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宮本常一と農業 その14 大阪府に提出した復命書②
宮本研究|2026年5月5日|板垣優河
農商省地主調査委員会出席のため、および日本銀行、陸軍省へ農村実情と対策について答申
宮本は1945年6月9日に農商省地主調査委員会に出席するために、夜行で東京へ向かった。6月10日の日記には「小石川の篤農協会に行き、地主についての報告をなす」と書かれている(毎日新聞社2005:99)。6月11日には日本銀行総裁に就任していた渋沢敬三を訪ねる。日記には「8時すぎ三田へかへり先生のお目にかかつてはなしをきく。聖戦技術協会に入るやうにすすめられる。一応承諾する。陸軍の仕事。農村視察をするのだといふ」とある(同前:99)。また6月14日の日記には「朝、かへる支度をして先生の自動車で日銀に行く。10時半亀井氏来る。農村実情についてはなす。是非軍務局佐藤大佐にあつてくれといふことになり、もう一度お邸にかへる。亀井氏は仲々能弁である。夜、亀井氏、佐藤氏お邸に来る。先生と4人で夕食。農村の実情について話す。10時をすぎる。明日陸軍省へ来てくれとのことである。もう1日のばす」と書かれている(同前:99)。続いて6月15日の日記には「朝、田町まで歩いて電車にのる。市ヶ谷へ下りると亀井氏と一緒になる。陸軍省へゆく。ここでは佐藤氏甚だ忙しさうである。履歴書を出せといふので出す。林中佐としばらくはなし、昼すぎ、大久保巴町の聖戦技術協会に亀井氏をとひ、事情報告」とある(同前:99)。
一連の記事によると、宮本は出張先の東京で思いもかけず陸軍の聖戦技術協会に入り農村視察を行うよう話をされたようである。『食生活雑考』の「あとがき」では、当時のことを次のように振り返っている。
「さて東京へいって見ると、「政府の力で食料を配給し得ることができるのは八月末までであとは各地域での自給体制をとらねばならぬ。その企画に参加してもらいたい。すぐ発令するから、大阪へ帰ったらすぐ中部軍司令部に出頭して司令官にあってもらいたい。こちらから連絡しておくから」ということであった。民間のそれも全然権力の座に関係のない一人の市民に何ができるのであろうかと思いつつ、その場では一応承諾したことにして大阪へ帰った。そのとき「この戦争は本当に勝てるのか」ということを参謀肩章をつけた大佐にひそかに聞いてみた。するとその大佐も「おそらく八月末で戦争は終わるだろう。そして食料暴動がおこるのではないか」といった。[/]大阪へ帰った私は中部軍司令部へは出頭しなかった。また呼び出しもなかった。あったかも知れないが、私は毎日村々をあるいていた」(宮本1977:311)。
この記述の通りであれば、陸軍の方から宮本に接近し、敗戦を見越した食糧増産対策を講じるよう、彼に要求していたことになる。
この点について、宮本千晴氏は次のように述べている。「父は終戦の数ケ月前、市ケ谷の陸軍参謀本部に呼ばれ、敗戦後の農村復興の施策の立案と実施の責任者として、少将に任官されることになったという。すでに大阪府下では戦争に敗けることを説きまわり、その後にそなえる秘かな運動をすすめていたところであったから、最初、父は青くなった。しかし渋沢先生と相談のうえ、農家の長男を大至急戦線から引き揚げさせることを条件にこの話を受けた。幸いこの辞令を積んだ郵便車が名古屋駅で焼け、どさくさにまぎれて話は実現しなかったという。父の求めていたのは転向を必要としない思想であった」(宮本千晴1981:60)。
少将任官の話はやや突飛なようにも思えるが、宮本の大阪府庁入りを要請した当時の府知事池田清は篤農協会を創設した安岡正篤を生涯の師と仰いでおり、「宮本の少将任官の話は、池田―安岡という旧知のラインによって宮本本人も知らないところで秘密裡にはかられた可能性がきわめて高い」とも指摘されている(佐野1996:200)。戦時中、宮本は戦争を肯定する立場から軍にすり寄ったのではなく、あくまでも農村調査や農業指導の実務者として軍に見出され、軍の方からアプローチをかけられていたようである。
さて宮本は6月16日に帰阪し、6月19日には復命書を作成している。日記には「役所へ行く。東京へ農業増産についての意見を書く。要するに農機具を与へることが第一であり、後は技術的な面の指導が大切である。人の面から言へば、よき指導者を生かすことである。よき指導者を生かすためによき伝統が生きねばならぬ。さうしたことについて考をまとめて見る」と書いている(毎日新聞社2005:99)。
1945年6月18日付けで提出したその復命書(用件名「農商省地主調査委員会出席のため および日本銀行、陸軍省へ農村実情と対策について答申」)では、まず6月10日に東京市小石川区林町(現東京都文京区)の篤農協会で開催された地主調査委員会の会議状況を報告している。これは農商省の主導によるものだが、その目的は、「さきに地方研究家諸氏に依頼せる地主調査の中間報告を求め、これによって地主に対する対策を確立したいため」だった(宮本2006:73)。中間報告では、不在地主を撲滅し、成上り地主をできるだけ整理する一方で、次のような意見が各地共通のものとして提出されたとする。
