宮本常一記念館

学芸員ノート

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宮本常一と農業 その15 戦災と終戦

宮本研究|2026年5月24日|板垣優河

調査資料の焼失

宮本は1945710日にB29による焼夷弾攻撃を受け、大阪府泉北郡鳳町(現堺市)の家を焼き、家財道具一式に加え、東京から持ち出していた調査資料を悉く焼失してしまった。『民俗学への道』には次のように書いている。

「旅行や業務のかたわら、孜々として書きあげた原稿が一万二千枚枚ほどあった。抜き書きしたカードもそれほどあった。未整理の採集ノートが百冊も残っていた。写真も千枚ほどうつしていた。そういうものもいっさい消散した。さいわいにして原稿の一部が東京で助かっていたことのわかったのはありがたかったが、それは調査資料の何十分の一にあたるものであった。[中略]落胆はしなかったが、再びこの学問に情熱をかたむけるにはおそすぎるように思われた。あらゆる事情が悪くなり、書物といえば「遠野物語」一冊を持ち出したきり、なにもない。学問のことはしばらく断念して、方向を見失なった人びとのためによき友でありたいと思って終戦後をすごすことにした」(宮本1968a:242)。

戦前宮本は「地域採集を主とし、民俗誌を少なくも五十冊は書きあげたい」と考え(宮本1955:94)、調査ノートを整理し、原稿の作成を進めていた。そして「終戦頃までには二一冊をかきあげていた」という(宮本1961:242)。戦前の調査で刊行されたものには『周防大島を中心としたる海の生活誌』(19367月)、『河内国瀧畑左近熊太翁旧事談』(19378月)、『出雲八束郡片句浦民俗聞書』(19422月)、『吉野西奥民俗採訪録』(19429月)、『屋久島民俗誌』(19431月)、『越前石徹白民俗誌』(19494月)、『大隅半島民俗採訪録』(196810月)、『宝島民俗誌』(197411月、宮本常一著作集第17巻収録)、『中国山地民俗採訪録』(197610月、宮本常一著作集第23巻収録)の9冊がある。一方、脱稿はしていたが刊行までいかなかったものに、「おしらさま採訪記」「三河山中民俗採訪録」「鵜飼調査資料」「淡路沼島民俗誌」「西日本魚方言採訪記」「周防大島農具調査記録」「四国民俗採訪記」などがあったという(宮本1968b:2)。宮本が戦前各地を訪ね、幕末維新期に生まれた人々から聞いて作成した資料は、今となっては再調査のかなわないものばかりだった。その多くを戦災で焼失してしまったのである。

挫折した夢

ところで、大阪府の農務課嘱託になる前の宮本は、純粋に学問を進めたいと考えていたようである。194312月に発表した『村里を行く』を19619月に『新編 村里を行く』として再刊するに際し、新たに書き下ろした「追記」のなかで、宮本は次のように述べている。

「私はいろいろの夢をもっていた。歩いていると無数に夢がわいて来るものである。その夢をノートのはしに書きとめてあたためて構想をたてては喜んでいた。その構想というのは「日本文化形成史」というようなものを書きたいことであった。日本という風土、日本文化を形成して来た人々の姿、その人々によって形成せられた文化、それがどんなにからみあって発展して来たかというようなことを追及してみたかった。[中略]しかしそれには基礎作業が必要である。まず、日本で五〇ないし一〇〇カ所くらい適当な場所をえらんで、そこの民俗調査をする。一カ所に五日ないし一〇日かけるとして約一〇〇〇日、その整理に二〇〇〇日を要するとしておよそ一〇年、この進行とともに文化形成史を別に年々一冊ずつまとめていって、だいたい二〇冊で完成、それがすんだら私はセミのぬけがらのようになって死ぬ」(宮本1961:242)。

これによると、宮本は晩年になって取り組んだ「日本文化形成史」に係る構想を、戦前の早い段階から練っていたということになる。その痕跡を戦前の調査ノートから見出すことは難しいが、ノートの端に構想めいたものを書いていたのは事実である。例えば、19358月に周防大島の沖家室島等で作成したノートには、「◎浦々島々デ漁法ノチガフコト、又制度ノ相異。[/]◎島ノ消長[/]◎漁場ノ問題[/]◎家ノ話[/]◎出稼の話[/]以上まとめて見るべし」とメモしている(板垣編2025:53)。その構想の一部は『周防大島を中心としたる海の生活誌』にも反映されており、さらにいえば「海からみた日本」へと繋がっていくものでもある。先の「追記」では続けて次のように述べている。

「だから挫折がなければ、もう民俗誌の方は刊行の如何は別としても、原稿だけは一応できあがり、文化形成史の方も大分すすんでいたはずだが、戦災で資料を灰にし、一度挫折すると、どうにももとへは戻らないもので、とうとう空想が空想におわりそうになりつつある」(宮本1961:243)。

