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宮本常一と農業 その19 福島県草野村・大浦村の地主調査①
宮本研究|2026年7月19日|板垣優河
調査の経緯
戦後宮本が取り組んだ地主調査の傾向と特質を見るために、以下では宮本常一記念館で保管している福島県石城郡草野村北神谷、及び同郡大浦村長友(ともに現いわき市)の調査資料を検討する。
宮本が草野村北神谷を初めて訪れたのは1940年12月の暮れ、下北半島の北端大間崎に至る東北地方の旅を終え、東京まで帰る途次においてであった。その目的は、篤農家であり、柳田國男に師事した民俗学研究者でもある高木誠一に会うためだった(写真1)。この時のことは『忘れられた日本人』所収の「文字をもつ伝承者(二)」に書かれている。そのなかで宮本は「高木さんの印象は壮快の一語につきる。ほんとの意味の農民の典型である。その知識も技能もみんな適確である。周囲の人たちが安心してたよっていける人である。こういう人はいつも農民の中心をなしていて農民を裏切らない」と記している(宮本1960:247)。

次に宮本が北神谷を訪れたのは1946年8月6日、東北地方第1回目となる地主調査を行うためだった。同日の日記には「草野に下車して高木誠一氏をとふ。夜、和田文雄[夫]君来てくれてはなしあふ」とある。また翌7日の日記には「朝九時まで高木氏の家にてはなしをきき、それより和田さんの家へ行く。小さい峠を一つ北へこえると大浦村である。和田さんの家はそこの旧家。昼飯を御馳走になつた後で、渡辺といふ旧家をとひ、色々はなしをきく。夜、和田さんの家までかへつて見ると高木さん来ている。もう一度逢ひたかつたからとの事。夕食後長隆寺へジンガラ念仏を見にゆく」と書かれている(毎日新聞社2005:117)。
宮本が訪れた時にはすでに北神谷には地主と呼べる家はなかったが、大浦村には地主がいた。そこで、宮本は両地域を比較するために同村長友に行き、長友の旧家である和田家や地主である渡辺家を調査することにしたのである(宮本1960:250)。なお、1946年発行の『新自治』10月号の「農村研究所だより」には、新自治協会内部に設けられた農村研究所の地方同人として、高木誠一と和田文夫の名前があげられている(新自治協会1946:32)。この時の調査で宮本が同人になるよう依頼したものと思われる。
1946年8月に行った調査の成果は、『村の旧家と村落組織Ⅱ』(宮本常一著作集第33巻)所収の「九 福島県石城郡草野村及び大浦村」に見ることができる。同報告では高木家について、「客分といわれる旧家で、今日土地二町余を所持している中堅農家である」と書かれている(宮本1986:160)。また、高木については「氏に接する時、村の正しい改革は、村をよく理解することによって可能になることを知る」と書かれている(同前:162)。高木は地主ではないが旧家としての感覚を多分に持っており、村の中にあって、村人の思想や生活の方向付けをすることに積極的な人であったようだ。宮本の地主調査の対象には、地主に限らず、そうした村の伝承を保持し、村をよく理解する旧家も含まれていた。
宮本常一記念館には、冒頭に「21.8.6 福島県石城郡草野村北神谷 高木誠一氏」と記された都合38枚からなる聞書きを主とする調査資料(文書1-1/0012/01/00)がある(写真2)。以下、本資料によって宮本が記録した草野村・大浦村の社会を見ることにしたい。
地主の性格
この調査の目的の一つがやはり地主の調査であったことは、調査資料のはじめの方で「明30.10.25.大地主ノ資格ヲシラベタモノガノコツテイル。[/]地主トイフコトバハ、徳川時代ニハナカツタ。[/]小作米ヲトツテ人ニツクラセテノミイルモノハナカツタ。[/]小作書ニハ上納ハ小作者ガオサメルカ、地主ガオサメルカヲキメテアル」と書かれていることからもうかがえる。加えて、この記録からは、近世には小作米の徴収のみで生計を立てている搾取的・寄生的な地主がいなかったことも読み取れる。
