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宮本常一と農業 その16 帰農者の引率
宮本研究|2026年5月31日|板垣優河
北海道へ
1945年10月10日の日記には「橋本小作官に北海道帰農者について行つてくれないかとたのまれる。すぐ承知する。北海道へ行く人のことを思へばそれ位の事は何でもない」と書かれている(毎日新聞社2005:104)。政府は1945年5月に「北海道疎開者戦力化実施要綱」を決定し、約5万戸・20万人を集団的に北海道に送り、帰農させようとした。宮本はその第三次帰農隊を引率することを申し付けられたのだった。
10月20日に大阪を発ち、北海道天塩郡幌延町問寒別まで入植者を引率した後、先に入植していた人々の様子を見るべく、遠軽・北見・網走・釧路・石狩地方をまわった。この時のことは『民俗学への道』や『民俗学の旅』に書かれているが、入植者のその後は決して明るいものではなかったようである。例えば、11月3日に訪れた樺戸郡新十津川村(現十津川町)は、奈良県吉野郡十津川村から分村して開拓定住した村だったが、宮本はその親村の方を1939年に調査していた。十津川村では1889年8月の大水害後、北海道に600戸余りが移住していた。1939年10月14日の同村湯泉地温泉での聞書きには、「モト家が十軒ホドアツタ。[/]北海道へ移住シタノハ家ヲコハサレタモノガ主デアツタ。[/]家ガアツテイツタモノハ、家ヲウツテイツタ」と書かれている(田村・徳毛編2019:174、ただし原資料をもとに一部変更)。なお、宮本がこの湯泉地の宿に滞在していた夜、すぐ近くで規模の大きな山崩れが起こっていたことが「十津川くずれ」(宮本常一著作集第10巻収録)からうかがえる(宮本1971:261)。
さて十津川村からの入植者は石狩川西岸の原野で開墾を始めるが、急峻な山中で暮らしていた者にとって、その広い原野を拓いて定住することは容易ではなかった。宮本が訪れた時には僅か10戸が留まっていたにすぎず、十津川村の習俗は何ほども残っていなかったという(宮本1968:243)。宮本の執筆と推定される『日本残酷物語』第4部所収の「十津川くずれ」には、「新十津川は十津川郷民によってひらかれたのではあるが、農業になれないこれらの人々は、どうしても土に密着することができなかった。そしてしだいに流離するにいたった。一部は郷里にもかえったが、多くは郷里にかえることを恥じた。十津川郷士として敗北の姿を郷里にさらしたくなかったのであろう。そうしてじつに移住者の六割が新十津川をはなれて道内各地を流浪した。この人々を「十津川衆」といった」と書かれている(下中編1960:160)。そうした現状を見るなかで、宮本は自らが引率した入植者たちの暗い将来を予感せずにはいられなかった。
宮本は11月9日に北海道を離れ、11月10日には東京まで戻ってくる。日記によると三田の渋沢邸、成城学園の柳田邸、そして小石川の新自治協会に足を運んでいる。この間、渋沢の親戚で農商務大臣だった石黒忠篤にも北海道で見た入植者の様子を報告した(宮本1978:145)。大阪には11月14日に帰庁する。
北海道の旅に関する調査資料は確認できないが、『民俗学の旅』などを読む限り、戦前の民俗調査を目的とした旅とは明らかに趣を異にするものだったと推察できる。民俗を採訪するための旅ではなく、あくまでも生活者がその土地でどのように生きているのか、その現実を見ることに主眼をおいた旅だった。それは戦後、昭和20年代前半に各地で行った農村調査にも継続するものであり、さらにいえば、昭和30年代に入って取り組むことになる『風土記日本』や『日本残酷物語』、そして『忘れられた日本人』といった仕事にも連なるものでもある。北海道の旅は、宮本にとってまさしく戦後調査の出発点になるものだった。
新農村への提議
11月20日の日記には「『新自治』へ「新農村への提議」を書く」とある(毎日新聞社2005:105)。この原稿は1946年に新自治協会から発行された『新自治』1月号に「新農村への提議―食糧増産を中心に―」と題して掲載されている。
そこでは敗戦後日本がまず直面しなければならなかったのは食料問題であるとし、それを乗り越え、再び国家興隆をなすには、「先づ全力をあげて農業立国の根本策と食糧増産に当たらなければならない。食糧の自給方策こそは今我々農民の国家に対する最も大なる貢献である」と主張する(宮本1946:15)。具体的な方策としては、未開地の開墾、傾斜面の利用と海面等の干拓による耕地の拡張、品種改良、耕作技術の改善、試作地の設置、篤農家による経営の視察及び指導、農が苦しきものであるとの観点から楽しきものであるとの観念への変改、そのための畜力の利用、耕作の機動化、農産物加工等の工業化、食用作物の多彩化、麦・甘藷・馬鈴薯等の栽培技術の高度化、食法の合理化、米を尊し他を卑しとする食物の観念からの脱却、粉食による代用食の美食化などをあげている。
