまわり、現場の声を多分に反映させた報告である。また、この時点ですでに篤農家の重要性を認識し、公に主張していたことも注目される。復命書には次のように書いている。
「最近篤農聯盟も作られたことであるが、さらに地方篤農をその会員として、篤農聯盟会員は周囲の模範として技術指導にも当たってもらうよう、聯盟を通じてお願いするのも一方法ではないかと思われる。今日、府の委嘱を受けずとも篤農はよく努力しておられ、あるいは地方事務所の委嘱を受けた方々の中には、真に健闘せられている人が多い。[中略]ここに篤農の技術的権威を尊重し、周囲に範をたれて増産の実をあげるようお願いすることも大切かと思う」(宮本2006:27)。
宮本の日記を確認すると、例えば5月24日は南豊島村原田(現豊中市)の山田喜久雄による甘藷栽培を視察している(毎日新聞社2005:98)。宮本は篤農家と彼らが保持する優れた農業技術が地域の増産意欲を高めていると観察し、彼らに積極的にアプローチし、農業技術の指導を受けるようになる。『民俗学の旅』では、「新しい技術を学ぶことはたのしいことであり、実に多くを教えられた。そしてその技術をまだおこなわれていない人びとのところへいって伝達する。それは大変喜ばれた。伝書鳩のようなものであった」と述べている(宮本1978:130)。
また、5月25日には大阪市保健局の長島英雄から屎尿問題の聞取りを行い、復命書ではその報告も行っている(宮本2006:28-33)。農家にとって屎尿が重要な肥料であることは、宮本自身も幼少時に父善十郎の姿勢を見て学び、よく理解していた。大阪市保健局から得た1944年12月の屎尿処理データによると、日量19,500石のうち、市営自動車輸送区が4,000石に対し、業者並びに農家輸送は5,500石を占め、その内訳は海洋輸送500石、河川輸送1,500石、牛馬3,500石となっている。
当時は市によるトラック輸送が行われていたが、燃料不足のためにそれが困難化しつつあった。そこで宮本が注目したのが「業者並びに農家輸送」という伝統的な汲取り方法だった。市内でも港区付近は香川県から来た者が多かったが、その者たちの屎尿は昔からの慣習で香川県の農家が船で汲取りにきていた。また宮本が大阪の逓信講習所に通っていた1923年頃は、朝下肥を積載した船が10艘も15艘も連なって淀川や寝屋川を遡上して農村へ帰っていくのが見られた(宮本1978:129)。川のないところは牛車を使用し、やはり朝早くから何十台も大阪の町から村へと帰っていくのが見られたという(宮本1965:141)。このような背景も踏まえ、復命書ではトラック輸送の合理化を説く一方で、「蔬菜栽培地と消費地とを直結し、蔬菜をその消費地へ配給するよう体制を整えるとともに、その消費地に生ずる屎尿を供給地へ責任をもって送り届けるよう、消費地をして世話せしめるようにするのも一方法と思われる」と書いている(宮本2006:21)。
蔬菜栽培にとって肥料は何よりも重要な資材であり、宮本は屎尿の汲取りを媒介とした都市と農村の伝統的なネットワークによってその需給問題を部分的にも解消できるのではないかと考えていた。このような提言は、農業の実際を理解するとともに、民俗学的な視点と蓄積がないとなし得なかったものと思われる。
春夏作付綜合割当実施状況
1945年6月18日付けで提出した復命書(用件名「春夏作付綜合割当実施状況」)では、5月28日から6月7日にかけて視察した府下農村の蔬菜の作付状況を報告するとともに、それと対照させるかたちで甘藷栽培の実情も報告している。
まず蔬菜の作付状況については、「決してよろしくない」とする(宮本2006:61)。その原因として、栽培知識の欠乏、資材の不足、府の意志の不徹底、未経験者による栽培等をあげている。また農家の言外の因由を代弁し、「府は政策を押付けるだけでなく、責任をもって指導してほしい、ということが第一にあげられる。作物の割当については資材とくに農具の責任ある配給がのぞましいという気持がつよい。次に供出の公正を希望する心も強い」と述べている(同前:61)。
生産の隘路を端的に表現すれば「不足」と「多忙」であり、その整理が難しいのであれば、府はもっと親切と誠意をもって農村に接近すべきであるとする。農家の立場を考えるならば、①作付割当の適正、優良品種の指導奨励、②肥料・資材の配給充実、作物育成の指導、③供出割当の適正、④輸送計画確立、⑤労務の配置、⑥農村実情の調査、が必要とする。特に⑥については、「精励なる農民を選び、他府県における篤農の農場を見学せしめることも一つの方法である。[中略]たとえ五人三人でも、篤農の経営は府下精農に見せていただきたいのである。岐阜県西郷村、静岡県気賀町の麦の広幅播のごときは、全村の実践の力強さにまず心をうたれるべく、静岡県中川村の甘藷畑については、精農とは村のすぐれたる一人に冠せらるべき言葉でないことが、分かると思う」と述べている(宮本2006:64-65)。農業を振興するうえで宮本が早くから重視していたのは、地域に根差した篤農家の存在と、地域を越えた農家間のネットワークであった。
次に甘藷栽培については、「蔬菜に対する以上の熱意が何人にも見られる」と述べている(宮本2006:71)。その理由として、蔬菜栽培では優れた技術者はいるが指導者が少ないのに対し、甘藷栽培には良い指導者がいることが大きいとする。もっとも、甘藷栽培でも指導の及ばない範囲では技術は旧態依然としていたようである。それでも甘藷に対する国家的重要性への自覚と良き指導者がいるために増産への意欲が全体的に高まってきているとし、そこに見る諸条件を蔬菜栽培にも活かしていくべきではないかと提言している。
食糧供出事情視察
1945年6月23日付けで提出した復命書(用件名「食糧供出事情視察」)には、先の「春夏作付綜合割当実施状況視察」と並行して行った、府下の供出状況等の調査結果が報告されている。
5月26日に大阪市中央市場青果会社で聞取りをしたところ、集荷人を入れないで実行組合が責任をもって供出に当たっている地域では成績が良いが、集荷人のいるところでは横流しが多く成績が悪いとする。その対策には、村落自治と貨車輸送、そして実行組合による出荷の強化が必要であるとする。
一方、各町村の実情を見た場合、出荷成績をあげるには、輸送の強化と出荷組織の単一化がまず重要な条件になるとする。現場では供出割当率の公正化や配車の適正化、出荷後の処分の寛容化などが希求されているとし、「現今の食糧事情について説明するとき、供出に協力したいという人が少なからずあった。[/]とにかく、食糧事情と戦局との関係をいま少し農民に知らしめるならば、供出の意欲は相当高まるものと思われる」と結んでいる(宮本2006:53-54)。
この復命書からは、宮本があくまでもボトムアップ式の手続きにより、農家の立場と声を反映させながら食糧増産に向けての対策を講じようとしていたことがうかがえる。(つづく)
引用参考文献
・毎日新聞社2005『宮本常一写真・日記集成』別巻
・宮本常一1965『生業の推移』(日本の民俗第3巻)、河出書房新社
・宮本常一1975『農業技術と経営の史的側面』(宮本常一著作集第19巻)、未來社
・宮本常一1978『民俗学の旅』、文藝春秋
・宮本常一2006『新農村への提言Ⅰ』(宮本常一著作集第46巻)、未來社
