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宮本常一と農業 その21 岩手県紫波郡不動村の地主調査
宮本研究|2026年8月27日|板垣優河
岩手県紫波郡不動村
宮本は1946年8月10日から11日にかけて岩手県紫波郡不動村(現矢巾町)の菅原武夫を訪ね、地主調査を行った。不動村は盛岡の南、矢幅駅の西南に位置する農村で、西側には奥羽山脈に連なる山地があり、東側は水田地帯だった。8月10日の日記には「不動村に菅原武夫氏をとふ。雨にあふ。この人この地方の大地主。留守にて近所の家にてはなしをきいているとかへつて来る」とあり、8月11日の日記には「昼まで菅原氏の家にて地主の事についてきく。実によき人である」と書かれている(毎日新聞社2005:117)。ついでに、前回の記事で紹介した見聞録の8月10日の項には「菅原氏ヲトフニ留守ナリ。[/]ソノ分家ナル家ニユキテハナシヲキク。[/]夕方菅原氏カヘレリトテ、菅原氏ニユキ、夜1時ゴロマデハナシヲキク。報徳社ニ関係シ、農村振興ノタメニツクス。[/]温厚ナル人ナリ。[/]コノ家キハメテ大キク、ウシロニ杉ノハヤシヲ負フ」と書かれている。
宮本が訪れた菅原家は当村きっての旧家で、菅原武夫は70町歩の土地を所有する大地主で、村長を務めたこともあった。宮本がその人物を日記で「実によき人である」と書いているのは、後述するように、村落社会の推進者としてのあり方を評価したものだった。
宮本常一記念館には、この時の調査で作成した「岩手紫波郡不動村 菅原武夫氏」と題する聞書き主体の調査資料がある(文書1-1/0014/01/00)。また、それをもとにした調査報告が「一三 岩手県紫波郡不動村」として『村の旧家と村落組織Ⅱ』(宮本常一著作集第33巻)に収録されている(宮本1986)。
前回の記事で紹介した福島県草野村・大浦村の調査とともに、この不動村の調査は、宮本にとって地主・小作の関係を見直す重要なきっかけとなるものだったと筆者は考えている。以下、調査資料を軸にして検討を進める。
地主・小作関係以前
菅原家は商売を兼ねて大きくなった地主ではなく、自らも農業をやり、開墾を主として大きくなった地主だった。調査資料には「菅原氏ガココニオチツイタノハ、20代クライマヘカ。[/]ズツト百姓ノミシテイタ。[/]大正元年ゴロマデハ5丁ホドツクツテイタ。[/]馬ガ5頭。[/]作男6人。[/]下女3人。田畑ニモハタライタ」とあり、また「分家ガ本家ヘテツダイニユクノハ、田植、クサトリ。2~3日ユク。[/]スケヲクレトイツテ来タトキニユク。[/]百姓ヲ大キクシテイタトキニハ、1仕事ニ1人ハ行ツタカラ、1年ニ10日ハ出テイツタ」と書かれている。
また、菅原家では「ナゴ」というものを置いていた。ナゴは小作人の一種だが、ただの小作人よりも地主との関係が親密で、地主に宅地を支給され、家も建ててもらえた。そうした家を「ナゴカマド」と称した。調査資料には「宅地ト家ヲタテテモラツタ小作人ハ、月ニ1回丈地主ニテツダヒニ来ル。コノ小作人ハモト奉公シテイタモノ。[/]3軒アツタ」と書かれている。ナゴはもと地主の家に奉公していた者であり、地主にその生活を保障してもらう代わりに労働力を提供していた。
菅原家はもと5町歩ほどの土地(ただし調査報告には「八町歩」(宮本1986:209)と書かれている)を分家や奉公人、ナゴなども使って耕作し、準家族的な経営によって一応は大手作を成立させていた。それが「手間ガナクナツテカラ手作ヲヤメテ、人ニ貸スヤウニナツタ」とあるのは、菅原が大正以降、村長を務め、また県会議員に出るようになったからである。これにより、大半の土地を小作に出すようになった(宮本1986:219)。
宮本は調査報告のなかで、「地主小作と言ってもこの地においては両者は対立するものではなく、地主とは多く本分家関係になっているのを見る」(宮本1986:206)、また「大きな地主が分家を多く持つのは全くその所有地をこれら分家に耕作させるためだったのである。すなわち耕地を全く他人の手に任かすということは少なかった。そうすると土地が荒れるからである」と述べている(同前:218)。本家・分家の関係から地主・小作の関係が生じていったことがうかがえる。
