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宮本常一と農業 その18 新自治協会と地主調査
宮本研究|2026年6月21日|板垣優河
新自治協会
1945年12月22日に大阪府農務課嘱託を辞した宮本は、郷里で農業をするつもりで1946年1月14日に周防大島に引揚げてきた。しかし、島で落ち着くことができたのも束の間で、2月8日に再び大阪に引き返し、2月13日から2月18日にかけては兵庫県氷上郡鴨庄村(現丹波市)を調査した。これが戦後1回目となる地主調査である。2月25日からは夜行で東京へ向かう。東京ではしばらく小石川林町(現文京区)にあった新自治協会にいて、渋沢敬三や芦田恵之助、柳田国男に会っている。
3月5日からは神奈川県中郡金目村(現平塚市)や足柄下郡吉浜町(現湯河原町)で農業の視察を行う。3月11日の日記には「平塚で下車して大野川青年学校に鴨志田先生に酵素肥料のことをきく。実に熱心な先生である。農家の一戸々々に肥料をつくつて歩いている。夕方までいて平塚より汽車にのり、スガモにかへり新自治協会にゆく。渡辺氏かへつているので事情をきく。協会の嘱託になれとの事である」と書かれている(毎日新聞社2005:110)。ここで、新自治協会の嘱託になる話が出てくる。続いて3月15日の日記には「新自治協会へかへつて中央理事会に出席する。地方報告をきき農村運動の方法についてきく」とある(同前:110)。これによると、協会の中央理事にもなったようである。
宮本が新自治協会で仕事をしていたのは、日記を読む限り、1946年3月から1947年6月までである。新自治協会は、1933年に安岡正篤によって設立された篤農協会を前身とし、1945年11月に再編された半官半民の団体である。1946年発行の『新自治』1月号の「本部便り」には、「特に当面の目標としては「興村護国運動」(村造り、村固め)に主眼を置き、地方の同志や加盟団体と協力して各地域に活発な新自治運動を展開しようとするものである」と書かれている(新自治協会1946a:31)。また本号掲載の「新自治協会要覧」には事業要目第5項として「国民生活及郷土行事ヲ調査研究シ広ク各種研究機関ト提携ス」と書かれている(同前:30)。協会で宮本とともに仕事をしていた谷内明夫は、「協会は農林省から松角久三郎氏を迎え、新事業の一環としてGHQ天然資源局にて検討していた農地改革の基礎調査を委嘱され、全国の地主実態調査を行うこととなり、先生がむかえられた」と振り返っている(谷内1981:115)。戦後しばらくの宮本の活動を見ていると、宮本は特にこの第5項事業を進めるために協会に入るよう要請されたのではないかと思われる。
もっとも、宮本からすると、協会を足掛かりとして各地で民俗学的な調査を行いたいという思惑もあったはずだ。それを実現するための具体的な場となったのが、新自治協会内部に設けられた農村研究所だった。
農村研究所
1946年7月13日の日記には「午后四時品川につき、山手線で小石川林町に行く。渡辺氏居る。農村研究所が出来る事についての相談あり。その事についてはなしあふ。新自治協会にも研究室を持つ事が大切だし地方の研究者たちを助けたい事を力説する」と書かれている(毎日新聞社2005:116)。
宮本を主任とし、新自治協会内部に設けられたこの農村研究所については、『新自治』掲載の一連の「農村研究所だより」によって動向をたどることができる。1946年10月号には次のように書かれている。
「協会の農村研究所は七月十四日に新しく発足した。その目的とする所は農村に於ける伝統的な生活を調査研究して、日本の村落が如何に構成せられ、また運営せられて来たかを見ようとするにある。その組織は所友と同人とに分け、所友は研究の指導をしていただく人を御依頼、同人は直接研究に携はる人々である。而して同人は常勤と随時勤務と地方同人とを以て構成する。宮本常一、鈴木良雄、谷内明夫の三名が常勤同人となり、笹村草家人氏が随時勤務して下さる事になつた。地方同人は目下左記の諸氏に委嘱した。[中略]同人の活動状況について言へば宮本は八月東北各地を巡回、地方同人を依頼し、研究団体との連携をはかり、且村落調査に従つた。その間、石城長友の名主渡邊最左衛門の手記、秋田金足村奈良家の農家私用日記、秋田市辻家の真澄遊覧記、酒田光丘文庫の松森胤保翁の著作などを見る事が出来た。[中略]各研究同人はやがてかかる資料について猛烈な研究活動を開始し、農村構成の実態を漸次明らかにして行くであろう」(新自治協会1946b:32)。
1946年10月号の該当箇所(右)
