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宮本常一と農業 その22 秋田県平鹿郡浅舞町の地主調査
宮本研究|2026年9月6日|板垣優河
秋田県における地主調査
宮本は秋田県における地主の土地兼併事情を概観するなかで、一部の大地主によって農地が所有され、利益の壟断が見られる状況を「当然是正すべきもの」とみる。そのうえで次のように述べている。
「ことに大地主の大半が都市居住のいわゆる不在地主であり、土地を投資物件としてのみその村につながり、村生活の中枢として寄与するところが少ないとすれば、当然その耕地は解放せられて、不在地主が村と縁をきらなければ農民の幸福はうちたてられない。[/]しかしながらここにもこれら大いなる地主の下に数百年来の在村地主があって、これは産を殖やしもせず、黙々として村落機構の中枢をなしていた者も少なくなかった。本県における調査も以上大地主は直接村落機構と結ばれるところ少なきゆえ、これを省き、中小地主にして村落機構の中心をなすものを主たる対象としたのである」(宮本1986b:265-266)。
一口に地主といっても、都市等に居住する不在地主と、その土地に根差して村落機構の中枢を担ってきた在村地主とは分けて考える必要があり、宮本は農地解放によって前者が解体されることは喜ばしいが、後者が力を失うことには否定的だった。
例えば、宮本は秋田県仙北郡雲沢村(現仙北市)の調査で、その地域にとって肝入りの家が没落した原因として、「地主、旧家は、人のさきにたって、何か村に集まりごとのあるような時には酒を買い、餅を多くつかねばならなかった。その負担が容易でなかった」と、地主の負担の大きさを指摘する(宮本1986b:284)。地主には村落機構の中枢を担うという役割が宿命的なものとしてあり、それに耐えかねて農地解放よりも前に没落した家もあったというのである。
秋田県平鹿郡浅舞町の地主調査
秋田県平鹿郡浅舞町(現横手市平鹿町)は横手盆地の西南、平鹿平野の中心に位置する。近世には湯沢・院内に至る街道筋にあって頻繁に人馬が往来し、相当の繁栄を見せていたところである。
宮本が浅舞町を訪れたのは1946年8月29日で、翌30日まで滞在している。8月29日の日記には「横手でのりかへて浅舞に行く。野の中の古風な町である。寺田氏の家をとふ。呉服屋である。しばらくまつているとかへつて来る。はなしは地主の事になる」とあり、8月30日の日記には「朝から地主のはなしをきく。午后、菊谷君来てはなしの中に加はる。[中略]夕方町をあるいて見る。よい清水のいくつも涌き出ている町である。その水を中心にして発達して来た町なのである。夜はまた菊谷君来てはなしがはづみ、夜が更ける」と書かれている(毎日新聞社2005:118)。
浅舞町は清水の里と称され、町の中を灌漑用水路である大宮川が流れるほか、至るところに水が湧いていた。その水を利用して酒造や染物業を営む家が多く、宮本が訪ねた寺田家も、もとは染物屋、次いで糸屋、そして呉服屋をやり、その傍らで農業もしていた(宮本1986b:324)。寺田家に対する言及は少ないが、秋田県での地主調査が「中小地主にして村落機構の中心をなすものを主たる対象」にして行われていたことからすると(同前:266)、寺田家もやはり土地に根差した中小地主の一つではなかったかと思われる。
この時の聞書きは「村の調べ」と題する調査ノートに記録されている(文書1-1/0010/01/00、写真1)。また、それをもとにした調査報告が、「二一 秋田県平鹿郡浅舞町」として『村の旧家と村落組織Ⅱ』(宮本常一著作集第33巻)に収録されている(宮本1986b)。
宮本が浅舞町で捉えたのは、村の結合様式の一つである親方・子方の関係が、その有機的な連絡を次第に喪失し、ほとんど小作料のみで繋がった地主・小作の関係へと変容していく過程だった。以下、主として調査ノートによってその詳細を検討することにしたい。