写真1は調査資料に描かれた菅原家の分家図である。菅原家は本家(図の1)を中心にして都合9軒の分家を出し(図の2~10)、また奉公人分家も2軒(図の(一)シモカマド。また図示されていないが、調査資料には(二)として「本家ニハ、スゴヤトイフコヤガアツテソコニイタ。[/]ヨソカラ来テオケヤガイタ。50年マヘニ来タモノ。[/]ソレガ本家ノ北デ分家シテイル」と書かれている)があったことが分かる。これら家々は広い範囲に分散しており、調査資料には「本家ノ屋号ヲババトイヒ、ババヲ中心ニシタ地帯ヲババアタリトイツテイル」と書かれている。なお、分家に対して使われているカマドという呼称は、火を連想させる。火はその家にとって中心的・象徴的なものであり、その火を分けた分家をカマドと称したのだろう。
分家は本家から田畑を分け与えられ、足りない分は本家の土地や他家の土地を小作して半独立的に経営していた。こうした経営方法は青森県三戸郡平良崎村(現南部町)でも報告されている(宮本1986:235)。平良崎村の場合、分家は本家の土地を小作することが多く、一般の小作と同様に本家に労力を提供したが、これはユイとは別物で、本家の方で労力を返すことはなかったという(同前:245)。
本家・分家の関係については、分家が本家の農作業を手伝うほかに、「之等ノ人々ハ年始ト盆ニホトケサマニマイル。[/]吉凶ニ来テテツダフ。ソノ家ニシウゲンナドアルト、主人ガ行ツテシキスル」と書かれている。また本家の方は「ソーシキノ時ナドハ分家ニ対シテハアラユル用具ヲ本家カラモツテイツテセワヲスル。サウシテ塔婆マデタテテヤルコトニシテイル[/]シカシ本家ガ特別ニ権力ヲフルフ事ハ少イ」と書かれている。
このような本家・分家の関係は、相互支持的であったと言い得る。本家は分家を多く持つことによって大手作が可能になり、家としての成長があった。分家は本家を支える一方で、本家の力を借りて諸々の行事を円滑に行っていた。
このことは、調査資料に記録された菅原の次のような証言によっても裏付けることができる。「田舎ニイテ人ノタメニツクセバ、自然ニ家ハヨクナツテユク。人ガナツイテ来ル。[/]物ヲタノム慣習ガツヨイノデ、家ガソレニヨツテカヘツテ大キクナル」。
なお、不動村では「ユイ組」と称する地域団の結束が強く、田植えや草取り、稲刈りといった田仕事はほとんどこれによって進められていた。調査資料には、「ユヒ組ハ同時ニトナリグミニナツテイル。田ハ個々ガモツテイルガ、田ノ作業ハスベテ共同デアツタ」、また「手ツダヒノ人ハ、トナリグミヲ主トシテ付近ノ人ガ多イ。[/]トナリグミハ、シンセキ分家ヲ中心ニシテムスバレテイル」と書かれている。隣組は地縁的なものであり、この村では本家・分家関係という縦の繋がりだけでなく、横の繋がりもあり、それにより強固な共同体制を実現していたことがうかがえる。
農地解放に対する不安
菅原は大正以降村長や県会議員を務めるようになり、大半の土地を小作に出した。その小作人には貧しい者が多く、食料に困ると地主のところへ借りに行った。調査資料には「田植ニカリル米ヲシツケマイトイフ。トク田ノ人タチハミナシツケマイヲ1俵クライ借リテイツタ。[/]ソノ代ニ来テハタライタ。又ハ小作料ノ時ニオサメタモノデアル。[/]シツケマイノ利子ハトラナカツタ。[/]キキンノ時ニハケカチマイヲ借リニイツタ」と書かれている。「シツケマイ」や「ケカチマイ」があることで、小作人は地主からその生活を最低限保障されていた。
このような事情があるため、農地解放は小作人にとっても決して喜ばれるものではなかった。調査資料には「土地開放ハ1時喜ンデイタガ、又ケイザイデコマリハセヌカトシンパイスル向モアリ、熱意ハ大シテナイ」「土地解放ニツイテハ政府ノ意向ガヨク分ラヌ。[/]又現在ノ状況ノドコガワルイカニツイテモソノ理解ニ苦シイ。[/]地主トイフコトバニツイテハ決シテツカヒタクナイシ、マタ社会党ノ人タチトモ対立シタクナイ」と書かれている。
