宮本常一記念館

学芸員ノート

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宮本常一と農業 その20 福島県草野村・大浦村の地主調査②

宮本研究|2026年7月31日|板垣優河

東北地方の見聞録

宮本常一記念館には、宮本が1946年に東北地方で行った地主調査の記録に加え、その周辺で見聞した風物や自らの行動履歴を日記風に記したノートがある(文書1-1/0011/01/00)。これにより、宮本の地主調査がどのようにして進められていたのかを知ることができる。せっかくなので、以下では福島県石城郡草野村北神谷、及び同郡大浦村長友(ともに現いわき市)を訪れた1946867日の記録を見る。

8月6日
10.45協会ヲ出ル。[/]11.25上野発仙台行ニノル。甚ダコム。[中略]海岸ニ出ル。松多ク故里ヲオモハセル。[/]シホヲタク小屋多シ。[/]草野下車。[/]稲ノ出来ヨシ。[/]高木氏ヲトフ。[/]家ノヤシキノ口ニワラ馬アリ。[/]盆ノホトケノ迎ヘ馬。[/]仏ダンノマヘニソーメンヲ二杯カゴニイレテソナヘテアル。[/]牛小ヤノ入口ニウスノ如キモノヲウズメタリ。馬フネ(飼バオケ也)」

8月7日
「高木氏ニラヂオドロボーノハナシヲキク。[/]9時ゴロマデ地主制度ニツイテキキ、高木氏ハ村葬ニユク。[/]和田氏ノ家ヘユクタメニ北神谷カラ長友ヘ小サイ峠ヲコエル。[中略]昼食後、渡辺氏ノオ宅ヘユク。[/]モトコノアタリノ豪農。今オトロヘタリ。[/]大キナル家。ソノ家ノ古文書ヲミセテモラフ。[/]最左衛門ナルフデマメノ人アリテ、ヨク文書ヲ整理シアリ。夕方マデハナシヲキイテカヘル。[/]高木氏来テマツテイル。ナゴリヲオシミテ来ツルナリトイフ。[/]夜ジンガラネンブツヲ長隆寺ヘミニユク」

以上の記録は『忘れられた日本人』で述べられていたものと若干食い違う部分もあるが、概ね合致する。こうした調査周辺の記録が実在することにより、『忘れられた日本人』の物語的な展開も、それなりの事実に基づくものとして読み進めることができるのである。

以下、前回に引き続き、宮本による草野村・大浦村の調査資料を検討する。

地主・小作の関係

宮本の調査資料を読んでいると、地主・小作の関係は、もともとは親方・子方の関係から発生したものではないかと思われる節がある。例えば、次のような記録がそうである。

「他カラ来テ子分ニナツタモノ(オイツキトイフ)ヲセツチンシガトイフ。[中略]オイツキハ、オヤブン(ワラジヌギ)ヲキメテオチツク。[/]子分トイツテイル。孫クライマデハツキアヒヲシテイル。[/]長友ノオヤカタハ、子分及ブンケヲ含メテ45軒クライアル。[/]譜代ガ本家ノシウイヲトリマイテイル。[/]コノ場合本家ノモノヲ小作スル。子分ノアル一ケンノ家ハ、カナラズセチギコリヲシニ本家ノ山ヲキリ、自分ノウチハ五、六一タナヲモラフ。[/]本家ノタキリヨートシテ、二タナクライヲキル。[/]職人デ村ニオチツクモノモアル。之モオヤカタノ土地ヲツクル」。

他所から来て定住する場合、ワラジヌギと称し、親分になる家を決めて子分になる風があった。これは中国山地でも認められる。宮本は19391128日に広島県山県郡八幡村樽床(現北広島町)の旧家である後藤吾妻を訪ねた際、次のように聞いている。