土地兼併の発達
浅舞町は街道筋に位置していたことから問屋業などを営む者もおり、藩政時代には100町歩以上を有する大きな地主もいたようである。しかし、これは経済的に時代に即応しなかったために産を失ったとされている(宮本1986b:322)。次に地主が大きくなり始めるのは明治中頃である。調査ノートには「地主ガ土地ヲアツメハジメタノハ、明治15、6年頃カラガ大キイ。[/]百姓ノ没落ハ凶作ガ大キナ原因デアルガ、幕末カラ明治ノハジメニ年貢ガ重クテ、田ヲ持ツコトガコンナンデ、田ニ酒ヲツケテ人ニクレテヤツタトイフ。[/]士族ノ目サキノキイタモノガ土地ヲアツメタ。[/]麻ソノ他ノモノヲツクラナクナリ、商業ノハツタツニトモナヒ、土地ヲカヒアツメテイツタ。[/]金ノ負担ニタエカネテ土地ヲ手バナシタ」と書かれている。
明治時代に入って土地兼併が急速に進んだ理由として、宮本が指摘するのは、租税の金納化と幣制改革である。『村の旧家と村落組織Ⅱ』所収の「秋田県における地主土地兼併事情」では次のように述べている。「それまで、農村においては貨幣の保有流通はきわめて少なく、税もまた米をもって納められたため、直接都市において台頭しつつあった金融資本経済の影響を蒙むることはきわめて少なかったが、明治に入って税の金納化が実現するや、農民は否応なしに貨幣を中心とする経済社会に結びつかざるを得なくなり、ここに現物を金銭化する方向に進むに至った。しかしながら現物の換金化は容易でなく、金納困難なる者は土地の商業経営者または富有なる者から借金して納税するほかなく、ここに農民の顚落が見られるに至った。特に明治一四年より一七年に至る幣制改革に伴う混乱は言語に絶するもので、貨幣の経済的価値を知らざる農民はこれに対処する方法を知らず、高利資本に身を食われて、何らの贅沢と事業経営の失敗を見ずして貧農化していった」(宮本1986b:257)。
この変革により、浅舞町でも土地の買い集めが進められた。調査ノートには「土地ヲ手バナシタ人々、全体的ニテンラクシタ。[/]アサマイハ、アルトキハ600丁クライマデニヘリ、400丁ブヲ他町村ニトラレタコトガアル。[/]今1000丁ブニカイフクシテイル」と書かれている。宮本が調査した時点では浅舞町には大きな地主は何ほども残っておらず、いずれも20町歩内外の土地を所有する中小地主だった。それらは、ずっと古くから地主として続いてきた家か、町で染物業などを営んでいた家だったという(宮本1986b:323)。宮本が見定めようとしたのは、そうした土地に根差した中小地主を核とする地域社会の結合様式だった。
階級のある社会
調査ノートを読んでいると、浅舞町にはいくつかの階級があり、それら相対立するというよりも、むしろ相補的に連絡し合うことで、全体として社会の秩序が維持されていたのではないかと思える節がある。
まず、上位に位置するのは「オヤカタ(親方)」である。これは村の開拓にあたり、草分けになった旧家である。調査ノートには「クサワケニナツタ家々ハ、今モ中心勢力ヲシメテイル。[/]地主小作ノカンケイヲヌキニシテ、オヤカタトヨンデイル。併シ別ニジンギハキラナイ。[/]村ノ中ニハ1人カ2人ノオヤカタガイル。[/]ソノオヤカタニ対スル子方ノ従属関係ハナイ。[/]オヤカタハマツリ、自治的ナキヤク(ナワテカラ草ヲ刈ツタモノ)、田セキノゴミヲアゲル(人ノ田カラゴミヲアゲルコトハイケヌ)、セキカシラナド、オヤカタガ中心ニナル」「ブラクノオヤカタトイハレル家ハ、別ニ変遷ハナイ。[/]家ヤシキヲ失ツタトイフヤウナモノハ少イ。[/]オヤカタハ土地ノ10丁ブモモツテ自分ノ家デモツクリ、人ニモツクラセテイル」「オヤカタノ家4~6丁位。[/]ワカゼ3~5人。[/]メラシ2人」と書かれている。親方は古くから土地に根差した中小地主であるとともに、その地域のなかでは権威的な存在であり、自らでも手作し、手の足りない部分を後述する奉公人に作らせていた。