「きわめて古くよりその地に住居し、庄屋その他の公職にあるか、または土地のオヤカタ(御館)あるいは地頭などといわれた地主は、本来は自らも数町ないし十数町歩の土地を耕し、かつ、農村にあっては指導者としての位置を保ってき、明治以後は村長、町長、区長または小学校長などを勤めているものが多く、今日も村の倫理中核をなしているものが少なくない。[/]しかして、かかる公職につかねばならぬため土地を小作人に任せて自らは農耕を廃しているのが大半である。しかしながら、かかる地主は村にあっては小作人のよき相談相手であり、農業についても熱意を持ち、かつ村人を協調せしめて増産の効果をあげている向きも多い。かつまた、今日、日本を支配せる人材の中には、かかる地主の子弟であるものがきわめて多い。これは自らの家の家格と祖先以来の伝統を重んずるによる。かくのごとき地主はむしろこれを保護すべきである。[/]すなわち、地主を小作と対立するものと考えず、地主は自作の拡大せるものと考え、かつ村落機構の重要なる一部分であることを認識していただきたい」(宮本2006:73-74)。
上記の意見は、宮本が昭和14年12月に山口県玖珂郡高根村向垰(現岩国市錦町)で美島清一から聞取った内容と符合する点が極めて多い。すでに見たように、高根村の庄屋を務めた山田家は、村人にとって親方であり地主でもあり、自己犠牲を省みずに村を良くしていこうとする指導者でもあった。宮本はそうした旧家に牽引される村を民俗調査の対象として重視していた。その視点が上記の地主調査委員会にも反映されているように見えるのである。
復命書の後半は、6月13日に日本銀行、続いて6月14・15日に陸軍省軍務局に出頭して行った食糧事情諮問に対する答申を報告したものである。食糧事情の悪化の原因として、農家の召集・徴用による増産意欲の減退、天候不順、肥料不足、資材不足、また政府の方針が消極的かつ警察的であることを指摘する。そして、「百姓は農に徹せしむべきである。理想としては、農民は農に精励し、軍人は軍務に精励するのが本当である」と述べる(宮本2006:76)。その上で食糧対策として第一にあげているのは、精農による技術普及である。「まず各地のすぐれたる技術者の技術を普及せしめたい。そのために精農の調査をなし、かつ、精農の愛国心に訴えて各地を指導(主としてその居住地方)せしめること」が必要であるとする(同前:76)。また健苗育成の徹底、主食物に対する観念の変改、蛋白補給のための大豆の増産や家鴨・家兎の飼育奨励、山菜の採取利用の徹底、食糧保存法の徹底、国家の指導方針の徹底と精農家や精農村が十分に活動できるような方策の樹立が必要であるとする。さらに、「農民の士気を高めるには、村落を中心にして団結を強固ならしめることである。農村(部落を指す)の有機的な活動こそ何より大切である」と述べている(同前:77)。
この復命書には、宮本が戦後行った農村調査に継続する要素が多分に認められる。宮本が戦前から戦中、そして戦後にかけて一貫して重視していたのは、活動的な篤農家や精農家、及び彼らに牽引される村であった。
優良実行組合活動状況視察
宮本は先の復命書で食料増産にとって「農村の有機的な活動こそ何より大切である」と主張していた。1945年7月6日付けで提出した復命書(用件名「優良実行組合活動状況視察」)では、それがうまく機能している農村として、7月5日に視察した大阪府三島郡阿武野村塚原(現高槻市)の状況を報告している。
塚原では村民共有の倉庫、集荷所、公会堂、精米所が完備されており、それによって村民の共同精神が高められていた。例えば、集荷所は脱穀や製縄、製筵などをするための共同作業場でもあり、倉庫には米麦だけでなく公有物も収められており、精米所は組合員であれば無料で利用することができた。近くは石臼を備え、村民に粉食を進めようともしていた。宮本は塚原のあり方を次のようにまとめている。
「以上、この村のよく統一されている理由は、よき指導者寺田金太郎氏の苦心二十数年にわたる経営にまっていることを第一にあげうる。第二に、実行組合員の耕地面積が、平均一町もあってほぼ適正であり、他を顧みずとも生計の樹てられること、第三に共同作業による収益が、個人の収益よりも優位なるように苦心がはらわれていること、第四、農民としての信念が確立し、疎開者などに乱されていないこと等はあげられる」(宮本2006:89)。
今後はこうした村をモデルとした検討と指導がなされるべきであると提言する。
実務的な仕事
さなだゆきたかは『宮本常一の伝説』のなかで、宮本が篤農協会関西本部の米山九蔵にあてた書簡を示し、宮本の大阪府での仕事は「農民の精神教育とか、思想統制に関するものであるかのよう」であり、「食料確保というような実務的な仕事ではなさそうだ」と述べている(さなだ2002:235)。しかし、日記と対照させながら現存する一連の復命書を分析してきた筆者の所感としては、むしろ極めて実務的な仕事であったように思える。宮本の行動原理は、戦後を見据えた食料増産対策を立てることにあり、そのための手段として取り組んだのが、府下農村のきめ細やかな実情把握だったのである。
宮本は『食生活雑考』の「あとがき」で終戦前後の活動について振り返るなかで「私にとって学問というのは実学であった。生きてゆくための手段であった」と述べている(宮本1977:310-311)。宮本の学問は時代の要請に応じて柔軟にかたちを変える極めて現実的なものだった。特に終戦前後は行政の立場から実務的な仕事に邁進していた。一連の復命書からは、戦後に継続する宮本の農村調査の視点や目的が、終戦前からすでに準備されていたことを確認できるのである。(つづく)
引用参考文献
・さなだゆきたか2002『宮本常一の伝説』、阿吽社
・佐野眞一1996『旅する巨人』、文藝春秋
・毎日新聞社2005『宮本常一写真・日記集成』別巻
・宮本千晴1981「世間師の学」『生活学会報』18号、日本生活学会、55-63頁
・宮本常一1977『食生活雑考』(宮本常一著作集第24巻)、未来社
・宮本常一2006『新農村への提言Ⅰ』(宮本常一著作集第46巻)、未来社