不動村では地主・小作の関係は小作料のみで繋がったものではなく、小作人としては農地解放によって地主との関係が切れてしまい、経済的にすがるものがなくなることを不安に感じていたようだ。
鹿妻堰耕地組合
先述のように、菅原家の経営には人のために力を尽くせば、結果的に自分の家が栄えるという考えが根底にあった。そうした思想の延長で、菅原らの発起によって起こされたのが用水工事を主とした耕地整理である。これは鹿妻堰耕地組合を設立して行われた。調査資料には「タメイケハモト1ケ村ニ80クライアツタ。20年マヘニ用水工事ヲシテ整理シタ。1市1町7ケ村デ10里ノ水路アリ。[/]岩手郡シヅク石川カラトツテイル。各村カラ反別ニヨツテ水利委員ガ出テイル。[/]1800丁ウルホス。1000丁旧田。800丁新田。[/]大正14、15、16年ノ大カンバツニコノ工事ヲオコス」と書かれている。かなり規模の大きな工事で、実際にその効果も大きかったことがうかがえる。
この工事は菅原が企画し、実行したものだったが、それは無私の精神で進められたようである。調査資料には「郡長ガ表面的ニタチ、裏デハ菅原氏ニヨツテ計画セラレタ。[/]途中浜口内閣ノ減反ニハ困ツタ。3年間助成ヲ停止サレタノデ、全ザイサンヲナゲ出シテ諸払ヲシタ。組合長ハ藤原氏デアツタ。200万円ノ予算デ120万円ノ借金ヲシタ。2人分出シテモ60万円シカアツマラヌ」と書かれている。
この工事の完成により、それまで溜池に依拠していた周辺農村は旱魃の被害を免れることができた。だが、菅原自身はその恩恵をあまり受けなかったのではないかと思われる。調査資料には「今ツクツテイル水田ハ、ツクツテクレルモノガナクテ困ツタコトガアリ、ポンプデ水ヲアゲタ。今モ水ヲアゲテイル」、また「今自作7反クライ。之デハ足ラヌ。畑ヲ田ニシテ水ヲアゲテイル。山ヲカイコンシヨウト考ヘテイル」と書かれている。これによると、自分の田には用水路から水を引くことができず、ポンプで水を揚げざるを得なかったようだ。そこでさらなる開墾に意欲を示していたのである。
ところで、宮本がこのような地主に出会ったのは、菅原武夫が初めてではなかった。宮本は1939年12月2日から12月3日にかけて、山口県玖珂郡高根村向垰(現岩国市錦町)の美島清一に話を聞いている。美島は高根村の庄屋を務めた山田家の出で、村助役から自彊会長を務めた人物である。山田利右衛門(美島の祖父)は三分一健作(山代宰判の大庄屋)とはかって金山谷(現島根県鹿足郡吉賀町)から灌漑用水路を開削する工事を起こし、それが明治初期、山田勝次郎(美島の父)の代で完成する。これにより高燥な平坦地上にも水田が作られるようになった。勝次郎はまた、勤倹貯蓄組合を作って人々を加入させ、金は自らが預かって高利を付してやった。勝次郎の後を継いだ山田武作(美島の兄)も、税金が納まらない場合は立て替えたりしていたが、そのために借財を抱え込んでしまった。武作の後を継いだ美島は自らの財産を投じて兄の借財を整理し、結果無一物になったという。
宮本は昭和54年に『読売新聞』に連載された「自伝抄―二ノ橋界隈―」で山田家のことに言及し、次のように述べている。「どのような僻地にも自分たちの住む世界を理想郷にしようと懸命になって努力し工夫している人がかならずいたもので、そういう人がまたすぐれた伝承者だったのである。民俗学という学問は単に過去の消えゆきつつある習俗を調査し記録していくものではなく、過去の生活エネルギーを現在を経て将来へどのようにつないでゆくかについてしらべる学問ではないかと思った」(宮本2002:181)。
こうした戦前に得た所感もあって、宮本は菅原武夫のことを日記に「実によき人である」と書いたのだろう。宮本が不動村の地主調査で見出したのは、地主の親方的で地域開発者的な側面だった。(つづく)
引用参考文献
・毎日新聞社2005『宮本常一写真・日記集成』別巻
・宮本常一1986『村の旧家と村落組織Ⅱ』(宮本常一著作集第33巻)、未来社
・宮本常一2002『父母の記/自伝抄』(宮本常一著作集第42巻)、未来社