この親方より一段劣る階級に「ドノ」がある。調査ノートには「オヤカタヨリヤヤオトルモノヲドノトイフ。[/]カイキウガアル。○○ドノト称シタ。[/]自作農(今日ノテキセイ農家)デ、多少人ノセワモ出来ル人デアル。[/]浅舞町600戸ノ農家ハソノ十分ノ一位アル。[/]之ガ農村ノ中心ニナリ、今実行クミアヒ長ナドニナツテイル」と書かれている。自作農のうち、適正規模の経営をやっている者のことをドノと称したようである。なお、経営規模について、ノートには「1夫婦ノ耕作面積1丁歩」「中堅農家2丁歩位」と書かれている。
そして階級は下がるが、「ワカゼ」や「メラシ」と称する奉公人がおり、親方階級はこれら奉公人をおいて耕作に当たらせていた。調査ノートには、「ワカゼハレイサイ農ノ2、3男。大体近傍ノ人デアル。[/]横手山内ノ2、3男ガ身ウリニ出ル。ヨコテヘ出ルトカヒニユクモノガアル。ワカゼ市トイフ。[/]山内ニハ農地ガナクテ、労力ガアマツテイル。[/]ワカゼノトリヒキハ、旧12月25日デアルタ。[/]ワカゼノトコマクリトイフ。[/]フトンハ自分ガ持ツテ来テイルノデ、ソレヲモツテカヘルカラ。[/]之ハ1年交代ノワカゼニ多イ。[/]ソノ日ノ午前ニトコヲマクツテアタラシイオヤカタノトコロニユク」と書かれている。
ワカゼは親方の近くにいることが多かったが、横手山内地方の零細農の二、三男が自らを身売りしてくる場合もあり、その取り引きは「ワカゼ市」と称する市で行われた。ワカゼの中にも年齢や実力による階級差があり、ワカゼの頭で最も実力のあるものは「代官」と称した。調査ノートには「之ガクワガシラヲスル。[/]親方ノカハリニナツテ色々ノサシズモスル」と書かれている。
「メラシ」については「キウリヨーハタベサセテキモノヲヤリ、ヨメイリノシタクヲスル。[/]小学校ヲオヘテヨメニイクマデ。[/]メラシハ大体長ク居ルモノデアル。[/]サイホーヲナラツタリ、ニタキヲナラツタリシテ、一人マヘニナル」と書かれている。メラシは一人前になるための修養を兼ねた奉公人であり、親方はその嫁入りの支度をしてやったようである。
以上のような奉公人とは別に、「ヒデマドリ」と称して臨時で雇われる者もいた。調査ノートには「土地ヲモタナイデ百姓シゴトヲシタリ、土木仕事ヲシテマハル。小作人ノ分家ガ多イ」と書かれている。ヒデマドリは、ドノ階級をはじめ自作農家に雇われたものである。
このように、浅舞町には親方やドノを上位、ワカゼやメラシ、ヒデマドリなどを下位とする階級あったが、各自が宿命的に課せられた役割を果たすことで、保守的ではあるが村が維持されていたように見える。これに風穴をあけるものがあるとすれば、先に見た明治以降の貨幣経済の浸透だった。しかし、それは必ずしもプラスに作用せず、むしろマイナスに作用することが多かった。
もっとも、このような階級分化は、西南日本ではそれほど顕著ではなかったと思われる。宮本が調査した福岡県早良郡脇山村(現福岡市)の場合、地主は土地を小作させる時は親戚や仲の良い人に貸す場合が多く、したがって小作人は地主へ隷属しているわけではなく、むしろ地主から頼まれて作っているのだから、地主の家が忙しくても手伝いに行くことはなかった。つまり、地主・小作の関係は対等に近いものであったといえる。ただし、年季奉公をした後に、奉公先の土地を作るようになった者も一部おり、その場合は盆正月に地主の家に挨拶に行き、見舞ごとには親戚の末端に連なった。それでも地主の家への労働奉仕はなかったという。こうした小作は「きわめて例が少ない」と報告されている(宮本1986a:90-91)。このことから、東北日本と西南日本では村落結合のあり方が少なからず相違したことがうかがえる。なお、西南日本の事例については次回の記事で検討することにしたい。