また、1946年の11月号には、「宮本による地主調査第一回報告書は目下農林省に呈出中である。[中略]かくの如くにして、協会の主張たる興村自治運動の基盤たる日本農村の実体調査研究は着々と進められている」と書かれている(新自治協会1946c:32)。なお、本号で宮本は「生産と家族制度」と題する論考を書いているが、執筆者紹介には「宮本常一 本会農村研究所主任」と記載されている。1946年12月号には、「農村研究室は未だ機構整備に力をそそいでいる。併し形だけは一応整つて来た。先づ民族学協会々長渋澤敬三先生を相談役として研究室の運営に色々御指導を仰ぐ事になつた。且先生からは日本常民文化研究所刊行の図書八十余冊の寄贈をうけた。[中略]研究室内に於ける研究題目も自ら定つて来た。谷内は住宅、鈴木は年齢階級―特に青年の結合、稲井は民具、肥料、作物の品種変遷、宮本は村落生活の結合組織である。[中略]一方地方研究諸団体からの調査或は出講要望も多きを加へつつあるので今後地方との連絡は愈々綿密になつて来るであらう」と書かれている(新自治協会1946d:29)。
以上によると、農村研究所では渋沢敬三を相談役として迎え入れ、全国各地に地方同人を委嘱し、文献資料等の調査も含めた農村の組織的・構造的な実態調査を精力的に行っていたようである。さらに、地方へ出向いての指導・講義等の普及活動も行っていたことがうかがえる。
農村研究所については「正に宮本研究所というべきものであった」との証言もあり(遠藤1981:120)、宮本の強力な人脈と能力を背景とした農村実態調査が展開されていた。しかし、新自治協会の方では早々に不穏な空気が漂っていた。1946年12月14日の日記には「協会もこのあたりで大きく転回しなければならない時かと思う」として、協会内部の対立構造を叙述している(毎日新聞社2005:122)。1947年2月9日の日記には「協会もいよいよ行きつまって来たようである。破産の一歩手まえまで来たように思われる」と書かれている(同前:126)。行間には協会の体制に対する不満が露出している。6月14日の日記には「午后、協会へ行く。理事会の様子をきくと三つに分れて経営することになったとのことで、林町の方へ寄って松角、斎藤、東倉氏らとはなす。そしてこの人々によって農村自治連盟がつくられることになり、私も之を支持することにする」と書かれている(同前:134)。
農村自治連盟は新自治協会から分裂して設立された団体であり、宮本は6月20日に新自治協会を辞し、これに付くようになる。ただし、その活動状況についてはあまりよく分からない。1948年1月15日の日記には「松角さんの家へ行って協会の状態についてきく。現実は仲々むづかしい。会員も30名にすぎぬという。之をふやして行かねばならぬ。文化運動の容易でないことを思う。[中略]夕方高松君来る。農閑期大学は正式申込11名との事であるが、ここから出発して行かねばならぬ。何とかよい講習にしたい」と書かれている(毎日新聞社2005:150)。同年2月15日から2月23日にかけては横浜の純真学園で「農閑期大学」が開催され、宮本は農業技術や農業経営について講義をしている(同前:151)。これは農村自治連盟としての活動ではなかったかと思われる。
地主調査
先述のように、宮本は1946年3月に新自治協会に入り、その7月からは協会内部に設置された農村研究所の主任として農村の実態調査に取り組むようになる。その後新自治協会は内部対立により分裂し、宮本は農村自治連盟に付くようになるが、農村の調査自体は1949年10月、日本常民文化研究所に設置された水産資料整備委員会の調査員になるまで精力的に続けていた。この一連の調査を、宮本自身は「地主調査」と称していた(田村1986:393)。なお、地主調査と呼べるものは、すでに戦時中から新自治協会の前身である篤農協会を通じて着手している。1945年4月14日に行った奈良県磯城郡耳成村新賀(現橿原市)が、厳密な意味では第1回地主調査ということになる(毎日新聞社2005:96)。
宮本の筆跡と断定できる原稿については、『村の旧家と村落組織』Ⅰ・Ⅱとして宮本常一著作集第32・33巻に収録されている。その内容については調査資料と対照させながら別の機会に分析するが、一連の報告を読むと、村の旧家を中心とする社会組織や土地所有状況だけでなく、衣食住や年中行事、民具、石造物などを幅広く調査していたことがうかがえる。