そうした喪失感を抑え込むために、この時期の宮本は農業に関する実務的な仕事に傾倒していたとも考えられるのである。

東方文化研究所での講演

194584日の日記には「東方文化研究所に行き、食事情の変遷についてはなす。集るもの50名あまり、熱心にきいてくれる」と書かれている(毎日新聞社2005:101)。この時の講演録は19468月に『東亜に於ける衣と食』として東方学術協会の編集で刊行され、後に『食生活雑考』(宮本常一著作集第24巻)にも「日本における食事情の変遷」として収録されている(宮本1977)。

宮本がこの講演のなかで一貫して主張していたことは、稗や麦、里芋、甘藷、山菜など、米以外の植物性食料が潜在的にもつ可能性だった。例えば、近世中期以降、東北日本海側の稲作地帯では飢饉が頻発するが、南部地方の稗作地帯ではその被害が少なかったとする。また麦は作りやすく収量が多いにもかかわらず、租税対象になることが少なかったために栽培技術は稚拙なまま据えおかれ、疎かにされてきたとする。そして次のように述べている。

「ただ今日まで米というものを無闇に重んじた。そして米作を奨励しすぎた。徳川時代それがわれわれに飢饉というものを教えた。今日われわれの食事情が逼迫した大きな原因の一つは、米だけが食べ物だと考えたところにある。しかし米にのみ依存するのは危険であり、真に食糧問題を解決するものではないと思います」(宮本1977:47)。

日本人の食生活の歴史を振り返ると、米以外でも主食料になり得るものはいくつもあり、従来の食材自体にもまだまだ開発の余地が多分に残されているというのである。例えば、終戦の少し前のことだが、野菜がほとんど底をついてしまった際、宮本は篤農家の間を歩いてカボチャの茎や甘藷の茎・葉を切って出すように呼びかけてまわった。これにより、ついには野菜(青物)には困らなかったという(宮本1978:24)。日本人が昔から発達させてきた粉食技術によって甘藷等の蔓を徹底的に粉砕加工すれば、現今の食料不足も解決がつくと考えていたことがうかがえる。

もっとも、このようなことを主張していたのは宮本一人ではなかった。例えば陸軍主計少将だった丸本彰造は、19448月に発表した『食糧戦争』のなかで、19436月に閣議決定された「食糧増産応急対策要綱」を「安定せる食糧自給体制を確立するために、ありとあらゆる手段をつくすということである」と捉え(丸本2024:16)、食料国内自給体制の確立を説いている。その際、「農村は国の本」であるとし、「食糧の確保と民族増強とは――大東亜戦争を勝抜き、また世界新秩序を建設する根基であり、基礎である。従って食糧生産、民族増強の基地である――農村を振興させることが最も必要であることは言うまでもあるまい。所謂皇国農村の確立という問題こそ、時局下の最大急務なのである」とも述べている(同前:50)。また従来の米食志向の食生活に対し、「ただ主食の米にばかり依存する考を改めて、藷であれ豆であれ、或は他の種々の物を出来るだけ利用して、民族の増強、生成発展に都合の好い栄養配合のとれた食物として食べることが出来るように――農業生産をすることである」と述べている(同前:74)。

宮本が敗戦後に備えた食料対策を説いていたのに対し、丸本は勝つための銃後食料戦線を説いていたという違いはある。しかし、どちらも食料自給の基盤として農村を位置付け、その振興の必要性を説いていた点では合致する。

さて、宮本は815日に大阪で終戦を迎える。日記には「暑い日。今日も家をつくるのに朝から精出す。昼までに大体土をつみあげる。午后から屋根をつけることにする。昼まへ重要放送あるから正午のラヂオをきけといふので待つていると、天皇の勅語あつて遂に無條件降伏発表。どのやうに言ひわけして見ても結局この責任は国民、特に政治家にある。午后は力がぬけて何もする気がないが、住む家だけは作つておかなければならないので仕事する。夜ねむれず」と書いている(毎日新聞社2005:102)。

行間には敗戦による脱力感が見え隠れする。しかし、終戦の前後で宮本の行動が大きく変わった形跡は認められない。それ以前も以降も、宮本は食料自給に向けての対策を立てるという使命を自らに課し、奔走していた。それは学問的な欲求を抑え込むための、宮本なりの折り合いの付け方であったことも忘れてはならない。戦争が民衆に与えた影響は大きく、宮本も決してその例外ではなかったのである。(つづく)

引用参考文献

・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録28 昭和10年周防大島調査ノート』、宮本常一記念館
・毎日新聞社2005『宮本常一写真・日記集成』別巻
・丸本彰造2024『食糧戦争』、経営科学出版
・宮本常一1955『民俗学への道』、岩崎書店
・宮本常一1961『新編 村里を行く』、未来社
・宮本常一1968a『民俗学への道』(宮本常一著作集第1)、未来社
・宮本常一1968b『大隅半島民俗採訪録』(常民文化叢書1)、慶友社
・宮本常一1977『食生活雑考』(宮本常一著作集第24巻)、未来社
・宮本常一1978「宮本常一先生聞き書き(1)」『季刊人類学』第9巻第3号、講談社、3-26

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