有機的な繋がりの喪失
宮本は浅舞町の調査報告のなかで、「もと小作人は親方の家に奉公していた者が、長年勤めたことによって独立する時、田をわけてもらったのを主体としていたようである。この場合小さい家をたててやることもあった。このように財産を分けて独立させることを別家とはいわなかった。むしろただ子方と言っていた。この場合地主の家を親方とよび、子方を出入とも呼んだ」と書いている(宮本1986b:326)。貨幣経済が浸透し、小作料のみで繋がった地主・小作関係が出現するよりも前に、出入関係によって繋がった親方・子方関係があった。一口に小作人といっても、親方と出入関係によって有機的に結び付いた小作人と、出入関係を持たず、親方から小作料のみを事務的に徴収される小作人がおり、貨幣経済の浸透により、後者のタイプの小作人が増えてきたというのである。
なお、地主・小作の関係が、もとは親方・子方の関係に端を発し、年季奉公人が段々に小作人に進んでいったことは、柳田國男も『都市と農村』のなかで指摘している。「奉公は使はれる者の家庭から見ると、是も一種の分家方法に相違無いのだが、一枚の田もくれずに子供を村から外へ出すことを、昔の農民は分家とは謂はなかつた。[中略]兼て定めの年季が終りになると、家を持たせ又女房の世話をして、ほんの僅かの作り高を下請けさせ、之を永代の子方とすること、是が最初からの双方の合意であつた」と述べている(柳田1962:323)。柳田は小作の起源として奉公人の存在に目を向けているが、宮本の調査はその実態を確認するものでもあった。
調査ノートには先述のワカゼについて「ソノ条件トシテ独立スルトキ自作田ヲワケテヤルコトニシテイル。[/]5丁歩ツクレバ5人ノワカゼヲオクコトニシテイル。[/]コノヤウナ財産ヲワケルコトヲ別家トハ云ハナイ。[/]家ハ小サイモノヲタテル」と書かれている。またワカゼ中の代官について、「メラシトケツコンシテ、オヤカタノ家ニイル代官モイタ。[/]ソノタメニオヤカタハ田ヲワケテ小作サセル例モアツタ。ワケテモラフノハ1丁未満デアル。[/]後ニ家モタテテモラフ」と書かれている。このことから、親方のもとで奉公していた者は、後に田を分けてもらい、半独立的に小作する場合もあったことが分かる。そして、その場合の小作は、親方との出入関係のもとで行われていたといえる。
この出入関係について、調査ノートには次のように書かれている。「地主ノ家ヲオヤカタト云ヒ、出入ハオヤカタノ家ノテツダヒニユキ、給金ヲ得ル。[/]旧イ自作農ノウチニ之ヲミルコトガ出来ル。[/]一切ノ地主ヲオヤカタトイヒ、小作ヲ子方トイツテイル。小作人ハオヤカタノカンコンソーサイニハアツマリ、オヤカタモ出テイツタ。[/]正月ニハ子方ハモチ、ノーサン物ヲモツイテイツタ。[/]モメンノハオリヲキテイツタ。アイサツハダイドコロデシタ。[/]オヤカタノ方ハゼンヲ出シタガ、ハンザツナノデ、今、日ヲキメテフルマツテイル。[/]日ヲキメテフルマフヤウニナツタノハ14、5年クライニナル。[/]カンコンソーサイノ時ハタダデテツダヒ、アトオヤカタハモノデオ礼ヲシタ。[/]地主デ家ヲタテルトキナドハ、子方ニ労力ヲアツセンシテモラツタ。[/]子方ノカンコンソーサイニハ、オヤカタハ正座ニスハツタモノ」。
かつての地主・小作の間には、相互支持的な交流があったといえる。