地主調査に係る旅費や給与は、当初は新自治協会から支給されていたようで、例えば1946年5月10日の日記には「協会より旅費四〇〇円、手当六〇〇円(四・五月分)をもらふ。之で大いに助かる。[中略]薄給を助けるために少し原稿かせぎもして見たいと思ふ」と書かれている(毎日新聞社2005:113)。このことから、当初の地主調査は新自治協会を足掛かりとして行われていたと考えてよい。「農村研究所だより」でみたように、その報告書は初め農林省に提出していたようだが、後には文部省から補助金を得て調査を進めるようになる。1949年9月30日の日記には「昨日文部省から地主調査に対する補助金が1万円ある事になったのでその内訳書を書き、今朝出す」と書かれている(同前:174)。
宮本が行った地主調査は、宮本自身によると、「地主を中心にした土地制度、とくに近世初期の開墾によって大きくなった地主の、村内における有機的な結びつきを調査する」というものだった(宮本1968:244)。その背景として『私の日本地図11 阿蘇・球磨』では次のように述べている。
「戦時中、この戦争を支えてきていた精神的な支柱になっているものは何だろうと考えさせられることが多かった。日本の農村のどこを歩いてみても意外なほど落着いていて、ある自信に似たものを持って生きていた。しかも村民全体の思想的な統一のよくとれているところが多かった。戦後のいろいろの学説や評価は日本の庶民が官権の圧迫のために言いたいことも言えず、暗くじめじめした中で周囲を気にしながら生きていたように説くものが多かったけれども、現実に見る農民は腰も土性骨もすわっていて、みなよく働いた。そうした中にあってとくに活気に満ちた村にはたいていすぐれた指導者がおり、指導者は中小の地主が多く、しかもその多くは開墾地主であった。私はそうした開墾地主の歴史と村との関係に興をおぼえ、昭和一八年頃からややくわしくその調査をすすめており、戦後農地解放によって地主制度が解体するにつき、その調査記録をとっておきたいと考え、伝手を求めて古い開墾地主の家を訪うて聞き書きをとってあるいた」(宮本1972:18-19)。
ここでいう地主とは、不在地主や寄生地主ではなく、村にあって村をよくするために指導的な役割を果たしてきた在郷地主のことである。また、『忘れられた日本人』において「文字をもつ伝承者」として紹介された島根県邑智郡田所村(現邑南町)の田中梅治、福島県石城郡草野村(現いわき市)の高木誠一のように、村にいて自立した農業経営を行うとともに、知識人として地域社会をリードする篤農家や旧家層も調査対象となっている。宮本はそうした人々が村落結合の枢をなしている地域の生産構造や社会組織に関心があった。そして戦後の自作農創出を目的とした農地解放により、地主制度が解体されるなかで、村がどのように変容していくのかを記録し、見定めようとしていた。
ところで、先に「農村研究所だより」でみたように、地主調査では旧家に残る古文書の調査収集も併行して進めていた。「村々をあるいている間に地主や旧家の没落していくさまも目のあたり見た。そうした家では家財や家宝を売ったし、書画や骨董品も売った。その中にまじって散佚する古文書も少なくなかったようで、私は旅の途中東京へ出るたびに渋沢敬三先生にその実情をうったえた。このことは間もなく、「近世庶民資料蒐集委員会」の出発となって、まず地方旧家にのこる古文書の所在をたしかめる調査がすすめられることになった」(宮本1968:286)。また、そのような問題意識から、1949年10月に日本常民文化研究所に復帰し、同研究所が水産庁から委託を受けていた「漁業制度資料調査保存事業」の一環で古文書の調査収集に取り組むようになる。
つまり、一口に地主調査といっても、その対象は地主に限定されるものではなく、またその手法やモチーフも複線的だった。とにかく、自分なりの立場で民俗学という学問を進めていきたいという意思が強くはたらいての調査ではなかったかと考える。(つづく)
引用参考文献
・遠藤庄吉1981「宮本常一先生の思い出」『宮本常一 同時代の証言』、日本観光文化研究所、117-120頁
・新自治協会1946a『新自治』1月号
・新自治協会1946b『新自治』10月号
・新自治協会1946c『新自治』11月号
・新自治協会1946d『新自治』12月号
・谷内明夫1981「宮本常一先生との出あい」『宮本常一 同時代の証言』、日本観光文化研究所、115-117頁
・田村善次郎1986「あとがき」『村の旧家と村落組織』Ⅰ(宮本常一著作集第32巻)、未来社、393-394頁
・毎日新聞社2005『宮本常一写真・日記集成』別巻
・宮本常一1968『民俗学への道』(宮本常一著作集第1巻)、未来社
・宮本常一1972『私の日本地図11 阿蘇・球磨』、同友館
