宮本常一記念館

学芸員ノート

046

宮本常一と農業 その17 戦後の旅

宮本研究|2026年6月9日|板垣優河

戦後の旅

宮本は、農家の立場から戦後の平和を実現するには、第一に食料の自給を図ることが大切だと考えていた。「食料を自給し得ている国は外国の干渉を排除することができる。それは今日までの歴史を見ればおのずから肯定できる。農民としてなさねばならぬことは、より高い生産をあげ、まず国民の食料を確保するように努力すること。次には国民の一人一人が安定した生活ができるような道を見つけていくことだと考えた」のである(宮本1978:149)。

その際に宮本が注目したのは、それぞれの地域社会にあって指導的な役割を担っていた旧家や知識人、優れた農業技術を保持する篤農家などだった。1946年から1949年までは、そうした人々を見出し、交流する旅を続けることになる。そして、農地解放によって地主制度が解体されていくなかで、かつて地主層が地域社会に果たしてきた役割を歴史的に明らかにするための調査(いわゆる地主調査)に取り組むとともに、大阪府農務課嘱託時代の活動を全国に敷衍するかたちで、農業技術や農業経営の視察・指導を各地で展開した。

日記にみる旅の日数

下表は宮本の日記(毎日新聞社編2005)をもとに、1946年から1949年までの彼の各地調査・滞在日数を都府県別に集計したものである。実際には1日のうちに都府県をまたいで目まぐるしく移動している日もあるのだが、その場合は主たる調査・滞在地が所在する都府県で数えている。また、1日をほぼ鉄道等を利用しての移動だけで費やしている場合もあり、それらは「移動」として集計した。

この4年間、1,461日の間に、宮本は、北は青森県から南は鹿児島県まで、都合34都府県に行っている。日数として最も多いのは周防大島がある山口県で、546日を占めている。このうち周防大島に滞在していた日数は541日で、内訳は1946111日、194799日、1948159日、1949172日である。滞在中は田植えや稲刈りなどの農作業をしたり、読書や執筆などのデスクワークに勤しんだりしている。次いで多いのは第二の家がある大阪府で、264日を数える。特に1948年と1949年の滞在日数が多いが、これは大阪府農地部の嘱託となって府下で農業指導を行うようになったからである。次いで多いのは東京都で、209日を数える。特に1946年と1947年の滞在日数が多いのは、後述する新自治協会を足掛かりにして調査を行っていたことによる。

以上の山口県・大阪府・東京都は調査地というよりも、滞在地としての側面が強い。残りの442日が、大まかにいえば旅に出ていた日数ということになる。その内訳は、1946126日、1947161日、1948105日、194950日である。調査地としては、秋田県と兵庫県が各66日と最も多いが、これは同地で地主調査を精力的に行っていたことによる。兵庫県では西宮の知人で郷土史家の田岡香逸を繰り返し訪ねていることも大きい。次いで福井県20日、神奈川県・鳥取県・愛媛県18日、京都府・福岡県・徳島県17日、長野県16日、広島県14日、山梨県・高知県12日と続く。多くが地主調査によるものだが、愛媛県では越智郡乃万村(現今治市)の丸木長雄宅に農業技術を視察するために何度も通い、京都府では京都大学の小林行雄や水野清一など、考古学関係者に度々会いに行っている。徳島県の日数も多いが、これは19495月に板野郡藍園村(現藍住町)でリンパ腺化膿のために2週間近く療養生活をしていたことによる。

この4年間は、病気による一時沈殿はあるにしても、宮本にとって生涯最も精力的に活動していた時期ではなかったかと思われる。戦後の復興が急がれるなかで食料問題が喫緊の課題として取り上げられるようになるが、宮本はそれを農家の立場から、学問の力によって解決していこうとしていた。戦時中も戦後も、宮本にとって学問とは「実学」であり、「生きてゆくための手段」であった(宮本1977:310-311)。

以降、本連載ではこの時期の宮本の活動を、調査資料も俎上にのせながら検討することにしたい。(つづく)

引用参考文献

・毎日新聞社2005『宮本常一写真・日記集成』別巻
・宮本常一1977『食生活雑考』(宮本常一著作集第24巻)、未来社
・宮本常一1978『民俗学の旅』、文藝春秋

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