そうした意味での地主が現れるのは、明治以降、貨幣経済が浸透してからである。調査資料には「土地売買ガ自由ニナツテカラ町ノ方ヘウル風ガ多クナル。平市ノ方ノモノガカウタ。[/]サウスルト、ウツタモノガソノ土地ヲソノママ耕作出来タ。[/]肥料カシツケヲウケテ金ヲハラヘズ、土地ヲ失ツタモノアリ」と書かれている。明治以降、金肥の使用が増えると、それによって借銭を作り土地を手離す者が増えた。しかし土地を売ってからも、小作としてその土地を引き続き作っていたという。
また、調査資料には「地主ガキキンニカユヲニテフルマツタ。[/]北カベヤノ庄屋ナドモ之ヲ行フテイル。今ソノ庄ヤモアルガ、レイラクシテイル。[/]ワタナベサイザヘモンハ、上納米ヲ1年間サシトメテ村ヲウルホシ村ノ再建ヲシタ」と書かれている。「ワタナベサイザエモン」とは、大浦村長友の地主渡辺最左衛門のことであり、宮本はその部分に「◎」を付けて際立たせている。地主が村の中で果たした救済的機能に注目していたことがうかがえる。
地主は必ずしもその初めから自家財産の増大を目的として土地を買い集めていたわけではなかったようで、調査資料には「北カベヤニハ大地主ナシ。[/]最モ大キイノハ1丁5反。[/]モト古川屋トイフ古イ家ガアツタガ、ソノ家ハ永地トシテカハズ、土地ヲミナ戻シテヤツタ。酒造ヲシテイタ」と書かれている。つまり、土地を預かるだけで返す場合もあり、そのために解体した地主もいたことが分かる。
この点は地主の性格を考えるうえで見逃すことができないので補足しておきたい。宮本によると、丹波山中の旧家の土地台帳には「先祖地」と「預り地」とに分けて書いたものがあり、後者は「預けた人が買戻しに来た場合は必ずかえすべきもので、預け主に無断で売ってはならないと書いてありました」という(宮本1957:46)。後年、野田泉光院の『日本九峰修行日記』という近世後期の紀行文を読むなかで、但馬地方でその時代に大土地所有が出現した背景として「預り地」の風があったことを指摘し、次のように述べている。
「これに出てくる大石家というのは一時たくさんの土地を持つのですが、幕末頃から土地が減り始めている。そのことについて書いてないんですが、私に想像がつくのは、おそらく売った人たちが何らかの形で金を儲けて、その土地の買い戻しを始めたのではなかろうかと思われます。その時には、利子をとらないで、だいたい買ったのですから、お金を貸したのではないのですから、地主が買い付けた価でまた戻してやるというのが昔からのしきたりだったようです。これはたいへんおもしろい制度で、他の地方では私は知らないのですが、何故鳥取から兵庫の一帯にかけて、大きな地主が幕末の頃つぎつぎに発生してきたのか、その理由の一つとして生活に困るというとその土地を売る、買う方はそれによってどんどん大きくなる――なぜ容易に売るのかというと、金ができればまた買い戻せるということがあったからです――買った方は決して自分の所有と考えないで預っておるという考え方でおった。これは非常に大事なことで、それが地主を発生させた理由にもなり、逆にその地主が小さくなった時には、放蕩して金を使って小さくなったのは別ですが、周囲が金持ちになって来ることで買い戻されることが多かった」(宮本1980:139-140)。
宮本の調査資料からは、兵庫県や鳥取県の山中だけでなく、福島県の農村にも「預かり地」の風があったことがうかがえる。どちらも地主の出現・消滅の過程や土地所有に対する当時の認識を考えるうえで示唆的である。
宮本による地主調査は、地主に対する俗説的な理解を解体し、地主が地域社会に及ぼしたネガティブな側面だけでなく、ポジティブな側面を見ることも目的として行われたものだった。(つづく)
引用参考文献
・新自治協会1946『新自治』10月号
・毎日新聞社2005『宮本常一写真・日記集成』別巻
・宮本常一1957「村の中で」『広島農業』7月号、広島農業協会、46-47頁
・宮本常一1960『忘れられた日本人』、未来社
・宮本常一1980『野田泉光院』(旅人たちの歴史1)、未来社
・宮本常一1986『村の旧家と村落組織』Ⅱ(宮本常一著作集第33巻)、未来社