このような関係性は浅舞町に限ったものではなかった。山形県東置賜郡赤湯町御殿守(現南陽市)では、出入関係のある小作人は地主の吉凶や仕事の忙しい時に手伝いに行き、それに対して地主はオテツダイと称してご馳走した。また、地主は出入小作の幸不幸に行って面倒を見たり、金融の世話をしたりもした(宮本1986b:204)。新潟県三島郡来迎寺村(現長岡市)では小作人は地主に田を借りているので、その礼勤めをする気持ちで田植えには無代で働きに出る風があり、そうした小作人をタウドと称した。年末になると地主はタウドを招いてトウドヨビと称してご馳走した。その日は小作の家族全部を招き、土産を持たせて帰した。タウドに薪や金が足りない場合は地主の方で面倒を見たが、これは戦争の途中でやんだという(宮本1986b:197)。
なお、親方との出入関係のほかに、若者組をはじめとする年齢階梯的な結合、明神講をはじめとする信仰を中心とした講中などがあったが、これらも共同生活を緊密にするうえで有効に機能した。調査ノートには「ソーシキノタスケアヒ」について「向フ三軒両トナリハ、シンセキツキアヒヲスル」とあり、冠婚葬祭を円滑に執り行うには、タテの繋がりとともにヨコの繋がりも重要だったといえる。
しかし、後には出入関係を持たず、小作料のみで繋がった小作人が増えてくる。その新しい地主・小作の関係は金銭を媒介とした事務的なものだった。調査ノートには「那波氏ノバアイハ、小作人ノウチノ実力アルモノヲ小作ノトリタテニアテテイル。[/]米ハトリタテ人ニワタス。ヒカヘ人トイフ」とあり、親方の代理で小作料を徴収する者もいたことが分かる。また、出入関係のある小作人は親方の近くに住み、地主と直接交流があったが、出入関係がない小作人はそうとは限らなかった。調査ノートには「小作人ノ耕作地ハ甚ダ分散シテイル。[/]耕地ノ遠イ所ハ半里クライノ所ガアル。[中略]小作地ヲマタガシスル風ハアツタ。[/]オヤカタニ知ラセナイデ、1個ノ考デユヅル風ガ見ラレタコトガアル」とある。耕地の遠方化と分散化が小作人をしてその農業経営を不利なものにするとともに、地主・小作の距離が物理的にも精神的にも薄れていったことがうかがえる。
同様の事情は秋田県仙北郡横堀村(現大仙市)でも報告されている。横堀村では不在地主と小作人の間に立って小作料の折衝などをするニナイと称する者がいたが、それが中間地主的になって財産をつくる場合も少なくなかったという。小作人の中には小作に転落後も地主に金を借りなければ生活が成り立たないことが多かった。高利に対して払えない場合は地主に雇われて労役に出たが、それでも借金の片が付けられない場合は娘などを売ることもあったという(宮本1986b:302-303)。
小作人がただ小作料のみを通じて地主と関係するようになると、地主としては小作料を徴収できればそれでよいわけで、小作人は親方からその生活を保障されにくくなる。調査ノートには、「地主ガ小作ニ対シテハ不作ノ時ニハ毛引スル位ノモノ。[/]村ノオヤカタガ子方ヲ救助スル風ハナイ」と書かれている。また「女ノ子ヲ女郎ニウルコトハ、昭7、8年ニハ多カツタ。貧困ノ家ニハ之ガヨク見ラレル」とあり、親方に奉公人として回収されることなく身売りされる子女が増えたことがうかがえる。実際に、宮本も戦後秋田県の山中でそういう話をもちかけられたことがあったという(宮本1965:148)。
宮本は調査報告で「小作人が単に小作料を通じて親方と結ばれるようになってから小作人の位置は著しく悪くなった。[中略]小作人の位置は地主から有機的な連絡を失って見ると特にみじめであって負担のみが増大し、小作人にして出世して親方になった者はない」と指摘する(宮本1986b:327-328)。小作人からすると、親方との有機的な連絡が切れてしまいその生活が補償されなくなることは問題であった。(つづく)
引用参考文献
・毎日新聞社2005『宮本常一写真・日記集成』別巻
・宮本常一1965『生業の推移』(日本の民俗第3巻)、河出書房新社
・宮本常一1986a『村の旧家と村落組織』Ⅰ(宮本常一著作集第32巻)、未来社
・宮本常一1986b『村の旧家と村落組織』Ⅱ(宮本常一著作集第33巻)、未来社
・柳田國男1962『定本 柳田國男集』第16巻、筑摩書房