「ケイヤクオヤヲ、カナオヤトモイフ。[/]タイテイタヨリニナルヨーナイエヲタノム。センゾノカンケイデアルガ、シンルイカンケイノトークナルトイフヨーナ家ヘタノンダリ、ヨソカラクレバ、ヌレワラジノイヘヲケイヤクオヤニシタ。[/]ヌレワラジ[/]ハジメテヨツテ、ワラジヲヌイダ家。[/]サイトーキウザブローガ、コビキヲシタノガ、コノ村ニ来タ。コノ家ガケイヤクオヤニナツタ。[/]アラユルコトノソーダンニノツテヤル。[/]ケイヤクゴハ盆、正月ニハモチ一重ネ位モツテ来タ」(板垣編2025:50-51)。

八幡村樽床でも他所から来た者はヌレワラジの家をケイヤクオヤ(カナオヤ)に頼み、親方・子方の交際をする風があったといえる。

さて大浦村長友では、ワラジヌギによって新たに親方・子方の関係が成立すると、子方は親方から土地を借りて小作するようになる。調査資料には「分家ハ血縁、別家ハ子分」とあり、そうした子方や奉公人の家を、血縁関係で繋がった「分家」に対し、「別家」と称していたようだ。子方としての勤めは、「盆正月ニハ餅ナドヲモツテユキ、ソーシキニハ子トシテノヤクワリガツク。クヤミモ村グヤミトシテデナク、子トシテノクヤミヲツトメル。[/]子分ハサカモリノ時ニハ膳ニスハラズ、家内ノモノトオナジクセワヲスル」というものだった。また調査資料には別家について、「土地ヲワケテモラフ外ニ小作モシテイル。一番多ク作ツテイル人デハ九反デアル。一反クライノ人モアル。[/]親分ノ家以外ノ田モツクツテイル」と書かれている。これによると、別家は親方の家のみに隷属して小作をしていたわけではなかったようだ。

この点も中国山地の地主・小作関係と共通する。宮本は19391123日に島根県邑智郡田所村鱒渕(現邑南町)の田中梅治を訪ねた際、「小作ハ1人ノ地主ノ田地ニカカル例ハ少イ。[/]中サンノーカガジブンノ土地ヲツクリ、アマツタモノヲ足ラヌ方ガ借リテ、カカツテイル」と聞いている(板垣編2025:14)。また、「イネノワルイバアイニハ、カリワケヲスル。イネワケトイフ。[/]毛状ヲミテ、5分ワケトカ6分ワケトカ云フヨウニスル。[/]地主ノ方カラ1人、小作カラモ出テ刈ツテ、イナタバイクラデワケル。[/]小作ニカラシテ、イネヲツケタママモラフモノアリ」とも聞いている(板垣編2025:14)。

田所村鱒渕でも小作は一人の地主の田地にかかることは少なかった。また、稲の出来が悪い場合、イネワケと称し、毛状を見ながら地主と小作の立会いで刈り分けをすることもあった。このような事情から、宮本は「地主小作の関係はかくて決して主従的な意味を持たない」と指摘している(宮本1976:47)。

作男と買い子

大浦村長友では作男と称する奉公人に土地を作らせるだけでなく、後には独立させてやる場合もあった。渡辺家が抱えていた奉公人について、調査資料には次のように書かれている。

「大百姓時代[/]作男五人。夫婦者ガ二組来タ。[/]他ニ女ガ2人クライ居タ。[/]渡辺弥作ガクワガシラデアツタ。ヨメヲモラツテヨクハタライタノデ、田ヲ五反ホドヤツテ独立サセ、分家サセタ。[/]今古ヤシキニイル。[/]作男ハ村ノ人ガ多カツタ。二、三男ガ奉公ニ来タ。[/]奉公人ハ三十以上ニナツテ出テイツタ。[/]大抵ツブレヤナドヲツガシタリナドシテ、本家ノ周囲ニ別家サセテイル」。

つまり、地主は奉公人に土地を作らせるだけでなく、ツブレヤ(死に絶えた家)があればその後を継がせ、分家という形で独立させていたのである。

奉公人は村の者であることが多かったが、モガミコ(最上子)ないしカイコ(買い子)と称し、山形県最上地方から麻縄で数珠つなぎにして連れてこられた子どももいた。調査資料には次のように書かれている。