また、村落自治について、「すぐれたるかかる技術の指導者が同時に農村の指導者であらねばならぬ。農のよき実践者が指導者でない限り、農村は正しくよき方向に向つてたち上る事は不可能に近いと思ふ。農民は周囲からする雑音に災ひされてはならない」とする(宮本1946:18)。さらに、農村における土地所有の問題について、自作農創定方式を一応は肯定しつつ、それとともに大切なのは土地の交換分合と農業経営の合理化であると主張する。そして最後に、「是等の事について人々の全能が傾けられると共に新自治協会がその一つの中核として活動する事を期待する」と結んでいる(同前:18)。
大阪府農務課嘱託時代の終盤に書いたこの「新農村への提議」には、戦後行う農村調査の視覚が早くも表出しており、その宣言文としても読むことができる。
民衆への信頼感
宮本は『民衆の文化』(宮本常一著作集第13巻)のなかで、戦争によって農村では中堅層になるはずだった人々が多数戦死したことは「実にとりかえしのつかないこと」であり、「これが今日の農村問題のいちばん大きな、われわれの手では解決できないもの」であると述べている(宮本1973:214-215)。一方で、敗戦によって国内の秩序が決定的に崩されたわけではなく、立ち直ることができるとも考えていた。それは、大阪府下の農村を歩くことによって得た所感だった。
宮本は敗戦後、戦災を被った人々が飢えないように、供出成績の悪い農業会へ行って事情を聴き、供出を頼んで歩いた。村によっては130%の供出をしてくれたところもあり、大阪府全体では107%であったという(宮本1973:72)。前掲書では次のようなエピソードを紹介している。
「同じころ丹波の山中へ行って大阪市民が生鮮な野菜のとぼしいのに困っていることについてはなすと、山林を強制伐採させられたあとを村人共同で焼いて、そこへ大根をまいて、できたものを大阪へおくってくれた村があった。こうした庶民の持つ仲間意識をもっとはっきりした組織にしていくことが大切だと思った」(宮本1973:73)。
また、晩年には次のような回想もしている。
「私は昭和20年の12月31日に大阪府庁を辞めたんですがね。いちばんの心配はね、栄養失調がどれほど出るかってことだったんです。それで、12月いっぱいかけて府庁の衛生部が健康診断をやったんです。そしたら、当時焼け跡に100万人以上の人が住んでおったのに、栄養失調はわずか1000人だったんです。とにかく、家は焼けたけど、人間のからだに与えた傷ってのは意外なほど少なかったということを知って、私は辞めたんです。なぜ栄養失調の人が少なくてすんだかというと、やっぱり周囲の村が都市民のために協力したからだと思うんです」(宮本1978a:24)。
このような経験は、宮本をして村を越えた民衆の相互扶助的な姿を強く印象付けさせるとともに、大阪や京都などの都市が周辺の農村によって支えられ、発展してきたことを認識させたものと思われる。後年宮本は『町のなりたち』(双書・日本民衆史5)や『私の日本地図14 京都』などを通して都市と農村の相互的な結び付きに注目するようになるが、その背後では敗戦直後の経験が少なからず影響を及ぼしていたと考えられる。
敗戦後日本の復興は、こうした民衆が持つ共通感情や逞しさを原動力として起こってくるはずだ。そのような感触を得た宮本は、12月22日に大阪府に辞表を提出し、農業をするつもりで郷里に引揚げたのだった。(つづく)
引用参考文献
・下中邦彦編1960『日本残酷物語』第4部 保障なき社会、平凡社
・田村善次郎・徳毛敦洋編2019『宮本常一農漁村採訪録21 吉野西奥調査ノート』、宮本常一記念館
・毎日新聞社2005『宮本常一写真・日記集成』別巻
・宮本常一1946「新農村への提議―食糧増産を中心に―」『新自治』1月号、新自治協会、14-18頁
・宮本常一1968『民俗学への道』(宮本常一著作集第1巻)、未来社
・宮本常一1971『忘れられた日本人』(宮本常一著作集第10巻)、未来社
・宮本常一1973『民衆の文化』(宮本常一著作集第13巻)、未来社
・宮本常一1978a「宮本常一先生聞き書き(1)」『季刊人類学』第9巻第3号、講談社、3-26頁
・宮本常一1978b『民俗学の旅』、文藝春秋