「コノアタリハ、モガミコヲアサナワデジユズツナギニツナイデウリニ来タ。人ウリババナドトイツテ女モウリニ来タ。[/]年キボーコーノケイシキデ、チヨーヘイケンサマデヲカフ。[/]123才カラ21マデヲ1期トシ、十二、三円デカウタ。[/]郡山地方デハカイコトイフ。[/]コノセイドハ278年~378年ゴロマデ多ク来タ。[/]大正ニハマダ多少アツタ。ソレカラ止ンダ。[/]コノカイコガ成長シテ、カトクヲカウテオチツイタモノモアル。[/]モガミハ二軒アル。ケツコンノ時ニハ多少差ガアル。[/]カヘツタモノモアルガ、浮浪ノ徒ニナツタモノモアリ、女ハシバヒ役者ニツイテニゲタモノモアル」。

地主はモガミコを買い、年季奉公の形式で使ったが、モガミコの中にはそのまま家督を買って落ち着いた者もいた。なお、この話は「以上は民俗研究家高木誠一氏の報告である」として『日本残酷物語』第1部にも出てくる。高木家では18941月に、9歳になるモガミコを買った。その子はよく辛抱して190412月まで働いて年季明けとなり、いったん郷里に帰ったが、また出てきてずっと平地方で働いていたという(下中編1959:223-224)。『日本残酷物語』は無署名方式で執筆されているが、前掲の調査資料の存在により、この部分は宮本が書いたものと推定できる。『日本残酷物語』では食い扶持減らしのための人身売買という側面を強調して書いているが、それだけでなく、成長してこの地に落ち着いた買い子もいたのである。

田植えなどの繁忙期は奉公人をはじめ、村人総出で作業にあたった。特に「太鼓田」と称する地主の田植え行事については「ソノ家ノ田ウエニハ、田ウタヲウタフ人ナドキマツテイテ、百人モノ人ガ出タ」と書かれている。太鼓田は、中国地方に伝わる大田植と似た行事である。宮本は19391122日に島根県田所村で「大田植ハユヒデヤルノデ、小百姓モ出来タガ、三谷ノクマガヒ氏、キムラ氏ノ田植日ハキマツテイテ、ソノ日ハノゾイテ、ユヒデ各自ノイヘノタウエヲキメル。[/]クジデジユンバンヲキメル。[/]モトハゼンブユヒデヤツタモノ」と聞いている(板垣編2024:98-99)。

大田植は家の規模にかかわらず、結いの形式で行うものだった。施主になる家は固定されず、希望者が行うことができたが、太鼓田の場合は施主になる家が地主に限られ、その家々は「磐城の三太鼓田」と称されていた。このことについて宮本は、『忘れられた日本人』のなかで「西南日本に生れた私は東北日本の文化との間に多くの差を見出すとともに、またいくつかの共通したものを見出し、そういうことについていろいろ考えさせられた」と述べている(宮本1960:242-243)。

宮本は村の中での横の繋がりとともに、上下の繋がりにも注目して調査を進めていた。その上下の繋がりは決して主従的・搾取的な関係性のみを支配原理とするものではなく、互恵的な要素を多分に含んだものだった。宮本が草野村・大浦村で見出したのはそのような村の結合様式であり、その一部は中国地方をはじめ西南日本でも認められるものだった。(つづく)

引用参考文献

・板垣優河編2024『宮本常一農漁村採訪録26 昭和14年中国地方調査ノート(1)』、宮本常一記念館
・板垣優河編2025『宮本常一農漁村採訪録27 昭和14年中国地方調査ノート(2)』、宮本常一記念館
・下中邦彦編1959『日本残酷物語』第1部 貧しき人々のむれ、平凡社
・宮本常一1960『忘れられた日本人』、未来社
・宮本常一1976『中国山地民俗採訪録』(宮本常一著作集第23巻)、未来社

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